旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

月窓寺

2007年05月31日 | 旅 歴史
 月窓寺は上田市中央6-1-13(鍛冶町)にあります。永禄元年(1558)常田隆永が常田に堂宇を建立したのが月窓寺のはじまりだそうです。第一次上田合戦で焼失し、その後この鍛冶町に再建されたそうです。
 真田幸村(信繁)の法名は月窓伝心というそうです。そのため幸村が月窓寺を再興したともいわれています。寺号も伝心山月窓寺から伝叟山月窓寺となったそうです。月窓寺の唐門は竜宮城を連想させます。禅宗である曹洞宗のお寺とは思えません。下層天井には龍の鏝(こて)絵が描かれています。
 月窓寺には幕末に薩摩藩士により暗殺された軍学者赤松小三郎の遺髪の墓があります。赤松小三郎は天保2年(1831)に生まれました。 勝海舟の門下生となり長崎の海軍伝習所で学びました。英国式兵法に精通し慶応2年(1866)京都の薩摩藩邸で軍事教練を指導しました。慶応3年(1867)議会政治を要求して政治改革建白書なども提出しています。その年に幕府のスパイだと疑われ薩摩藩士により暗殺されてしまいました。弱冠37才だったそうです。

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願行寺

2007年05月30日 | 旅 歴史
 上田市中央2にある願行寺です。始めは東御市の海野郷と呼ばれる所にあったそうです。真田昌幸は天正14年(1586)上田城下に移転させたそうです。元和7年(1621)二代目上田城主真田信之によって、海野町の東方の現在地へ移されたそうです。
 願行寺の山門は四脚門で、軒の中央部が上の方へ丸くなっている唐破風(からはふ)や妻飾りなどに桃山建築の様式がうかがえます。乳金物付きの厚手の扉、前後四本の太い角柱は見応えがあります。
 願行寺は大門町が開かれる以前は、海野町東方の突き当りに建てられていたそうです。大正14年(1925)上田丸子電鉄丸子線の発着駅として「上田東駅」が開設されました。大門町という名も山門から名付けられたそうです。
 今はこの電車の線路はなくなり駐車場になっています。大門町の道が延長された時、四脚門も移され、お寺は道によって分断されたのです。
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西光寺

2007年05月24日 | 旅 歴史
 上田市の富士山(ふじやま)にある西光寺です。
 正応4年(1291)に塩田北条氏が開基となり、足利市の足利鶏足(けいそく)寺の実勝和尚を招き開山したそうです。古堂より大日如来を移して西光寺の本尊にしたといわれています。
 西光寺の阿弥陀堂は県宝に指定されています。普通、阿弥陀堂は方三間の宝形造りが多いのですがこの堂の場合は奥行きが深くなっています。正面三間(5.45m)で奥行きは四間(7.27m)で前方柱間一つ分が吹き放ちの拝所となっている変わった造りです。延宝6年(1678)西光寺は前山寺の末寺となったそうです。享保元年(1716)に本堂が再建され、宝暦6年(1756)山門である鐘楼門が建てられています。
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大輪寺

2007年05月03日 | 旅 歴史
上田市中央北にある大輪寺です。立派な山門は上田では最大で楼門形式になっています。左右に回廊がめぐらされ、下は堀となっていて、いざという時には城郭の役割も担えた造りです。本堂は宝永2年(1705)に再建された大きな堂宇です。大棟には真田家の六文銭が飾られています。
ここには寒松院の墓があります。真田昌幸の夫人で、長男信之(のぶゆき)、次男の幸村こと信繁(のぶしけ)の生母になります。武田信玄の養女として嫁いだそうです。生前は山之手殿、または京の御前と呼ばれていたそうです。甲斐の新府城や大阪城に人質として送られたそうです。
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佐久間象山も学んだ上田市常田にある毘沙門堂です。

2007年05月01日 | 旅 歴史
信州大学繊維学部付近にこの小さな毘沙門堂があります。ここを有名にした人は活文(かつもん)禅師です。
活文禅師は松代藩士の子として生まれ、10才の時、長和町の信定寺に入り得度したそうです。25才の時に長崎へ遊学し書や清の言葉などを習得したそうです。
江戸に出た後、文化4年(1805)信定寺に戻り、住職になったそうです。14年後、上田の龍洞院の住職になりました。文政12年(1829)住職をやめていた禅師はこの毘沙門堂に移りました。
門下生の中には佐久間象山、赤松小三郎など多くの進取の若者がいました。象山、小布施の豪商・高井鴻山、山寺常山は活文門下の三山とうたわれたそうです。
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