旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

京都市右京区にある仁和寺(にんなじ)です。

2006年10月31日 | 旅 歴史
 仁和寺は仁和2年(886)、第58代光孝天皇の勅願によって建設に着手されました。先帝の菩提を弔い、仏法の興隆を図るため「西山御願寺」(にしやまごがんじ)と称する一寺の建立を発願されたことが始まりです。平安時代の中期から鎌倉時代にかけて皇室の尊崇と貴族の庇護を受けた仁和寺は、大きく栄えることになりました。法親王入寺ごとに御堂が新設されて堂舎僧坊は増加し、寺域も拡大して東は紙屋川辺から西は広沢池にまで及んだそうです。
 応仁元年(1467)に始まった応仁の乱によって、仁和寺は一山ことごとく焼失するという悲運に見舞われたのです。応仁の乱が始まった翌年、当時仁和寺は西軍の一拠点となっており、東軍の焼き討ちに遭い、わずか一夜にしてことごとく焼失することとなったのです。
 明治20年(1887)の火災でも本坊の多くを焼失し、大正2年(1913)現在の姿になりました。それでも仁和寺の広大な境内は御室御所跡として史跡に指定され、伽藍の建造物は、その多くが国宝や重要文化財に指定されています。そして千年以上の歴史と、多くの文化財を所有する仁和寺は、平成6年(1994)ユネスコの世界文化遺産に登録されたのです。
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京都市東山区茶屋町の方広寺です。

2006年10月30日 | 旅 歴史
 豊臣秀吉が建立した方広寺は、松永秀繁によって焼かれた奈良の大仏が再興されなかったのでここに大仏殿を建立したのです。9年の歳月を費やして建て大仏千人供養をしたのですが、慶長元年(1596)の大地震で焼失してしまいました。
のちに秀頼が再建しましたが、火災で焼失してしまいました。梵鐘に刻まれた銘文が家康の怒りにふれ、大坂冬の陣、夏の陣をひきおすことになり豊臣家滅亡のきっかけとなりました。現在は、大鐘が吊られた鐘楼、諸将の名が刻まれた石塁や石塔だけが残っています。
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京都市東山区にある妙法院です。

2006年10月29日 | 旅 歴史
 妙法院は天台宗に属する寺院で、天台三門跡(梶井門跡、青連院門跡)のひとつに数えられている名刹です。蓮華王院本堂(三十三間堂)は妙法院の仏堂で江戸時代から管理しています。後白河上皇の護持僧昌雲(しょううん)が祈祷の験により、新日吉(いまひえ)御所の地を与えられ創建した説と最澄が創建した説とがあります。暦応3年(1340)佐々木道誉によって攻撃され灰燼に帰し、復興後も応仁の乱で荒廃しました。豊臣秀吉が方広寺の大仏殿を建立するとき大仏の経堂として再興されました。庫裏は国宝で桃山期の豪快な建築です。寺領も1600石になり江戸時代には新日吉神社、蓮華王院、方広寺なども管理しました。天明の大火の際には光格天皇の皇后が避難したそうです。大書院は東福門院の旧殿を移築したものといわれています。
 幕末の七卿落ちが行われた宸殿、小堀遠州作と伝える庭園などもあります。国宝のポルトガル国印度副王信書、狩野派の筆による「唐美人図」「四季花鳥図」など、大画面の豪華絢爛な金碧画なども有名です。
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京都市東山区東大路にある智積院です。

2006年10月28日 | 旅 歴史
真言宗智山派の総本山真言宗智山派の総本山智積院です。豊臣秀吉が3才でなくなった長男鶴松の菩提を弔うために建造した祥雲寺が始まりです。 元和元年(1615)紀州、根来寺(ねごろじ)の住職玄宥(げんゆう)が根来寺智積院と改名しました。18世紀初頭、学生僧教学専門学寮70棟を数えたといわれています。特に7世の運敞(うんしょう)は語学に通じ、人気があり諸国から宗派を問わず大勢の学生が集まったそうです。
 見どころは境内の収蔵庫にある桃山時代の国宝障壁画です。長谷川等伯一派の描いた桜図や楓図、雪松図、松に秋草図など見事なものばかりです。
 国宝に指定されている桃山時代の二曲屏風「紙本金地著色松に草花図」や重要文化財の「金地著色孔雀明王像・絹本著色童子経曼陀羅図」など有名なものがあります。
 庭園は江戸時代に作られたもので国の名勝になっています。北を生け垣、中央を枯滝組み、南を池泉とした名園です。7世の運敞が中国の廬山の景をかたどって作ったといわれています。
です。豊臣秀吉が3才でなくなった長男鶴松の菩提を弔うために建造した祥雲寺が始まりです。
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京都市東山区三十三間堂(蓮華王院)です。

2006年10月27日 | 旅 歴史
 許暁敏さんコメント有り難うございました。中国には何回も行っていますがまだ世界の旅にアップされていません。近いうちに載せますのでご期待下さい。西安の兵馬俑は素晴らしいものでした。北京よりも上海の方が私に合っている感じがします。中国人のバイタリティはすごいものがあると思います。
 三十三間堂は、正式には蓮華王院(天台宗)といい、内陣の柱間が33あることに由来しています。長寛2年(1164)、後白河上皇の勅願で平清盛が院御所法住寺殿(ほうじゅうじどの)西側に千体観音堂を建立したのがはじまりです。
 その後、焼失しましたが、鎌倉時代の文永3年(1266)に現在の本堂が再建されました。柱間の数が33ある横長のお堂は総檜造りで約120m。あります。
 国宝 蓮華王院本堂(三十三間堂)は国宝に指定されています。三門跡のひとつの妙法院の仏堂なのです。中央壇上には鎌倉時代の仏師、湛慶(たんけい)が82才の時に手がけたという国宝の千手観音坐像があります。見る者を圧倒させます。全長335cmの大作です。左右に合わせて千体の千手観音立像が並んでいます。平安から鎌倉時代のもので実際には1001体あるそうです。これらは重要文化財に指定されています。
 国宝に指定されている二十八部衆立像は火災時に全部運び出されたと記録されていますが、諸説有るようです。
 「通し矢」は、毎年1月15日に一番近い日曜日に催されています。また頭痛封じの楊枝の(やなぎ)加持も行われています。宮本武蔵が吉岡と立ち会った場所でもあります。
 
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京都市左京区の平安神宮です。

2006年10月26日 | 旅 歴史
京都一の大鳥居をもつ平安神宮は、平安遷都1100年を記念して、明治28年(1895)に造営されました。平安京大内裏の正庁である朝堂院(ちょうどういん)の8分の5の規模で建造されました。
 社殿の柱はあざやかな朱に塗られ、宮廷風の雅やかさを感じさせます。社殿の背後を囲むようにある神苑は、広さ3万㎡で桜にカキツバタ、花菖蒲など四季折々に花が植えられています。
 本殿は昭和51年(1976)焼失後の再建で、祭神には、桓武天皇と孝明天皇を祀っています。境内は広大で、創建当時、この周辺で内国勧業博覧会が開催されたそうです。毎年6月1日、2日は薪能が行われるそうです。
 10月22日に行われる時代祭も平安遷都1100年を記念して始められました。勤王鼓笛隊を先頭に2千名もの大行列が、御所から平安神宮まで練り歩きます。
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京都市左京区南禅寺にある無鄰菴(むりんあん)です。

2006年10月25日 | 旅 歴史
 無鄰菴は明治大正の元老、山県有朋の別荘です。明治27年から29年の間に建てられました。庭園は有朋自ら設計、監督して7代目小川治兵衛が作庭しました。庭園は、曲線を描いて疏水の水を引き入れた見事な池泉廻游式です。明治時代の代表的な庭園の一つに数えられています。
 山県有朋は天保9年(1838)、萩藩中間有稔の長男として生まれました。19歳の時、久坂玄瑞の紹介で吉田松陰の松下村塾に入門、以後攘夷運動に奔走しました。
 文久3年(1863)奇兵隊に入隊、軍監となり、下関で英仏蘭米四ヶ国連合艦隊と交戦、高杉晋作挙兵に参加し、第二次長州戦争でも活躍、戊辰戦争には官軍の参謀として北越方面に転戦しました。明治2年(1869)欧州を視察し帰国後兵部少輔・兵部大輔となり、大村益次郎なきあとの軍政に尽力し、徴兵令を制定して国軍の基礎を作りました。陸軍卿・陸軍大将・元帥などを歴任、明治政府の中心的存在となりました。政治家としては、二次にわたり内閣を組織しその前後に参議・枢密院議長などにもなりました。伊藤博文亡きあと最大の発言力をもつ元老として、軍や政界に重きをなした人物でした。
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京都市左京区にある真如堂です。

2006年10月24日 | 旅 歴史
 真如堂は、鈴聲山真正極楽寺(れいしょうざんしんしょうごくらくじ)と号し、比叡山延暦寺を本山とする天台宗のお寺です。真如堂とは本堂の名です。真如堂の建立は古く永観二年(984)。比叡山延暦寺の常行堂の阿弥陀如来像を、神楽岡の東にあった一条天皇の母である東三条女院の離宮に、安置したのが始まりです。
 本尊の阿弥陀如来像は、日本三大如来像のひとつにあげられる平安時代(藤原朝)の名作で国の重要文化財に指定されています。また運慶の願経の法華経6巻は国宝です。
境内には春日の局の父で明智光秀の家老、斉藤利三の墓がありました。利三は山崎の合戦で奮戦したが敗北、近江の堅田で打ち首となりました。その晒された利光の首を親友の海北友松が奪い取って京都真如堂に手厚く葬ったという逸話があります。その海北友松や東陽坊長盛、俳人の向井去来などの墓もあります。
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京都市左京区にある銀閣寺です。

2006年10月23日 | Weblog
 室町時代、東山文化の頃に大きな文化の影響を与えた「銀閣寺」です。のちに寺に改められ「慈照寺」と名前を変えました。銀閣は観音殿といい、創建時の風雅な姿をそのまま残す国宝です。世界文化遺産にも登録されています。
 足利義政は、祖父にあたる三代将軍足利義満の北山殿金閣(鹿苑寺)にならい、隠栖生活を過ごすため、山荘東山殿を文明14年(1482)に造営しました。この東山殿が銀閣寺の発祥です。 銀閣寺は俗称であり、正しくは山号を東山(とうざん)、慈照寺です。義政の法号慈照院にちなみ、後にこう命名されたのです。金閣寺とともに相国寺の山外塔頭のひとつなのです。
 本堂へ続く東求堂(とうぐどう)も国宝で、同仁斎(どうじんさい)という現存最古の書院造りの部屋が有名です。東求堂の拝観は事前申込みが必要です。
 義政は8才で将軍となり政務に励みましたが、山名、細川氏らの対立を収められませんでした。妻である日野富子まで政治に口を挟み、政局は乱脈を極めました。
 後継者争いから応仁元年(1467)応仁の乱が起こり10年間戦いが続きました。そのさなかの文明5年(1473)、義政は将軍職を9才の義尚に譲ってしまい銀閣寺造営に情熱を向けたのでした。
 文明14年(1482)に乱で焼失した浄土寺の跡地に銀閣を造営して翌年移っているそうです。浄土寺は相国寺の西に移ったそうです。
 義政は文化面に優れた感覚を持ち、祖父の義満の金閣に劣らない建築を志しました。横川景三ら相国寺の僧を相談相手にしていたそうです。
 国の特別史跡・名勝に指定されている庭園は名手善阿弥(ぜんあみ)、襖絵は小栗宗湛、狩野正信らの一流人を用いています。
 資金は段銭を課し、公家、寺院から普請料を徴収したそうです。常の御所、禅堂西指庵、持仏堂の東求堂などを完成させました。最後に観音堂(銀閣)を上棟したのは死の前年の長亨3年(1489)だったそうです。

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京都左京区鹿ヶ谷の法然院です。

2006年10月22日 | 旅 歴史
 京都左京区鹿ヶ谷の法然院は善気山万無(ぜんきさんばんぶ)教寺と号し、浄土宗捨世派の本山です。建永元年(1206)に法然上人が弟子の住蓮、安楽とともに六時礼賛(ろくじらいさん)をつとめたと伝えられる旧跡です。寛永年間(1624-1644)、ほとんど廃絶状態になっていました。そこを延宝8年(1680)、万無心阿(まんむしんあ)が弟子の忍徴(にんちょう)とともに上人を偲び念仏道場として再興したのでした。 貞享4年(1687)、宮中から内親王の御座所を下賜されて方丈としました。その襖絵は金地著色の桐二竹図・若松図など重要文化財に指定されたものです。 須弥壇の前には散花(さんげ)と称して四季の花を散らし荘厳美を増しています。経蔵は元文元年(1736)の建造で忍徴(にんちょう)が門弟達と校訂した大蔵経を納めています。阿弥陀の徳を讃える六時礼賛(ろくじらいさん)が今日も続いています。
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京都市左京区の永観堂(禅林寺)です。

2006年10月21日 | 旅 歴史
 永観堂(禅林寺)は聖衆来迎山禅林寺と号する浄土宗西山派の総本山で通称永観堂と呼ばれています。斉衡2年(855)空海の弟子である真紹僧都によって創建され、貞観5年(863)清和天皇より禅林寺の定額を得ました。一時衰えましたが、平安時代の末、承暦年間(1077-1081)に永観律師が入山して念仏道場を開き寺を中興しました。このことから永観堂と呼ばれるようになりました。
 東山のふもとに建つ閑静な古刹は「もみじの永観堂」として知られ、東山を背景にした池泉廻遊式の庭園の紅葉は有名です。古今集でも詠まれたほどに紅葉がきれいな場所なのです。鎌倉時代中期には浄土宗西山派の本山の基礎を固めました。応仁の乱により堂舎が焼失しましたが明応6年(1497)後土御門天皇の命により再建され、以後遂次諸堂が建てられ現在の伽藍となりました。
 重要文化財の本尊のみかえり阿弥陀如来像は、左後方を振り返っためずらしいものです。国宝の山越阿弥陀図(やまこしあみだず)や鎌倉以来の仏画なども寺宝になっています。
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南禅寺水路閣です。

2006年10月20日 | 旅 歴史
 「京都迷宮案内」などにも登場した南禅寺の「水路閣」です。水路閣は、琵琶湖疎水事業の一環として、施工された水路橋で、延長93.17メートル、幅4.06メートル、水路幅2.42メートル、煉瓦造、アーチ構造の優れたデザインを持ち、京都を代表する景観の一つとなっています。
 京都府知事北垣国道の発意により、田辺朔郎工学博士を工事担当者として、明治18年起工され、同23年に竣工しました。西欧技術が導入されて間もない当時、日本人のみの手で設計、施工されたもので、土木技術史上、極めて貴重なものです。昭和58年7月1日に京都市指定史跡に指定されました。
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京都市左京区の南禅寺です。

2006年10月19日 | 旅 歴史
 南禅寺は、正応4年(1291)、宋から帰国した無関普門(むかんふもん)を開山とし、亀山天皇が東山の離宮を禅寺に改めたことにはじまります。臨済宗南禅寺派の大本山です。室町時代は五山の上位に列せられた格式の高さを誇る大寺院です、2世の南院国師の時に南禅寺と改められました。
 日本史上屈指の義賊「石川五右衛門」が連想されます。元禄時代の歌舞伎の台本の中で、戯作者が山門に五右衛門を登楼させ「絶景かな絶景かな」の名せりふをはかせたことで有名になりました。三門の向こうの山の緑がとても美しい場所です。生い茂る松、背後に続く山々。自然の偉大さが垣間見えます。
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東山区粟田口三条坊町にある青蓮院です。

2006年10月18日 | 旅 歴史
 粟田御所と呼ばれた青蓮院は、天台宗の格式高い門跡寺院で京都五箇室門跡の一つです。 五箇室とは、青蓮院門跡・妙法院門跡・三千院門跡・曼殊院門跡・毘沙門堂門跡の五ケ寺を指します。門跡寺院というのは、門主(住職)が皇室或いは摂関家によって受け継がれてきたお寺のことです。ですから気品あふれ上品で優しい雰囲気が漂っています。最澄が比叡山延暦寺を開きました。その時にお堂の他に僧侶の住まいの「坊」も建てました。そのひとつに青蓮坊というのがあり、それが青蓮院の始まりだといわれています。
 鳥羽法皇の皇子が現在地に殿舎を造営して門跡寺院としての青蓮院が誕生したようです。天明8年(1788)の御所火災の時に後桜町上皇の仮内裏となったことで「粟田御所」とも呼ばれました。
 青蓮院が最も隆盛を極めたのは第三代門主慈鎮和尚の時です。和尚は四度天台座主をつとめました。当時はまだ新興宗教であった浄土宗の法然や、浄土真宗の親鸞にも理解を示し、延暦寺の抑圧から庇護したそうです。
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京都市東山の知恩院です。

2006年10月17日 | Weblog
 知恩院は大晦日の除夜の鐘の放映でお馴染みのお寺です。地元では「ちおいんさん」と呼ばれていますが正式には華頂山大谷寺知恩教院といいます。華頂山(かちょうざん)の山裾に広がる浄土宗の総本山です。 祇園の北側にある知恩院は法然がここで布教を始めたところでした。知恩院は、応仁の乱 (1467-77) で焼失し一時、近江の伊香立 (いかだち)に難を避けました。乱のあと再興しました。
 大永3年(1523)、百万遍知恩寺と本山争いが起こりました。天正3年正親町(おおぎまち)天皇の綸旨(りんじ)で知恩院が本山と決定しました。信長、秀吉の援助を受けて復興に向かい、家康は徳川家の菩提所とし大伽藍の建造を発願、寺領700石を寄進して大小106棟の建物からなる現在の寺観を整えました。
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