京都府京都市左京区南禅寺福地町に南禅寺があります。
南禅寺は臨済宗南禅寺派の大本山で、正式には瑞龍山太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)という長い寺名です。この場所は三井寺の「駒の僧正」とよばれた道智の最勝光院があったとされる所です。亀山天皇がここを離宮としましたが道智の怨霊が日夜出没したそうです。
祈祷師などにお払いをしてもらっても効き目がなく、東福寺3世の無関普門(むかんふもん)(大明国師)を招いたところ、霊が出なくなったそうです。亀山天皇は無関に深く帰依し、正応4年(1291)に離宮を禅寺に改め禅林禅寺とし、無関を開山として招きました。
亀山法皇は建長元年(1249)、後嵯峨上皇の皇子として生まれ、10歳で皇位に就かれ、上皇の時には蒙古来襲という国難に対処しています。無関の跡を継いだ規庵祖円(きあんそえん)(南院国師)は仏殿、七堂伽藍を完成し、正安年間(1299-1302)に太平興国南禅禅寺と寺名を改めました。
3世の一山一寧(妙慈弘済大師)は元弘の後に元朝より平和交渉の使僧として来日した人です。北条貞時によりスパイ容疑で修善寺に幽閉されましたが、のちに建長寺の10世となり、後宇多天皇の懇願で南禅寺3世になりました。南禅寺は至徳3年(1386)に五山(天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)の上のお寺とされました。
南禅寺はその後も著名の禅僧が歴代住持として住山して五山文学の中心地として栄えました。明徳4年(1393)、文安4年(1447)に火災に遭い、伽藍が焼失し、再建後の応仁元年(1467)、応仁の乱で灰燼に帰しました。266世の玄甫霊三の時に法堂が完成し秀吉より800石を賜りました。
270世で、金地院3世の以心崇伝(いしんすうでん)は徳川家康の信任を得て、幕府の外交事務の担当し、黒衣の宰相ともいわれました。 元和5年(1619)には相国寺にかわり「天下僧録司」に任ぜられました。慶長10年(1605)に崇伝が入寺してから諸堂が整備され、繁栄しました。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/
日本一周 ブログランキングへ
にほんブログ村
http://blog.fc2.com/