旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

実相院

2007年07月19日 | 旅 歴史
 上田市真田町傍陽(そえひ)萩にある実相院です。
 金縄山「実相院」は天台宗のお寺です。神亀2年(725)に行基(ぎょうき)により開創されたそうです。 最初は霊応山慈済寺「実相院」という名だったそうです。 山号が金縄山(きんじょうざん)に変えたのには理由がありました。参道前に建つ二つの石柱の左側に「田村将軍祈願所」と刻まれています。田村将軍とは坂上田村麻呂のことです。
 将軍が、東征の途中、角間渓谷に住む毘邪(ひや)という鬼を霊験あらたかな馬頭観世音に祈願して捕まえました。この時、鉄の鎖で縛り上げたことから、この山号になったと記されています。
 本堂の前にある石造宝篋印塔は貞治6年(1367)足利将軍の執権であった堀田式部少輔が観音堂の再建と共に建立したといわれています。
 南北朝時代の典型的な関東洋式で塔身東面に「貞治六年三月 日」「一結  敬白」の陰刻銘が見て取れます。県内でもこの種の遺例は少なく貴重な石塔とされています。
 応永3年(1396)雷が落ちたために炎上、天文年間には兵火によりことごとく消失したそうです。
 その後、寛保2年(1743)上田城主の松平伊賀守が本堂を再建したそうです。天明3年(1783)現在の観音様が移築再建され、寛政12年(1800)に入仏供養が行なわれ完成したそうです。
 本尊は木造馬頭観音坐像だそうです。室町時代前半のころの作で、頭上に馬の頭を乗せためずらしい形の坐像だそうです。境内には毘邪の関係か鬼石、鬼松などと名付けられた遺跡も残されています。
 また実相院は山家神社の末寺であった白山寺の本尊であった木彫りの十一面観音像を所蔵しています。神仏習合で明治の廃仏令で廃寺になったためです。
 同じ天台宗だったのでお願いしたのかもしれません。四阿山の白山信仰で由緒と格式のある山家神社の末寺だったそうです。白山信仰は真田十勇士とも関連があったようです。
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山家神社

2007年07月16日 | 旅 歴史
 山家神社の創建は古く、延喜式神明帳に名をつらねる格式高い神社です。山家郷の産土神として大国主命を祀っています。他に祭神に伊邪奈美命(いざなみのみこと)、菊理姫命を合祀しています。
 古くは四阿山(あずまやさん)を神体としていました。養老年間(717-724)に修験者「浄定」が加賀白山より勧請合祀し四阿山に山家神社の奥宮を建立したそうです。山家神社は白山神社を合祀したので、「白山様」ともよばれているそうです。四阿山から流れ出る本流は御手洗(みたらし)の水と呼ばれ、水分(みくまり)の神の宿る神聖な川として大切にされてきました。
 山家神社には四阿山奥宮社殿の扉が残されています。朱塗りで「大檀那幸綱並信綱」「永禄五年」(1562)の文字が記されているそうです。これは初代真田の幸隆(幸綱は出家してから一徳斎幸隆と名乗りました)が奥宮社殿を修復したことを示すものです。長子・信綱の名前もあります。
 四阿山は当時、上州・信濃で深く信仰された白山権現の宮であり修験のメッカにもなっていたところだったのです。山家神社はその里宮であり真田氏と修験との関係で真田十勇士の伝説も生まれたのかもしれません。
 社殿前にある鬼瓦は明治21年に制作されたものです。三つ巴紋は山家神社の神紋、六文銭は真田家の紋です。
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長谷寺

2007年07月15日 | 旅 歴史
 長谷寺は昔、種月庵と呼ばれていました。天文16年(1547)真田氏繁栄の基礎を作った真田幸隆が上州安中の長源寺から伝為晃運(でんいこううん)和尚を招き一宇を真田山種月院「長谷寺」としたことから始まります。
 天正2年(1574)父・幸隆が病死したため38才の長子・信綱が真田家の家督を継ぎました。ところが翌年の長篠・設楽ヶ原合戦で信綱と弟の昌輝がともに戦死してしまいました。
 そのため幸隆の三男で甲斐の名門・武藤家に養子に出されていた武藤喜兵衛こと真田昌幸が戻り、真田家の家督を継いだのでした。
 長谷寺の参道入口の石垣と、そびえ立つ大きな石門は情緒があります。石門の上部には六文銭が刻まれています。この石のアーチは創建当時のものといわれています。
 真田昌幸は周辺有力三大名の対立を利用しながら、天正11年(1583)頃には小県地方をほぼ支配下に治めたようです。そいて父・幸隆の菩提を弔うために長谷寺を改修し諸堂を整備したのです。
 ところが長国寺は慶長5年(1600)第2次上田合戦があり兵火にかかり焼失してしまいました。昌幸は関ヶ原で敗れた後、高野山で蟄居の身になり九度山で慶長16年(1611)他界しました。
 この時、上田藩主は昌幸の長子・信之(信幸)が沼田とともに治めていました。昌幸の遺骨は長国寺で丁重に弔われたと思われます。
 元和8年(1622)真田信之は松代に転封となり、上田には小諸より仙石氏が入封しました。このことで真田氏による土着支配は終わったのです。
 信之は松代に菩提所として同じ読みの「長国寺」を建立し、長谷寺の住職も共に移させました。それから先、長谷寺は長国寺の末寺となっています。
 長谷寺は寛保2年(1742)には土石流により土砂に埋まり、宝暦7年(1757)に火災、明治23年(1890)にも火災にあい、現在の本堂は昭和53年(1978)に再建されたものです。
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信綱寺

2007年07月14日 | 旅 歴史
 上田市真田町長にある信綱寺です。大柏山「信綱寺」は横尾氏の菩提寺として好雪斉大柏寺として室町時代に創建されたそうです。横尾城の東の梅ノ木というところにあったようです。
 天文17年(1548)の上田原合戦で横尾氏が滅んでしまった後、真田幸隆の長男である信綱(のぶつな)が打越に移し、大光智照禅師を迎えて大柏山「打越寺」と改称させたようです。
 天正3年(1575)の長篠・設楽ヶ原合戦で信綱と次男の昌輝がともに戦死してしまいます。幸隆の三男で甲斐の名門・武藤家に養子に出されていた武藤喜兵衛こと真田昌幸が戻り、真田家の家督を継いだのでした。
首長になった真田昌幸は兄の信綱の牌所として打越寺を改築し、大柏山「信綱寺」と兄の名前の寺に変えたのでした。
 真田信綱は天文6年(1537)幸隆の長男として生まれました。幼少時、武田信虎・村上義清・諏訪頼重連合軍が侵攻した際に父・幸隆らと上州吾妻の羽根尾城の羽尾幸全を頼ってと落ち延びました。
後に幸隆が敵であった武田信玄に仕官した時も一緒に付き従い、後に信玄の近習なりました。幸隆と共に信濃や上野を転戦し、永禄11年(1568)弟・昌輝と駿河国攻めの先鋒を担っています。
 永録12年(1569)の三増峠の戦いでは昌輝や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功もあげています。天正2年(1574)父・幸隆が病死したため38才で真田家の総領となりました。
「武田二十四将」の一人に数えられ、信濃先方衆の筆頭に位置するところまで出世していました。三方ケ原の合戦でも活躍しましたが、5年後の長篠・設楽ヶ原合戦で織田軍の3千挺という大鉄砲隊の前に弟・昌輝とともに最期を遂げたのでした。
信綱の遺体は甲冑姿のまま家臣の白川勘解由兄弟が持ち帰りここに埋葬したそうです。その時の血染めの陣羽織や昌幸から信綱寺に宛てられた書状などが宝物館に納められています。
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真田氏館跡

2007年07月11日 | 旅 歴史
上田市真田町本原にある真田氏館跡です。
 昔からお屋敷と呼ばれ親しまれてきた居館跡です。真田昌幸が上田城を築城する以前に住んでいたところです。周囲には枡形状の大規模な土塁がめぐらされています。昭和42年に長野県の史跡に指定されています。規模は東80m、西130m、南160m、北150mの土塁をめぐらせているそうです。その周囲には壕もあったと推測されています。
 写真は皇大神社です。皇大神宮は真田昌幸が上田城に移る際に勧請したといわれています。館内は東から西へと緩やかに傾斜していて、東側の一番高い所に位置しています。この館が作られた年代は定かではありませんが、永禄年代(1558-1569)と考えられているそうです。
 この居館の周囲に武家や商人が城下町を形成していたそうです。上田の築城の際、上田の城下町に「原町」という商人町を作り集団移転させました。この地域は元の原町ということで本原(もとはら)と呼ばれています。
 この館は真田本城からは南西下方約800mの所に位置しています。東には天白城、北には横尾城、洗馬城、西には戸石城などがあり堅固な守りになっていました。
 南口を正面とし、枡形の大手門、搦手門(からめてもん)の跡があり、西北隅には土塁に囲まれた厩屋跡があります。館の北側には大沢川が流れていて自然の堀になっています。この館は当初は真田信綱のために建てられたようです。信綱が長篠の戦いで戦死したため、昌幸が上田城を築城する前に居住したそうです。
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角間渓谷

2007年07月09日 | 旅 歴史
 上田市真田町長字角間にある角間渓谷です。
紅葉で有名な角間渓谷は信濃耶馬渓(やまけい)とも呼ばれています。この渓谷は旧角間火山に烏帽子岳(2065m)が噴出して、火口を押しせばめてできたものだそうです。旧火山の集塊岩に新たに噴出した角閃安山岩などが迫って、長い年月の浸食作用で素晴らしい美しさになっています。真田十勇士で有名な猿飛佐助が、戸沢白雲斎に忍術の修行を受けたという言い伝えも残っているところです。
 この角間渓谷は昭和61年(1986)に森林浴の森日本100選にも選ばれているそうです。かもしかに出会うこともあり、猿なども生息しています。
 鬼が城、男石、百間長屋、猿飛岩、鬼の門、獅子の牢、鞍外しの岩など切り立つ岩壁が数百メートルも続いています。220段の石段が真っ直ぐ上に上っています。
 石段の先には岩屋洞窟と呼ばれている大きな洞窟があります。この岩の中の洞窟に堂が建てられていて観音様が祀られています。これが岩屋観音です。
 かってここは毘邪(ひや)という鬼の住みかで「坂上田村麻呂」が討伐しようとしましたが、妖術に長じ霧にかくれ飛猿の如くすばしこく討つことができなかったそうです。将軍は隣町の霊験あらたかな馬頭観世音に祈願して術を封じてようやく鬼たちを討ち取ることができたそうです。
 その時にこの岩屋に堂宇を建て観音を祀ったそうです。その年は大同元年(806)と伝えられているそうです。
 角間渓谷には天然ガスの噴出や温泉の湧出が各所にみられます。これは観音様の霊力によって湧き出たといわれています。ここの温泉は特に胃腸病、心臓病に卓効があり、親鸞上人の室恵信尼公療養のところとしても知られているそうです。真田一族の隠し湯の一つでもあります。
 この渓谷には一件だけ岩屋館という温泉旅館があります。滝を眺められる部屋もあります。ここの温泉は胃腸によく効くそうです。ビールだと思って飲めば飲めないこともありませんでした。
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真田氏本城跡

2007年07月08日 | 旅 歴史
上田市真田町長(おさ)にある真田氏本城です。
 真田氏本城は規模の大きな山城です。松尾新城、住連寺城などとも呼ばれています。真田氏が上田城を築くまえの本城といわれています。隣にある天白城とともに馬蹄形状に構築されています。 本郭は東西8.8m、南北37mの広さです。北へ二の郭、三の郭と段差を設けながら延長し、その先は急崖となっています。
 上田盆地への眺望が開け、眼下には小県(ちいさがた)と北上州を結ぶ上州道を押さえています。熊久保集落の上方の沢から山腹を回して城内近くまで水も引いていたそうです。信綱寺に近い尾引城跡のあった横尾、曲尾を望みます。左方面が上田方面で戸石城があります。右は松代方面になります。 戸石城は幸隆が武田に組した時、信濃の勇で千曲川流域に勢力を有した村上義清の支配下にありました。父を追放した武田信玄は破竹の勢いで勢力を拡大しました。
 天文19年(1550)信玄は村上軍の前線基地の戸石城を攻めました。ところが戸石城を落とすどころか「戸石くずれ」という大敗北を喫してしまいました。普代の重臣もこの時多く失っています。ところがこの翌年、真田幸隆が独力で難攻不落の戸石城を調略し、一夜にしてこれを落城させたというのです。文献では真田が「乗取」という一文あるだけだそうです。
 真田氏本城は規模の大きな山城です。松尾新城、住連寺城などとも呼ばれています。真田氏が上田城を築くまえの本城といわれています。隣にある天白城とともに馬蹄形状に構築されています。本郭は東西8.8m、南北37mの広さです。北へ二の郭、三の郭と段差を設けながら延長し、その先は急崖となっています。
 新田大作作詞の真田氏本城の石碑があります。
 山嶽幾重連陣営
   縦横布置緻行兵
     今朝錦繍一望遠
       覇業遙思古本城
 天文19年(1550)信玄は村上軍の前線基地の戸石城を攻めました。ところが戸石城を落とすどころか「戸石くずれ」という大敗北を喫してしまいました。普代の重臣もこの時多く失っています。
 ところがこの翌年、真田幸隆が独力で難攻不落の戸石城を調略し、一夜にしてこれを落城させたというのです。文献では真田が「乗取」という一文あるだけだそうです。
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日向畑遺跡

2007年07月07日 | 旅 歴史
上田市真田町長(おさ)にある日向畑遺跡です。
 日向畑遺跡は小規模の史跡です。昭和46年に発掘調査が実施されたそうです。石造宝篋印塔が6基、石造五輪塔が11基出土したそうです。
 ほかにも鉄器、古銭、土器、石器、火葬骨なども出てきたそうです。出土した石塔群の形から見て、室町時代から戦国時代にかけての物と見られているそうです。
 武田信虎・村上義清・諏訪頼重連合軍が侵攻した際に幸隆らは上州吾妻へと落ち延びました。戦いの習いで新しい支配者は前の領主の墓を壊したそうです。ですから幸隆以前の真田氏の墳墓と考えられるのです。
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真田氏記念公園

2007年07月06日 | 旅 歴史
真田氏記念公園は上田市真田町下原(しもはら)にあります。
 上田から群馬県境の鳥居峠に抜ける国道144号線の真田町の入口下原に真田三代の碑があります。真田町が真田氏の発祥の地である証しを表現しています。
 公園といってもレリーフ像と真田三代の略記がある程度ですが「真田氏発祥の郷」の石碑は池波正太郎氏の筆によるものです。「真田太平記」によって真田氏の知名度が上がりました。 三代のレリーフは、中央が真田幸隆、向かって右が真田昌幸、左が真田幸村です。岡田益雄氏によって創られたそうです。
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科野大宮社

2007年07月04日 | 旅 歴史
 上田市常田2丁目にある科野大宮社です。延喜式以前からこの地にある古い神社で、地元の人からはおおみやさんと親しみを込めて呼ばれています。崇神天皇の御代、建五百建命を科野国(信濃国)の国造に任命しました。上田に国府を置き、国魂の神である科野大宮社を創祀して住民の安全を祈願したのです。信濃国総社でもあったようです。天慶元年(938)平将門の乱が起こりました。平定するために送られた平貞盛の軍と戦になりました。国分寺と千曲常田河原が戦場になり、信濃国分寺諸堂と科野大宮社の社殿楼門神庫は焼失してしまいました。付近の民家数百戸も焼け出されたそうです。
 天正13年(1585)8月、徳川家康は鳥居元忠、大久保忠世らを将とし、信濃・甲斐などの軍勢もあわせ総勢7千の大軍を真田昌幸の居城上田城攻撃に向かわせました。これが第一次上田合戦です。
 徳川家康は羽柴秀吉と対立している時でした。天正12年(1584)小牧・長久手の戦いがあり北条氏と組む必要がありました。北条との講和の条件に、真田昌幸が治めていた沼田を北条に渡す一項があったのです。
 この時、真田昌幸は徳川家に臣従していましたが「沼田は弓矢に問うて切り取った土地。徳川殿からの頂戴した土地ではない。」沼田の引渡しを拒絶したのです。
 昌幸の計略で徳川軍を城下に入れ、町屋に火を放ったのです。折からの風にあおられ、火は徳川軍を襲いました。柵を随所に設けてあったので動きが取れない大軍に向かって鉄砲が一斉に放たれ総崩れとなり撤退することになったのです。この一帯はその戦いの激戦地になり再び焼失したのです。
 御神木は江戸時代の旅行案内絵図で上田を描いた場面には必ず登場したそうです。現在の科野大宮社の本殿は万延元年(1860)藩主松平忠礼が拝殿とともに再建したものだそうです。
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大星神社

2007年07月02日 | 旅 歴史
 上田市中央北3にある大星神社です。祭神は健御名方刀美命(たけみなかたのみこと)、前八坂刀売命(さきのやさかとめのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)です。創建時期は不明ですが延長2年(924)社殿改造の記述があります。寛和2年(986)花山院法皇より勅願3面(大法性大法師大星)を賜ったことから明治初頭まで大星明神と称したそうです。
 武田信玄は上田原合戦の際、祈誓文を掲げています。慶長6年(1601)真田信之金銭とともに神領を寄進しています。寛保元年出羽上山城主松平信将は社殿を造営しました。
 大星神社の社叢(しゃそう)つまり神社の森は昭和44年(1969)に上田市の天然記念物に指定されています。参道の両側の太いケヤキの並木をはじめ、桧、唐松、銀杏、桜など多くの樹木があります。
 矢出沢川より北の房山(旧房山村)と山口(旧山口村)などの氏神です。科野大宮社、八幡社とともに上田城下の鎮守となっていました。近くには前方後円墳の双子塚古墳があります。
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荒神宮

2007年07月01日 | 旅 歴史
 上田市諏訪形の千曲川沿いに荒神宮がひっそりと佇んでいます。地元では荒神さんと親しみを込めて呼ばれています。荒神という神様は一般に、家内安全・火の神・かまどの神とされています。
 上田藩主であった真田氏、仙石氏、松平氏からも祟敬篤く、仙石氏からは元和元年(1615)神料地として諏訪形字豊田沖に6石1升5合を拝領しています。  治承4年(1180)高倉宮の平家追討の宣旨をうけた木曽義仲はこの地に滞陣の際、家来の今井兼平の子を、この荒神宮につかわして戦勝祈願しています。  別当の職名を受けた文化8年(1811)若宮、高町の大火災で荒神宮も焼失したそうです。文久3年(1863)彫刻家としても有名な大工棟梁竹内八十吉によって再建されています。  木曽義仲の重臣、今井兼平の墓もあります。荒神宮にはこの他にも石造五輪塔があり上田市の有形文化財に指定されています。巴御前が義仲の子をここにかくまっていたともいわれています。  荒神宮の本殿は覆屋でおおわれています。昭和43年(1968)に上田市の有形文化財に指定されています。太郎山神社や金昌寺なども手掛けた竹内八十吉の芸術です。三間社流造りで唐破風の向拝、屋根は柿葺きです。三面が切目縁脇障子付きの造りになっています。特に彫刻は華麗です。柱の上は竜・獅子・象などでうめつくされ、軒先には大きな鳳凰が飾られています。
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