白鶴城や酔月城とも呼ばれた小諸城の跡です。城下町よりも低い位置にある「穴城」として全国的に珍しい存在で、天然の要塞となっている深い空堀や苔むした野面積みの石垣が昔日を偲ばせています。
小諸城は千曲川沿いの断崖に面して建っていて、要害堅固な城です。入り口の三の門(重文)には徳川家達(いえさと)公の筆になる“懐古園”の額が掛っています。
この城は、もともと長享元(1487)年に大井光忠が築いた鍋蓋城が前身となっています。天文22(1553)年に武田信玄によって陥落させられると、以降は武田氏の小県攻略の橋頭堡として整備されました。このとき城の改修を担当したのが、馬場信房と山本勘助であると伝えられています。
千曲川の急流、廻りの断崖、そして土質が浅間山の火山灰でできているために、崩れやすくなっていました。縄張り自体も三角形で山本勘助の築城技術の粋を極めたものと思えます。
武田氏が滅亡後、織田氏、北条氏、徳川氏と様々な主の下を転々とし、後に小田原攻めで功のあった千石秀久が入封しました。このときにかなり大規模な改修が行なわれ、小諸城は近世的な城となりました。
園内には藤村記念館、小山敬三美術館、徴古館、郷土博物館、動物園、遊園地などがあります。二の丸の石垣には若山牧水歌碑が、千曲川を望んでは藤村詩碑が建てられています。
小諸城は千曲川沿いの断崖に面して建っていて、要害堅固な城です。入り口の三の門(重文)には徳川家達(いえさと)公の筆になる“懐古園”の額が掛っています。
この城は、もともと長享元(1487)年に大井光忠が築いた鍋蓋城が前身となっています。天文22(1553)年に武田信玄によって陥落させられると、以降は武田氏の小県攻略の橋頭堡として整備されました。このとき城の改修を担当したのが、馬場信房と山本勘助であると伝えられています。
千曲川の急流、廻りの断崖、そして土質が浅間山の火山灰でできているために、崩れやすくなっていました。縄張り自体も三角形で山本勘助の築城技術の粋を極めたものと思えます。
武田氏が滅亡後、織田氏、北条氏、徳川氏と様々な主の下を転々とし、後に小田原攻めで功のあった千石秀久が入封しました。このときにかなり大規模な改修が行なわれ、小諸城は近世的な城となりました。
園内には藤村記念館、小山敬三美術館、徴古館、郷土博物館、動物園、遊園地などがあります。二の丸の石垣には若山牧水歌碑が、千曲川を望んでは藤村詩碑が建てられています。