旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

三重県立博物館

2009年11月30日 | 旅 歴史
 三重県津市広明町にある三重県立博物館です。
 三重県立博物館は三重県初の総合博物館として、昭和28年(1953)6月、津市偕楽公園内に開館しています。この場所は江戸時代の津藩主藤堂家の山荘があったところだそうです。明治10年(1877)三重県公園として整備されました。
 この博物館では三重の自然・歴史・文化について紹介しています。第1展示室は、恐竜に関する化石や標本などと展示。第2展示室は、三重県の文化・歴史の紹介や化石の展示。第3展示室は三重県の生物に関する展示などがあります。
 鳥羽恐竜の発掘の様子や恐竜の骨や巨大アンモナイトの実物にさわれる展示をしています。屋外では特別天然記念物の「オオサンショウウオ」を飼育展示をしています。



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観音寺(津観音)

2009年11月29日 | 旅 歴史
 三重県津市丸之内いある高山神社です。
 藩祖「藤堂高虎」を祀っています。明治36年(1903)に建てられた神社です。高虎は、法号が寒松院殿道賢高山権大僧都で「高山公」と通称されていたので、神社名もそれに由来しているということです。
 明治9年(1876)創始で、当初は安濃郡下部田村広明(現津市)八幡神社境内に神詞があったそうですが、明治36年(1903)に津城址の本丸跡に遷宮し、鎮座式大祝祭典も執行されたそうです。昭和20年(1945)の空襲で本社殿が全焼、現在は城の南に移築されているということです。




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高山神社

2009年11月27日 | 旅 歴史
 三重県津市丸之内にある高山神社です。
 藩祖「藤堂高虎」を祀っています。明治36年(1903)に建てられた神社です。高虎は、法号が寒松院殿道賢高山権大僧都で「高山公」と通称されていたので、神社名もそれに由来しているということです。
 明治9年(1876)創始で、当初は安濃郡下部田村広明(現津市)八幡神社境内に神詞があったそうですが、明治36年(1903)に津城址の本丸跡に遷宮し、鎮座式大祝祭典も執行されたそうです。昭和20年(1945)の空襲で本社殿が全焼、現在は城の南に移築されているということです。



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津城跡

2009年11月27日 | 旅 歴史
 三重県津市丸之内にある津城跡です。
 津市は、昔には安濃津と呼ばれ、港町として大いに繁栄したそうです。鹿児島県の坊津、福岡県の花旭屠港(はかたつ)と並んで「日本三津」として中国明代の歴史書に登場しているそうです。
 安濃津城は永禄初期(1558-1568)に長野工藤一族の細野藤敦が築いたとされています。永禄11年(1568)に織田信長に攻略され翌年、信長の弟信包(のぶかね)が入城したそうです。
 元亀2年(1571)信包によって修築され本格的な城郭になったようです。天正8年(1580)には5層の天守閣や小天守も完成させたそうです。その後、文禄4年(1590)には、富田一白が城主になっています。
 富田氏は関ケ原の戦では、東軍の徳川方に属していたので、西軍の大坂方の毛利秀元(ひでもと)の3万の大軍に包囲され開城させられ、城下も灰燼に帰したそうです。
 慶長13年(1608)伊予の今治から藤堂高虎が22万の大封を受けて入城しました。城の改築に手がけ、荒廃した町を再興させ、城を中心に武家屋敷、町屋などの城下町を整備しました。伊予から来た者に移住奨励金を与えるなど城下は急速に発展したそうです。
 高虎は大阪の陣の軍功などで増封され、元和3年(1618)には32万石の大大名になりました。以後、津城は藤堂氏が代々相続し、明治維新まで12代260年治めました。




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結城神社

2009年11月26日 | 旅 歴史
 三重県津市藤方にある結城神社です。
 南朝の忠臣「結城宗広(ゆうきむねひろ)」を祀る神社です。後醍醐天皇を奉じて新政権樹立に貢献した武将です。ここの狛犬は青銅製では日本一大きいものだそうです。
 宗広は義良(のりよし)親王(のちの後村上天皇)を奉じて、海路東国へ向かう途中、台風のため安濃津(津市)に漂着しここで病死したそうです。境内には墓もあり毎年5月始めに例大祭が行なわれるそうです。
 この地は古くから結城の森と伝えられ、350本の枝垂れ梅が2月中旬から3月上旬にかけて華麗に咲き誇るそうです。


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香良洲神社

2009年11月26日 | 旅 歴史
 今日は三重県津市香良洲町高砂にある香良洲神社を紹介します。
 延喜式内社で大同2年(807)の創建といわれる古社です。天照大神(あまてらすおおかみ)の御妹神にあたる「稚日女尊(わかひるめのみこと)」を祀っています。
 伊勢湾に面した松林の中に拝殿や神明造の本殿がひっそりと建っています。古くから「お伊勢参りをして香良洲に参らぬは片参宮」とまでいわれ、参拝者が絶えなかったそうです。
 参拝の道は伊勢参宮街道から分かれ「からす道」と呼ばれていたそうです。伊勢神宮と同様に20年に1度、神宮より1年遅れで式年遷座が行なわれているそうです。
 毎年8月15日に行われる宮踊りは香良洲神社での奉納一番くじで踊る順番を決めています。字(集落)によって定めるためケンカが始まるそうです。
 そのため「香良洲のケンカ踊り」として有名です。三重県の無形文化財に指定されています。
 踊り子は、頭から鳥毛のカブトという「かんむり」をつけて、頭からたれた鳥毛で顔を隠します。浴衣染めのジュバンを着て浴衣のモモヒキをはき、ワラジを履いて、肩からカンコを吊るして踊るのです。
 祭り当日、各区の踊り子は、まず香良洲神社の神前で踊り、その後各区へ戻ってから翌日の午前中まで、不眠不休で踊り続けるそうです。



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香良洲町歴史資料館

2009年11月25日 | 旅 歴史
 三重県津市香良洲町浜浦にある香良洲町歴史資料館です。
 若桜会館は香良洲町に移管されコンクリート3階建てに新築されました。平成10年4月より香良洲町歴史資料館となりました。平成18年1月1日一志郡香良洲町は10市町村で津市に合併したため資料館の名称も変更されそうです。
 1、2階は郷土資料展示室です。3階が平和記念展示室で三重海軍航空隊の遺品や資料が展示されています。当時、香良洲町面積の3分の2が航空隊だったそうです。



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三重海軍航空隊跡

2009年11月24日 | 旅 歴史
 三重県津市香良洲町浜浦にある三重海軍航空隊跡です。
 三重海軍航空隊の正門があります。土浦海軍航空隊と並んで予科練で有名な三重海軍航空隊は昭和17年(1942)8月に設置されたそうです。
 海軍飛行予科練習生は太平洋戦争時の海軍飛行兵養成制度の一つで志願制だったそうです。通常「予科練」と略称で呼ばれていました。
 飛行場で身体訓練やモールス信号、手旗信号演習などを習得しました。当初は約2年程であった履修期間は戦争が激しくなると短くなっていったそうです。
 若桜会館の「予科練」の碑があります。若桜会館は海軍三重海軍航空隊関係者が募金で作ったものでしたが関係者の高齢化にともない香良洲町に移管され香良洲町歴史資料館に生まれ変わっています。
 予科練生の制服には前に7個のボタンが付いており、「7つボタン」といえば予科練を表す畏敬の言葉でした。多くの優秀な若い命が、祖国のために犧牲になりました。


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本居宣長記念館

2009年11月24日 | 旅 歴史

 今日は三重県松阪市殿町にある本居宣長記念館を紹介します。
 松阪が生んだ偉大な国学者、本居宣長の記念館です。2階の展示室には「古事記伝」の自筆稿本や日記、遺品、自画像、宣長遺愛の鈴、日常使用していた机や書物などを公開しています。
 収蔵品総数はなんと約16000点もあるそうです。しかも467種1949点が国重要文化財に、また20種31点が県の有形文化財に指定されているという驚くべき博物館なのです。
 宣長が活躍した頃の松阪は自由な気風で開放された場所であったようです。宣長が着ている鈴屋衣(すずのやごろも)という独自の服や、茶筅風(ちゃせんふう)にした風変わりな髪型もそれを表わしています。新しい商法で財をなした越後屋(三越)もここ出身です。蛇足ですが宣長の小津家は、映画監督小津安二郎の祖先になるそうです。



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松阪城跡

2009年11月23日 | 旅 歴史
 三重県松阪市殿町にある松阪城跡です。
 戦国の武将蒲生氏郷は、近江の国日野の城主でした。数々の武功により、天正12年(1584)に、秀吉から伊勢松ケ島城の城主として12万石を与えられました。
 松ヶ島城は天正8年(1580)北畠具教の養子に入った信長の次男北畠信雄が築城しました。天正12年(1584)に蒲生氏郷が入城し南伊勢支配の拠点となっていましたが氏郷は不便なこの場所を捨て、四五百森(よいほの森)に新しい城を築いたのでした。
 天正16年(1588)に城は完成し松阪城と名付けたそうです。吉祥の木とされる「松」と秀吉がいる中心地大坂の「阪」から「松坂」としたといわれています。そして地名も松阪になったそうです。
 築城とともに城下町を整え、近江日野などから連れてきた職人や商人を住まわせたそうです。「座」を廃止して楽制にして商売がしやすいようにしたため商業都市松阪の基礎が築かれたのです。
 氏郷はわずか2年で会津若松移封になり、服部一忠に引き継がれました。次に古田重勝・重治が領し、元和5年(1619)から明治維新までは紀州徳川家の管轄となり城代がおかれたそうです。
 天守閣は一国一城令で壊される予定でしたが費用の関係からそのままの姿でいられましたが修復などできなかったため、江戸時代に崩壊したそうです。城址の一角に松阪が生んだ「本居宣長」の旧邸(鈴屋)が保存公開されています。
 本居宣長は古事記伝の執筆に半生を捧げた江戸中期の国学者です。松阪の出身で12才のころから亡くなるまで暮らした魚町の旧宅が明治42年に松阪城址の中に移築されています。宣長が鈴の愛好家であったので、「鈴屋」と呼ばれています。36個の小鈴を飾った柱掛鈴を壁に掛け、音色を楽しんでいたそうです。
 宣長は享保15年(1730)松阪市本町の豪商小津家の長男として生まれました。宣長が11歳の時、父が亡くなって家業が傾いたため、隠居所であったこの「鈴屋」に住むようになったそうです。
 宣長は木綿商の家に生まれましたが商才がなかったため23才の時、母の配慮で医学の修業に京都へ旅立ったのでした。松坂に帰り医者になった宣長「源氏物語」の講義をしたり「日本書紀」の研究や儒学・古典・歌文等を修めていきました。
 賀茂真淵の書に出会って国学の研究に入りました。宝暦13年(1763)「松阪の一夜」として名高い真淵の訪問で万葉仮名に慣れるため万葉集の注釈を薦められました。その後35年間かけて「古事記伝」44巻を執筆したのでした。


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斎宮歴史博物館

2009年11月22日 | 旅 歴史
 三重県多気郡多気町竹川にある斎宮歴史博物館です。
 昭和54年(1979)に明和町にある斎宮跡の約137ヘクタールの範囲が国の史跡に指定されました。発掘調査が進められていますが、規模の大きな宮殿のため、全体を把握するには相当長い年月が必要とされるようです。
 斎宮歴史博物館は昭和45年(1970)以来継続的に進められている発掘調査や研究の成果に基づき、斎宮の歴史を紹介するため、平成元年(1989)10月に史跡の一角にオープンしました。平成11年(1999)10月、斎王や斎宮を紹介する博物館としてリニューアルしています。


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斎宮跡

2009年11月22日 | 旅 歴史
 今日は三重県多気郡多気町竹川にある斎宮跡(さいくうあと)を紹介します。
 斎宮(さいくう)とは天皇の代わりに伊勢神宮に仕えた未婚の皇女「斎王(さいおう)」の宮殿が置かれたところです。第11代垂仁天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)が初代斎王といわれています。
 斎王は天皇が即位すると亀の甲羅や動物の骨などを使った占いである「卜定(ぼくじょう)」によって未婚の内親王(天皇の皇女)から選ばれて天皇の代わりに伊勢神宮に仕えました。
 672年、大海人皇子は壬申の乱での戦勝を願って迹太川(とほがわ)ほとりで伊勢神宮の方を向いて天照大神を拝んだそうです。大願成就したため途絶えていた斎王の制度を確立させました。大海人皇子と大田皇女(天智天皇の皇女)との子で大津皇子の実の姉でもある大来(おおく)皇女が斎王になりました。




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近津長谷城跡

2009年11月21日 | 旅 歴史

 三重県多気郡多気町長谷にある近津長谷城跡(ちかつはせじょうせき)です。
 近津長谷城とよばれる中世の城郭跡が近長谷寺のある長谷の城山の山頂にあります。眼下にはJR紀勢線、国道42号線がある平谷方向です。左手には田丸城があったそうです。
 中世城郭(ちゅうせいじょうかく)と呼ばれるもので、石垣や天守を持たず切り盛りした土塁などが残されているだけのものです。
 外宮の神官の書いた「目安案」という文書の中に「伊勢近津長谷城」とその城主「外宮神官度会家行」の名が記してあるそうです。
 貞和三年(1347)に南朝方の楠木正行(くすのきまさつら)の挙兵に呼応しここに城を構えたことが書かれているそうです。




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近長谷寺

2009年11月20日 | 旅 歴史
 三重県多気郡多気町長谷にある近長谷寺(きんちょうこくじ)です。
 丹生山近長谷寺は真言宗山階派に属し「近長」さんの通称で呼ばれています。元禄年間に伊勢の皇大神宮に近いということで近の一字を加え「近長谷寺」と改称されたそうです。
 近長谷寺は仁和元年(885)伊勢の国の豪族である「飯高宿禰諸氏」が、第58代光孝天皇の勅願所として建立しています。続日本記によりますと、飯高氏は奈良時代、四代の天皇(元正・聖武・淳仁・孝謙)に仕えた妥女「飯高諸高」を送り出した豪族だそうです。
 諸高は、性甚謙謹・志慕貞潔・典従三位を賜り、宝亀8年(777)80歳で奈保山に葬られるまで、多気郡勢和村丹生から産出する「水銀」で富を築き上げたといわれています。
 本尊十一面観音は、奈良の長谷寺、鎌倉の長谷寺とともに「日本三観音」の一つとして広く知られています。三体の仏像を一本の樟から造っていると伝えられているのです。国の重要文化財に指定されています。
 この十一面観音は高さ6.6mに及ぶ巨人な平安時代の観音像です。全国に二百ヶ寺以上あるといわれる大和長谷型観音に属するもので、なかでも右手に錫杖を添える姿は、日本唯一のものだそうです。
 本堂は、中興の祖「真海上人」が、天文6年(1537)50年かけ天正末年に再建しましたが、元禄3年(1690)の大雨などで倒壊したそうです。現在の建物は元禄7年(1694)快舜により再建されたものだそうです。


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丹生大師(神宮寺)

2009年11月20日 | 旅 歴史
 今日は三重県多気郡多気町丹生にある丹生大師(にうだいし)を紹介します。
 丹生大師は宝亀5年(774)弘法大師(空海)の師である勤操大徳が開山したそうです。女人禁制の高野山に対しこちらは女性に開放されていたことから女人高野(にょにんこうや)と呼ばれたそうです。
 丹生大師は正式には丹生山神宮寺成就院といい、「お大師さん」の愛称で親しまれています。真言宗山階派の1等格寺院です。丹生山「近長谷寺」とは姉妹寺院になるそうです。
 高い構造の仁王門は左右に金剛力士、持国天、多聞天を祀った雄大な山門です。享保元年(1716)に建てられたそうです。
 この堂々とした山門をくぐり抜けると、自然の地形を生かした広大な境内と老樹、大樹、池の美しい風景が広がります。
 光仁年中(810~824)、唐から帰国した空海は諸国を巡拝し、ここにも立ち寄ったそうです。その時本堂の梁に勤操大徳創立とあるのを見て不思議な縁と感激したのでした。
 「すでに高野山に伽藍建立を考えているが、まずこの地に仏閣を建立し衆生をすくわん」と発願し弘仁6年(815)七堂伽藍を完成させたということです。
 一の鳥居を入って左手神宮寺側奥に丹生神社・拝殿が建っています。この拝殿は昭和5年(1930)の伊勢神宮の式年遷宮の時、外宮の御正殿の傍らにたつ東宝殿の建物を移築したものだということです。
 丹生神社には水銀の採堀用具が、神宮寺には水銀蒸留のためのかまが残されているそうです。ここ丹生は、奈良時代の和銅年間(708~714)に、水銀が発見されてから次第に繁栄し賑やかになったところだそうです。
 「丹生」という地名も、丹砂を生む所という意味で朱砂・辰砂ともいわれる硫化水銀の原鉱石からきているそうです。
 神宮寺本堂は丹生神社の神宮寺として建立されました。境内は神社と寺院が混然一体となっています。現在でも丹生大師さんとして寺院の方が参拝者も多いそうです。
 文殊堂は元禄14年(1701)に建立され昭和61年(1986)に再建されています。本尊は文殊菩薩、脇仏に普賢菩薩が祀られています。学問の仏として厚く信仰されています。
   大師堂の本尊である弘法大師像は、大師42歳の自画像で、衆生の厄除と未来結縁のために、自ら刻んで安置したといわれています。
 古代日本で使われていた水銀のほとんどが、ここ「丹生」で採掘されたものと考えられています。有名な奈良東大寺の大仏にも、丹生水銀が使われたそうです。
 中世には全国唯一の同業者の組合のような「水銀座」ができ、全国から商人や鉱夫が集まり、「丹生千軒」と呼ばれるほどの繁栄をみせたそうです。
 水銀は、仏像や調度品の金具などのメッキ、白粉に代表される顔料の材料としてたいへん重宝されたそうです。しかし中世以降は次第に産出量も減ってゆき、衰退していったそうです。
 護摩堂は煩悩を表示する薪を焚いて修業するお堂です。東海36不動尊霊場の第24番札所になっています。
 七堂伽藍は度々兵火にかかり、天正12年(1584)三瀬左京の乱で殆んど焼失してしまいました。現在の20あまりの諸堂は観音堂の貞享元年(1684)を皮切りに、それ以降の江戸時代に再建されたそうです。




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