旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

西郷洞窟

2011年04月30日 | 旅 歴史
 鹿児島県鹿児島市城山町にある西郷洞窟です。
 城山の展望台から徒歩で15分ぐらい下ったところの岩崎谷に西南戦争最後の本陣である「西郷洞窟」があります。
 洞窟は奥行き5m、間口3mの小さなもので西郷隆盛が自決するまでの5日間をここに寝起きしていたそうです。
 明治10年(1877)9月24日、午前4時明治政府軍の城山総攻撃が始まりました。城山に立てこもる薩摩兵士はわずか300名足らず、取り囲む政府軍は4万人で何重にも柵をめぐらしていました。
 死を決した西郷隆盛は桐野利秋、別府晋介、村田新八、池上四郎などと夜明けを待ってこの洞窟を出ました。

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私学校跡

2011年04月29日 | 旅 歴史
 鹿児島県鹿児島市城山町にある私学校跡です。
 鶴丸城は元禄9年(1696)に大火によって焼失し、復旧され、明治6年(1873)に再び火災で焼失しました。征韓論に破れて下野した西郷隆盛は、この焼け跡に「私学校」を設立したのでした。
 学校は篠原国幹(くにもと)が監督する銃隊学校と村田新八が主宰する砲隊学校に分かれ教えました。これらの生徒が中核として西南戦争が起きてしまったのです。

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薩摩義士碑

2011年04月28日 | 旅 歴史
 鹿児島県鹿児島市城山町にある薩摩義士碑です。
 鶴丸城跡の東北端、城山登山口の一隅にあります。山形にひと固まりになった碑群です。岐阜の木曽川・長良川・揖斐川などの治水工事に従事して亡くなった多くの人達の供養塔として大正9年(1920)に建てられたものです。
 この工事は幕府の外様大名に対する過酷な政策の一つでした。総奉行として家老平田靱負(ゆきえ)は千人を使って工事にあたらせました。苦労の末完成させましたが40万両の大金と80人もの犠牲者をだし、引渡し後自刃して果てました。

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黎明館

2011年04月28日 | 旅 歴史
 鹿児島市城山にある黎明館(れいめいかん)です。
 鹿児島県歴史資料センター黎明館には鉄砲伝来、明治維新関連、考古・民俗資料、美術工芸品などが収蔵されています。
 この博物館は、明治100年を記念して旧鶴丸城の敷地内に昭和58年(1983)10月に開館しました。城鹿児島の歴史を知るのに最適です。

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鶴丸城址

2011年04月27日 | 旅 歴史
 鹿児島市城山町にある鶴丸城址です。
 城山の山麓に鶴丸城跡があります。城館は何も残っていません。慶長7年(1602)に18代島津家久が着工し、29代忠義まで薩摩藩島津家の居城となっていました。
  鶴丸の名前は城構えが翼を広げた鶴の形に似ていたために名付けられたようです。鶴丸城の楼閣は明治6年(1873)の火災で焼失してしまいました。
 この城は、近世一般の城郭に見られるような戦闘に備えた高い石垣の上に天守閣がある堅固な防備の城郭とは異なり、南国の雄島津氏にしては質素な天守閣のない屋形造りの居館であったようです。
 「城をもって守りとせず、人をもって守りとなす」という兵学精神に基づいて築城されたようです。また関ヶ原の戦いでは家久の兄17代義弘が西軍についたため家康への恭順を示すためでもあったようです。

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西郷隆盛終焉之地

2011年04月26日 | 旅 歴史
 鹿児島県鹿児島市城山町にある西郷隆盛終焉之地です。
 城山公園登り口近くには西郷隆盛が自決した場所を示す「南洲翁終焉之地」という記念塔が立っています。
 明治10年(1877)9月24日、死を決した西郷隆盛は桐野利秋、別府晋介、村田新八、池上四郎などと夜明けを待って洞窟を出ました。流れ弾が西郷隆盛の腰や股に命中しました。
 「晋どん、もうここでよか」と別府晋介に介錯を頼み自刃して49才の生涯を閉じたのでした。「おはんらにやった命」がなくなったのでした。

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西郷南洲顕彰館

2011年04月25日 | 旅 歴史
 鹿児島県鹿児島市上竜尾町にある西郷南洲顕彰館です。
 西郷南洲百年記念事業として、西郷南洲翁を慕う全国の人々からの寄付により昭和52年(1977)建設着工し、翌年6月30日に鹿児島市に寄贈されました。
 西郷隆盛(南洲翁)の生涯や業績、その伸びやかな素晴らしい筆跡など西郷に関する資料や遺品がたくさん展示されています。

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南洲神社

2011年04月24日 | 旅 歴史
 鹿児島市上竜尾町にある南洲神社です。
西郷隆盛をお祭りしている神社です。
西郷さんの残した「敬天愛人」は有名な言葉です。
  我家松籟洗塵縁
  満耳清風身欲僊
  謬作京華名利客
  斯声不聴己三年

明治6年征韓論問題で政府を辞して帰郷した11月10日南州が詠んだ漢詩です。
 西南の役戦没者慰霊碑です。
 平成13年に建てられたものです。明治10年(1877)9月の西南の役終息により120余年、戦域より遺砂を集めて建てられました。

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別府晋介景長の墓

2011年04月23日 | 旅 歴史
 鹿児島市上竜尾町の南洲墓所にある別府晋介景長の墓です。
 別府晋介景長は明治6年近衛少佐を辞して薩摩に戻り加治木区長となりました。西南の役では6番7番大隊長として出陣しました。明治10年9月24日早朝、岩崎谷口に向かい突進中銃弾を受けた西郷隆盛の命により介錯をしました。享年31才でした。


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村田新八の墓

2011年04月22日 | 旅 歴史
 鹿児島市上竜尾町の南洲墓所にある村田新八の墓です。
 村田新八は薩軍二番大隊長でした。明治4年宮内大丞となり岩倉具視一行に加わり欧米を視察しました。明治7年薩摩に戻り私学校砲隊の監督に就任しました。城山最後の日、西郷隆盛の死を見届けた後自刃しました。享年42才でした。

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篠原国幹の墓

2011年04月22日 | 旅 歴史
 鹿児島市上竜尾町の南洲墓所にある篠原国幹の墓です。
 篠原国幹は薩軍一番大隊長でした。桐野利秋と並び立つ猛将で知略家でした。私学校銃隊の監督もしていました。陸軍少将、近衛兵司令官を歴任。明治10年吉次越えの激戦地で陣頭指揮をとりました。享年42才でした。

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桐野利秋の墓

2011年04月21日 | 旅 歴史
 鹿児島市上竜尾町の南洲墓所にある桐野利秋の墓です。
 桐野利秋は薩軍総指揮官、4番大隊長です。無類の豪胆な性格で勤王の志士として活躍しました。「人切り半次郎」こと中村半次郎の名で有名です。陸軍少将、熊本鎮台司令長官、陸軍裁判所長を歴任しました。享年40才でした。
 
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南洲墓所

2011年04月20日 | 旅 歴史
 鹿児島市上竜尾町にある南洲墓所です。
 城山の北隣、鹿児島駅裏手の錦江湾を望む丘に、南洲公園に続いて南洲墓地があります。西郷隆盛をはじめ、西南戦争で戦死した2000名余の人が葬られています。
 西郷隆盛の左右には桐野利秋、篠原国幹、村田新八ら諸将の墓が並んでいます。墓地の北側には西郷隆盛を祀る南洲神社があり、近くに西郷南洲顕彰館があります。
 明治10年(1877)城山の戦いが終わり、西郷以下40名を浄光明寺に仮埋葬しました。明治12年(1879)城山近辺に散在していた約200名の遺骨を同墓地に改葬しました。
 野村忍介などが先頭に立ち九州各地に散在する約1800名の遺骨を改葬し、西郷隆盛を中心に眠る南洲墓地としたのでした。
 階段を上ると正面に西郷隆盛の墓が桜島を望むようにたたずんでいます。兄弟5人みな戦死した児玉兄弟や最年少の14歳にして死した池田烈士の墓なども含まれています。

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石橋記念公園

2011年04月19日 | 旅 歴史
 鹿児島市にある石橋記念公園です。
 平成5年(1993)、鹿児島を襲った集中豪雨による大水害で鹿児島市の中心部を流れる甲突川に架橋されていた貴重な石橋2つが流失しました。残った西田橋、高麗橋、玉江橋が移設復元され、石橋記念公園として開園したのです。
 「薩摩の五大石橋」と呼ばれた石橋は肥後の石工・岩永三五郎が造ったものです。5橋ともアーチ式で江戸後期の弘化3年(1846)から嘉永2年(1849)の間に架橋されたそうです。
 なかでも西田橋は城下の表玄関にあたり、江戸への参勤交代の本道でもあったため入念に仕上げられています。自動車が通行出来るほどの強度を兼ね備えていたのは驚きです。


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西南戦争官軍戦没者慰霊塔

2011年04月18日 | 旅 歴史
 鹿児島県鹿児島市浜町にある西南戦争官軍戦没者慰霊塔です。
 祇園之州公園にある西南戦争官軍戦没者慰霊塔です。7ヶ月の間政府軍と薩摩軍攻防を繰り返し、官軍側6840人、薩摩軍6400人の戦死者が出ました。

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