亀山は東海道鈴鹿峠を押さえる交通の要でした。文永元年、関実忠が亀山城を築城しました。天正18年(1590)蒲生氏郷が会津転封になり、関一政は蒲生氏が治めていた白河へ5万石の大名として移封しました。亀山城には岡本宗憲が2万2千石で入り東南の丘陵に新しい亀山城を築いたのでした。
三宅康盛の代のとき、幕府は堀尾忠晴に亀山城修築を命じました。寛永9年(1633)、忠晴が天守を解体後、修築するのは明智光秀の居城だった丹波の亀山城だったと判明しました。それ以後、天守閣の再建は許されず、天守台には多門櫓が建ったということです。
三宅康盛の代のとき、幕府は堀尾忠晴に亀山城修築を命じました。寛永9年(1633)、忠晴が天守を解体後、修築するのは明智光秀の居城だった丹波の亀山城だったと判明しました。それ以後、天守閣の再建は許されず、天守台には多門櫓が建ったということです。