旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

旧門司三井倶楽部

2011年09月30日 | 旅 歴史
 福岡県北九州市門司区港町にある旧門司三井倶楽部です。
 旧門司三井倶楽部は山あいの門司区谷町より門司港レトロ地区に移築された建物です。この建物は門司港駅と並んで国の重要文化財に指定されています。
 この建物は大正10年(1921)三井物産門司支店の社交クラブとして建築されました。建物はハーフティンバー様式(木骨様式)と呼ばれるヨーロッパ伝統の木造建築工法で作られました。
 昭和24年(1949)から国鉄の所有となり、「門鉄会館」として利用され、 昭和62年(1987)国鉄清算事業団に移管、その後北九州市に無償譲渡されました。
 アインシュタインが大正11年(1922)に宿泊した2階の部屋が当時の状態保存され「アインシュタインメモリアルルーム」として展示されています。また、門司区出身の林芙美子にちなみ、林芙美子資料室もあります。

下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
日記@BlogRanking
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧大阪商船

2011年09月29日 | 旅 歴史
 福岡県北九州市門司区港町にある旧大阪商船です。
 旧大阪商船は門司港レトロ地区にあります。大阪商船の門司支店として、大正6年(1917)に建設されました。
 昭和39年(1964)大阪商船と三井船舶が合併し、商船三井ビルと呼ばれ、平成2年まで使用されていました。その後、北九州市が買い取り、平成11年(1999)国の登録有形文化財に登録されました。
 オレンジ色タイルと白い石の帯のレトロなデザイン、そして八角形の塔が特徴です。現在1階は海峡ロマンホール、2階は「わたせせいぞうと海のギャラリー」と門司港アート村ギャラリー「港のマチエール」になっています。

下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
日記@BlogRanking



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

門司港駅

2011年09月28日 | 旅 歴史
 福岡県北九州市門司区港町にある門司港駅です。
 門司港駅は、大正3年(1914)にローマのテルミネ駅を模して建てられた駅舎です。九州で最も古い木造の駅舎で、駅としては全国で唯一国の重要文化財に指定されています。
 木造2階建ての本格的なフレンチ・ルネッサンス様式を用い、左右の造りが対称的な美しさを出しています。
 大理石とタイルの洗面所、1階トイレにある青銅製の手水鉢などは、門司駅開設当時からのものです。手水鉢は、戦時中の貴金属供出から免れたことから、幸運の手水鉢と呼ばれているそうです。


下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
日記@BlogRanking

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森鴎外旧居

2011年09月27日 | 旅 歴史
 福岡県北九州市小倉北区鍛冶町にある森鴎外旧居です。
 明治の文豪森鴎外が旧陸軍第12師団軍医部長として小倉に勤務していた時の住居です。後に鴎外が書いた「鶏」は、この家を舞台にしたものだそうです。
 鴎外は明治32年(1899)から2年10ヶ月間小倉に住んでいましたが、その最初の1年半住んだのが、この鍛冶町の家です。
 そしてここで名訳とされるアンデルセンの「即興詩人」を翻訳し、「我をして九州の富人たらしめば」「鴎外漁史とは誰ぞ」などを書いたそうです。

下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
日記@BlogRanking
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八坂神社

2011年09月26日 | 旅 歴史
 福岡県北九州市小倉北区城内にある八坂神社です。
 八坂神社は小倉城内にあります。昭和9年(1934)に現在地へ移されたものです。もともとは城郭北西の鋳物師町に元和3年(1617)細川忠興が小倉城の鎮守として創建したものです。
 鷹狩に出た細川忠興が、小さな祇園社の祠の中のご神体を見ようと、扉をこじ開けようとしました。その時、中から一羽の鷹が飛び出し、忠興の目を蹴ったそうです。
 目が見えなくなった忠興は、自分の行ないを恥じ、祠を立派な神社に建て替えさせました。すると、忠興の目は見えるようになったそうです。愛宕山の祇園社を南殿に、古船場町の祇園社を北殿とし、一つの大きな神社を造ったため、中では二つの祇園様が祀られています。
 太鼓の祇園として親しまれ全国三大祇園の一つに数え上げられている小倉祇園祭は400年の歴史を持つ八坂神社の夏祭りです。映画「無法松の一生」で一躍有名になりました。

下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
日記@BlogRanking
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松本清張記念館

2011年09月25日 | 旅 歴史
 福岡県北九州市小倉北区城内にある松本清張記念館です。
 松本清張記念館は小倉城の一角に平成10年(1998)にオープンしました。小倉生まれ、その半生を小倉で過ごした松本清張は、「点と線」がベストセラーになり社会派推理小説ブームを巻き起こしました。
 書斎や3万冊にも及ぶ書庫などを再現し、清張文学や彼の生涯を、グラフィカルに分かりやすく展示紹介しています。

下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
日記@BlogRanking



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小倉城

2011年09月24日 | 旅 歴史
 福岡県北九州市小倉北区城内にある小倉城です。
 小倉城は南北朝時代以後、大内氏、太宰少弐氏、大友氏、菊地氏ら有力大名の争奪の的となり、めまぐるしく城主は交代しました。
 天正14年(1586)九州平定の軍を進めた豊臣秀吉は毛利勝信に8万石を与えて小倉城主とし、勝信は小倉城の改築に着手しました。
 慶長5年(1600)関ケ原の合戦後、豊前一国と豊後二郡32万石で入封した細川忠興は中津城に入りました。中津は地の利が悪いため、慶長7年(1602)から5年の歳月をかけて小倉城の大修築をして五重六層の天守を築き上げました。
 寛永9年(1632)熊本の加藤忠広が改易になると、細川忠利は熊本に転封。播磨明石から小笠原忠真が15万石で小倉城主となりました。小笠原氏は九州探題として10代続き幕末を迎えました。
 幕府の第二次長州征伐の時、小倉藩は奇襲攻撃をした長州軍に破れ、城を自ら焼き払って敗退しました。現在の天守は続櫓とともに昭和34年(1959)に再建されたものです。

下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
日記@BlogRanking
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宗像大社

2011年09月23日 | 旅 歴史
 福岡県宗像市田島にある宗像大社です。
 宗像大社(むなかたたいしゃ)は全国に六千余ある宗像神社の総本社で、沖津宮、中津宮、辺津宮の三宮を合わせた総称です。古くは「日本書紀」にその名が登場し、古来から海陸交通の守護神として崇敬を集めています。
 沖津宮(おきつみや)は沖ノ島にあり、島全体が御神体となっていて、田心姫神 (たごりひめのかみ)を祀っています。沖ノ島は、現在でも女人禁制で、古代の遺跡が残っています。海の正倉院と呼ばれ出土品は国宝に指定されています。辺津宮神宝館で古代装飾品などを見ることができます。
 中津宮(なかつみや)は筑前大島にあり湍津姫神 (たぎつひめのかみ)を祀っています。大島は神湊から海上8kmの地点にあります。沖ノ島は大島から48kmも離れています。
 辺津宮(へつみや)は宗像市田島にあり市杵島姫神 (いちきしまひめのかみ)を祀っています。一般に宗像大社というと辺津宮のみを指す場合が多いようです。
 三社に祭られている三柱は、宗像三女神(宗像三神)と総称されます。天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけい)の際、天照大神の息から生まれたのが宗像三女神だということです。彼女達は天照の勅命を奉じ天孫を助けるため筑紫の宗像に降りこの地を治めるようになったといわれています。
 鎌倉時代以降は武家の信奉もあり小早川、黒田氏などにより社殿の造修営、社領の寄進がなされました。辺津宮の本殿は天正6年(1578)宗像大宮司氏貞が再建し、拝殿は天正18年、小早川隆景が造営しました。ともに国の重要文化財に指定されています。

下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
日記@BlogRanking



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

香椎宮

2011年09月22日 | 旅 歴史
 福岡県福岡市東区香椎にある香椎宮です。
 香椎宮(かしいぐう)は仲哀天皇9年(200)、熊襲征伐の途中橿日宮(かしひのみや)で仲哀天皇が急逝され、神功皇后が祠を建て天皇の神霊を祀ったのが起源とされています。
 養老7年(723)、神功皇后自身の御神託により朝廷が社殿の造営を始め、神亀元年(724)に竣工されたそうです。
 古くから朝廷の崇敬厚く祈願・奉幣等は宇佐神宮に次ぐ扱いを受け、伊勢神宮、気比神宮、石清水八幡宮と共に「本朝四所」と称されました。
 本殿は桁行3間、梁間3間、1重入母屋造りで正面と左右側面に破風付き、桧皮葺きの建物です。享和元年(1801)藩主黒田斉清(なりきよ)の造営、修築と伝えられています。
 香椎造とよばれる複雑な構造形式で国の重要文化財に指定されています。大伴家持は「いざ児等香椎の潟に白妙の袖さへぬれて朝菜つみてむ」と詠んでいます。


下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
日記@BlogRanking
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

筥崎宮

2011年09月21日 | 旅 歴史
 福岡県福岡市東区箱崎にある筥崎宮です。
 筥崎宮は「筥崎八幡宮」とも称し、大分県宇佐市の宇佐神宮、京都府八幡市の石清水八幡宮とともに日本三大八幡宮に数え上げられています。応神天皇(八幡大神)と、その母である神功皇后、海の神様である玉依姫命を祀っています。
 延喜21年(921)、醍醐天皇が国家鎮護のために建立したといわれ、博多区住吉の住吉神社とともに筑前国の一宮です。「敵国降伏」の震翰を掲げる桜門は伏敵門として有名です。
 鎌倉中期、元寇の兵火で焼失しましたが、亀山上皇が社殿を造営して、建治元年(1275)紺紙に金泥で敵国降伏の4文字を37枚書いて奉納したそうです。
 本殿は9間社流造りの桧皮葺き、拝殿は桁行4間、梁間1間、1重切妻造りの桧皮葺きです。天文15年(1546)大内義隆により再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。
 「敵国降伏」の震翰を掲げてある楼門は3間1戸、入母屋造りの桧皮葺きです。建て坪は12坪ですが、屋根は83坪もあるそうです。文禄3年(1594)小早川隆景に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。

下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
日記@BlogRanking
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇美八幡宮

2011年09月20日 | 旅 歴史
 福岡県粕屋郡(かすやぐん)宇美町宇美にある宇美八幡宮です。
 宇美八幡宮の創建は敏達天皇3年(575)で応神天皇、神功皇后、玉依姫命、住吉大神、伊弉冉尊(いざなぎのみこと)を祀っています。応神天皇が神功皇后から生まれた所でもあるのです。
 神功皇后が三韓征伐中、仲哀(ちゅうあい)天皇との子を宿していました。ここ筑紫の国に戻って産んだ子が応神天皇で「宇美」の地名もこの時の「産み」に由来するものといわれています。
 境内には、神功皇后が出産のときにすがりついたという「子安の木」、応神天皇の産湯に使ったと伝えられる「産湯の水」などがあります。
 境内末社の湯方殿の前には「子安の石」と呼ばれる拳大の石が納められています。妊婦は安産を祈願してこの石を持ち帰り、出産後は別の新しい石を添えて返すという風習があります。
 境内には湯蓋の森(ゆぶたのもり)という楠木と、衣掛の森(きぬかけのもり)といわれる楠木があります。両木とも国指定天然記念物となっています。これらの木は応神天皇降誕にまつわるご神木となっています。

下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
日記@BlogRanking
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大宰府政庁跡

2011年09月19日 | 旅 歴史
 福岡県太宰府市観世音寺にある大宰府政庁跡です。
 都府楼跡(とふろうあと)の名前で親しまれている大宰府政庁跡は奈良から平安時代にかけて九州一円を統轄していた役所大宰府があったところです。
 7世紀後半、大和朝廷は那の津の官家(みやけ)をここに移し、九州を治め、わが国の西の守り(防衛)、外国との交渉の窓口となる役所(大宰府)としました。
 太宰府は平城京、平安京に次ぐ大きな都市だったようです。万葉集には「遠の朝廷(みかど)」と詠まれました。しかし天慶3年(940)に藤原純友の乱で焼失してしまいました。
 今は広い野原に立派な礎石が残り、往時をしのぶことができます。そこを中心に門や回廊、周辺の役所跡等が整備されて公園となっています。

下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
日記@BlogRanking






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大宰府学校院跡

2011年09月18日 | 旅 歴史
 福岡県太宰府市観世音寺にある大宰府学校院跡です。
 大宰府学校院は西国の役人を養成する機関でした。奈良時代、中央には大学、諸国には国学、大宰府には官吏養成のための学校院(学業院)がおかれました。明経・算・医の三学科がありそこでは九州一円の国司・郡司の子弟が学びました。
 天応元年(781)には約200人の学生が大宰府に集まったとの記録があり、大宰府が学問の中心地としても機能していたことがわかります。

下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
日記@BlogRanking
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戒壇院

2011年09月17日 | Weblog
 福岡県太宰府市観世音寺にある戒壇院です。
 戒壇院は聖武天皇の勅願により建立された観世音寺境内に天平宝字5年(761)に建てられた臨済宗のお寺です。奈良時代に出家者が正式の僧尼となるために必要な戒律を授けるために設置されました。
 奈良の東大寺と下野(栃木県)の薬師寺とともに日本三戒壇の一つに数え上げられています。三大戒壇は唐の名僧鑑真和上を招き設置されました。鑑真和上が植えたといわれる菩提樹もあります。
 中世に衰退しましたが、寛文9年(1669)崇福寺 (福岡市)の智玄和尚によって本尊の修理が施され、黒田家の家臣鎌田昌勝によって再建されたそうです。元禄16年(1703)には観世音寺から独立しています。
 平安末期作の毘廬舎那仏(るしゃなぶつ)座像が本尊であり、この本尊は国の重要文化財に指定されています。

下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
日記@BlogRanking
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

観世音寺

2011年09月16日 | 旅 歴史
 福岡県太宰府市観世音寺にある観世音寺です。
 観世音寺は天智天皇が母の斉明天皇の冥福を祈り、80年の歳月をかけて天平18年(746)に建立した勅願寺です。創建時には七堂伽藍を配した大寺院だったそうです。
 大宰府政庁域の東に接して創建されていたので「府大寺」と称され、天平宝字5年(761)には境内に戒壇院が置かれ、西日本随一の寺院といわれたそうです。源氏物語にも登場し鎮西第一の巨刹と称されました。
 現在は江戸時代初めに再建された講堂(本堂)と金堂(阿弥陀堂)のみが残るだけです。境内にある白鳳期の梵鐘(ぼんしょう)は、西暦681年に筑前国糟屋郡多々良で鋳造された日本最古の梵鐘で国宝に指定されています。京都・妙心寺の梵鐘と兄弟鐘といわれています。
 鐘楼の裏手には「観世音寺宝蔵」があり平安時代から鎌倉時代にかけての仏像13体などが展示されています。これらはすべて国の重要文化財に指定されています。

下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
日記@BlogRanking


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする