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旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

塩野神社

2007年08月31日 | 旅 歴史
深い森につつまれた塩野にひっそりと塩野神社は建っています。この神社は千数百年も前に独鈷山の頂上付近の鷲ケ峰に祀ったのがはじまりといわれています。そのあたりは塩野川の源流となるいくつもの沢がある所で、塩田平をうるおす水の神として信仰されてきたということです。
境内はスギの大木などが濃い影をおとしています。独鈷山の清らかな湧き水が滝となって流れ、塩野川の清い水の上には、木造の太鼓橋がかけられています。
歴史的には古代の文書である「三代実録」に貞観十五年(873)四月五日「信濃国塩野の神」に正六位上という位〔くらい〕がおくられたとあります。また「延喜式」という書物にも記されているそうです。
戦国時代には武田信玄や真田昌幸、信之らが信仰を寄せて古文書などが残されているということです。
橋を渡ると拝殿と本殿があります。楼閣造りの拝殿は江戸時代の建築物で寛保3年(1743)に再建された美しい建築です。拝殿の竜(彫刻)は夜になると御神木に上って遊びまわるので、村人が相談して竜の眼をえぐり取ってしまった、という民話も残っているそうです。
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塩田城

2007年08月28日 | 旅 歴史
塩田城は昭和45年(1970)に県史跡に指定されました。城址は北端160m、中央の最広部180m、南北700mの広大な地籍です。その北方に古い町割が南北700m、東西210mに及ぶ典型的な侍屋敷跡を残しています。
 塩田城は鎌倉時代中期の建治3年(1277)鎌倉幕府の執権北条時宗の連署であった北条義政がこの地に移り、館を構えたところから始まります。義政の子、国時、その子俊時と三代にわたり約60年、塩田北条と称して、信濃の一大勢力としてこの地を統治しました。元弘3年(1333)鎌倉幕府の運命が危うくなったとき「いざ鎌倉」と一族をあげて支援に駆けつけました。奮戦むなしく幕府とともに滅亡しました。
 塩田城は、独鈷山山麓の「弘法山」全山を城砦化したもので、規模の大きな山城の多い信濃国でも随一の規模を誇る城でした。北条氏滅亡後、塩田は新田軍に属し功績のあった村上信貞に恩賞として与えられました。重臣福沢氏が代官としてここを統治しました。塩田城は政治の中心として重要な役割を果たしていました。その中心となる代官所が置かれたのも「塩田城」だったのです。
 信濃進出を図る武田勢と村上義清は何度も戦っています。最後に義清は逃走し、越後の長尾景虎に救援を受けました。そして再び義清は塩田城に籠もったのでした。
 天文22年(1553)武田信玄に攻められて塩田城は落城しました。小県地方に侵攻をはじめてから12年の歳月をかけて、やっと塩田城を攻略し、はじめて北信濃をのぞく全信州を手中とすることができたのです。信玄はこの塩田城の戦略上の重要性に注目して重臣飯富(おぶ)氏をこの城に置き、自らもここに滞在して東信濃の拠点としました。真田氏が上田城を築くまで約30年間軍政両面の拠点でした。
天正10年(1582)3月、武田氏が滅亡すると、塩田城は真田昌幸(幸村の父)の支配下に入りました。そして天正11年(1583)の上田城築城により廃城となったのです。
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塩田城

2007年08月28日 | 旅 歴史
塩田城は昭和45年(1970)に県史跡に指定されました。城址は北端160m、中央の最広部180m、南北700mの広大な地籍です。その北方に古い町割が南北700m、東西210mに及ぶ典型的な侍屋敷跡を残しています。
 塩田城は鎌倉時代中期の建治3年(1277)鎌倉幕府の執権北条時宗の連署であった北条義政がこの地に移り、館を構えたところから始まります。義政の子、国時、その子俊時と三代にわたり約60年、塩田北条と称して、信濃の一大勢力としてこの地を統治しました。元弘3年(1333)鎌倉幕府の運命が危うくなったとき「いざ鎌倉」と一族をあげて支援に駆けつけました。奮戦むなしく幕府とともに滅亡しました。
 塩田城は、独鈷山山麓の「弘法山」全山を城砦化したもので、規模の大きな山城の多い信濃国でも随一の規模を誇る城でした。北条氏滅亡後、塩田は新田軍に属し功績のあった村上信貞に恩賞として与えられました。重臣福沢氏が代官としてここを統治しました。塩田城は政治の中心として重要な役割を果たしていました。その中心となる代官所が置かれたのも「塩田城」だったのです。
 信濃進出を図る武田勢と村上義清は何度も戦っています。最後に義清は逃走し、越後の長尾景虎に救援を受けました。そして再び義清は塩田城に籠もったのでした。
 天文22年(1553)武田信玄に攻められて塩田城は落城しました。小県地方に侵攻をはじめてから12年の歳月をかけて、やっと塩田城を攻略し、はじめて北信濃をのぞく全信州を手中とすることができたのです。信玄はこの塩田城の戦略上の重要性に注目して重臣飯富(おぶ)氏をこの城に置き、自らもここに滞在して東信濃の拠点としました。真田氏が上田城を築くまで約30年間軍政両面の拠点でした。
天正10年(1582)3月、武田氏が滅亡すると、塩田城は真田昌幸(幸村の父)の支配下に入りました。そして天正11年(1583)の上田城築城により廃城となったのです。
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龍光院

2007年08月27日 | 旅 歴史
 龍光院は上田市東前山にあります。弘安五年(1282)塩田城主北条陸奥守入道道祐(北条国時)によって父義政公の菩提を弔うために建立されました。月湲(げっけい)和尚が開祖です。
宝珠山龍光院の本堂から300mほど離れたところにある黒門の脇に、大ケヤキが立っています。樹高は26mほどで目通り幹囲は6.27mと書いてありました。樹齢300年以上ともいわれています。隣には大スギもそびえています。幹囲は2.66mです。黒門は享保17年(1732)の火災からものがれています。本堂へ続く参道は趣があります。
 塩田の北条氏は三代五十余年、この塩田地方で栄えましたが元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉を攻めたため塩田一族は応戦に馳せ参じました。
しかし利あらず再びこの地に戻ることはできませんでした。
 四季の花や鳥、中国の有名な七賢人を描いた見ごとなもので、永琳の代表作といわれています。四季の花鳥と七賢人が六曲一双の十二枚に描かれた大作です。
永琳は明和4年(1767)前山の保科弥惣右ヱ門の二男として生まれました。江戸に上り狩野高信の門に入りました。師の信頼が厚く、師に代わって京都御所に龍を描き、その完成間近にして同門のねたむところとなり、41歳で非業の最期をとげたといわれています。
 黒門に続く長い参道の傍らの小高い場所に「お開基様」と地元の人たちに親しまれている、無銘の石塔があります。これが塩田北条氏の祖、北条義政公の墓とされています。


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野倉の夫婦道祖神

2007年08月26日 | 旅 歴史
 野倉の夫婦道祖神です。
 上田市別所温泉の南に野倉のがあります。標高700mほどの田んぼに囲まれたのどかなところです。
バス停から歩いていくと人の家の庭みたいな所にこの夫婦道祖神は鎮座しています。
 上田・小県(ちいさがた)地方に残されている道祖神にはいろいろな種類のものが残っていますが、この道祖神のように、自然石の前面を円形に掘り、その中に男神・女神の像を刻んだ物は、本当に珍しいものです。
男神は衣冠束帯、女神は十二単衣の服装です。互いに肩に手をかけあい、女神が男神の手をにぎりしめ、目を細くして 二神が笑みをたたえています。本当にほほえましい道祖神です。
 家庭円満・子宝の神として信仰され、また縁結びの神として信仰厚く遠方から訪れる人も多いということである。毎年2月上旬の祭日には、餅俵を付けて参拝する行事が昔ながらに行われているそうです。
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北向観音

2007年08月25日 | 旅 歴史
 北向観音は上田市別所温泉にあります。天台宗の慈覚大師が創建と伝えられます。この本堂に安置している本尊は千手観音菩薩です。南面の善光寺に相対しているところから昔から善光寺参りのあとは北向観音にお参りに訪れるようになりました。名のとおり北を向いています。南向きの長野・善光寺の阿弥陀如来と向き合っていて、善光寺に参詣したら北向観音にも参拝しないと片参りになって願い事がかなわないと言われています。
 愛染堂の前には慈悲の湯があります。この源泉は北向観音から湧出しています。口をすすぎ手を清めて参拝します。北向観音の歴史は古く、825年の創建でする。昔から日本全国の人々の信仰を集め厄除け観音として有名です。
「愛染かつら」は縁結びの霊木として古くから知られていたようです。愛染明王は、密教では息災・敬愛の本尊様でありましたが、後に、恋愛の祈祷、染め物業者や水商売の女性から支持を得ていたといわれています。
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生島足島神社

2007年08月24日 | 旅 歴史
 上田市下之郷にある生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)です。この神社の歴史は古く、967年に施行された延喜式にも名神神社として記載されています。本殿は、周囲を池で囲まれた小島の上に立ち、古代の神社の形態を現在に残しています。 現在の社殿は昭和15年に国費をもって竣工したものです。内殿は平成10年9月「県宝」に指定されました。
 本殿に正対するように摂社諏訪社本殿(上田市指定文化財)が建てられています。この神社は最も古い神宮のあり方を伝えています。約1300年前に国造の位を朝廷から拝命した信州の豪族が宮巾より、生島の神、足島の神を分祀したものといわれます。
 平安時代初期にまとめられた延喜式に「生島足島神社二座名神大」と載っています。中世未期以降には、「下之郷大明神」「諏方法性大明神」などと呼ばれ、武田氏や歴代上田藩主の保護を受けてきました。寛政十一年(1799)に社名を生島足島神社に改めたそうです。
 大嘗祭〔だいじようさい〕・新嘗祭〔にいなめさい〕など宮中に伝わる神事に通じるところがあり、神社本殿の古い形式を伝えた建物と考えることができます。
生島神は万物を生育させる生国魂(いくたま)の神です。足島神は万物に満足を与える足国魂(あしくにたま)の神です。共に日本全体の国の御霊として奉祀され、太古より日本総鎮守と仰がれる極めて古い由緒を持つ大神です。生島神・足島神は日本国土生成の霊なのです。
 天文22年(1553)、東信濃を攻略した武田信玄はまずここに社領安堵状を捧げました。さらに永禄2年(1559)再び願文を捧げ、自軍の勝利と上杉謙信の滅亡を祈願しています。そして2年後に川中島の大合戦が行われました。
信玄は信濃の大半を勢力下に置いた永禄9年・10年(1566~1567)に信濃はもちろん、甲斐や上野の武将達をここに集め、神前で忠誠を誓わせました。そのときの誓いの文書(起請文)が83通残されており、国の重要文化財に指定されています。
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安楽寺

2007年08月21日 | 旅 歴史
 安楽寺は上田市別所温泉にあります。禅宗の寺で、鎌倉の建長寺などと並んで日本では最も古い臨済禅宗寺院の一つです。天正16年(1588)ころ、高山順京が曹洞宗に改めたそうです。鎌倉時代、この別所温泉のある塩田平は、当時の政治の中心地鎌倉と深い関係がありました。
 鎌倉幕府の連署(副執権)をやっていた北条義政は、塩田の地、前山に館を構え、三代にわたって鎌倉幕府の重臣として活躍しました。そんなことから鎌倉からの文化がたくさん移入され、その影響をうけた文化財が多く残っているのです。
八角塔へ行く途中には、「伝芳堂」があります。ここには、国の重要文化財に指定されている木造の「樵谷惟仙(しょうこくいせん)和尚像」と、「幼牛恵仁(ようぎゅうえにん)和尚像」が安置されています。 両像ともに鎌倉時代の嘉暦4年(1329)の造顕です。
 開山である樵谷惟仙は修行のため宋の国に渡り鎌倉北条氏の外護により臨済宗安楽寺を開きました。鎌倉の建長寺の開山祖の在宋中蘭渓道隆禅師と親しく交わり、来朝の際、先導もつとめたそうです。二世の幼牛恵仁は樵谷惟仙に従って中国より来朝し安楽寺二世を継いだ中国僧でした。
 杉木立ちの中の石段の上には、木々の間に、国宝の八角三重塔が端然と建っています。。四重の塔に見えますが一番下の屋根は裳階(もこし)といって塔の軒下に一段低く取り付けた造りで三重の塔なのです。裳階は廂の役割を果たすものだそうです。禅宗様と呼ばれる建築様式で、建立年代も鎌倉末期と推定されています。
頂上には相輪(九つの輪のついた柱)が天高くそびえています。各層の屋根の下には、華やかな「木組〔きぐ〕み」があります。それらが、この塔の美しさのようです。どっしりとしていて気品のある華麗な塔なのです。
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文殊堂

2007年08月19日 | Weblog
 文殊堂は上田市鹿教湯温泉にあります。文殊堂は行基が弟子園行に託して文殊菩薩を安置したと伝えられ、鹿教湯温泉は「文殊の湯」とも称されたそうです。現在は天竜寺に属しています。元禄14年(1701)に着工し、宝永6年(1709)に完成したそうです。
 はじめは、正面・側面とも柱4本の正方形の建物でしたが、後に下屋庇をつけたので、現在側面の柱は5本になっています。全体的に重厚な感じがあり、江戸中期における此の地方の代表的建築とされています。
 屋根は銅版葺き(かつてはこけらぶき)入母屋造で、正面中央の向拝(登り口で拝む所)付近や、四囲の欄間などに多くの彫刻が施されており、柱・組物などは鮮やかに色が塗られています。
 また天井にも絵が描かれ、装飾豊かな建物となっています。江戸時代中期、元禄時代の仏堂の作風を明瞭に示す県内有数の建物です。
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文殊堂

2007年08月19日 | 旅 歴史
 文殊堂は上田市鹿教湯温泉にあります。文殊堂は行基が弟子園行に託して文殊菩薩を安置したと伝えられ、鹿教湯温泉は「文殊の湯」とも称されたそうです。現在は天竜寺に属しています。元禄14年(1701)に着工し、宝永6年(1709)に完成したそうです。
 はじめは、正面・側面とも柱4本の正方形の建物でしたが、後に下屋庇をつけたので、現在側面の柱は5本になっています。全体的に重厚な感じがあり、江戸中期における此の地方の代表的建築とされています。
 屋根は銅版葺き(かつてはこけらぶき)入母屋造で、正面中央の向拝(登り口で拝む所)付近や、四囲の欄間などに多くの彫刻が施されており、柱・組物などは鮮やかに色が塗られています。
 また天井にも絵が描かれ、装飾豊かな建物となっています。江戸時代中期、元禄時代の仏堂の作風を明瞭に示す県内有数の建物です。
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岩谷堂観音

2007年08月11日 | 旅 歴史
 上田市御岳堂の岩谷堂観音です。正式には「宝蔵寺」です。信濃三十三観音霊場、中部四十九薬師霊場の札所である岩谷堂観音の御堂としても有名です。創建は平安時代初期で比叡山の第三代座主・慈覚大師円仁によって開かれました。
 本尊は大師御謹刻の聖観世音菩薩を安置しています。朱塗りの現在の堂宇は、安永6年(1778)に建立されました。それ以前は本堂裏の洞窟の中に安置されていました。
 ここにある義仲桜はゆうめいです。木曽冠者「源義仲」は平家追討の令旨を受けて、木曽よりこの地(依田城)に来ました。信濃、関東の兵を集めて軍団を整えて、北陸路より京都に攻め上がりました。その折り、ここで戦勝祈願をしています。馬で登った道が現在「義仲馬大門」と呼ばれています。手植えの桜が「義仲桜」として今も美しい花を咲かせています。
 平家の猛将悪七兵衛「平景清」は平家壇ノ浦で滅亡後、旅の僧に身を変えて鎌倉の向かう途路にここに立ち寄りました。
 これを追って景清の寵妃「楓の前」もここに来ました。景清が鎌倉で捕らえられたのを知りここに隠棲して、景清と平家一門の菩提を弔ったそうです。
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虚空蔵堂

2007年08月09日 | 旅 歴史
旧丸子町から鹿教湯温泉へ通ずる国道254沿いの東内地区に虚空蔵堂はあります。正式には法住寺虚空蔵堂 といい天台宗のお寺です。
 和様唐様をまじえた荘厳な建造物で、老杉の茂る静かな境内にあります。
 「福一満」と書かれた額が、虚空蔵堂に大きく掲げられており、裏手は墓地と畑になっています。日本七処の虚空蔵堂中第7番に当たるといわれ、室町時代の作で国の重要文化財に指定されています。
 貞観年間に慈覚大師が創建されたと伝えられています。文明18年(1466)に再建されています。建築様式に特徴があります。基壇を設けないで雨落を配置し、自然石の礎石の上に立っています。全体として和様としていますが、頭貫、木鼻、肘木の形、虹梁、扇垂木、厨子などの細部には禅宗様が見られます。
 法住寺虚空蔵堂の中に厨子があり。中に虚空蔵菩薩を安置しています。同じく重要文化財に指定されています。虚空蔵菩薩は、虚空(大空)がすべてのものを含むように、無量の福徳智慧を人々に与える仏様とされています。
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