旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

群馬県の桐生明治館です。

2006年09月30日 | 旅 歴史
 桐生明治館は、明治11年に建てられた擬洋風の建物です。前橋・県庁前の群馬会館の場所に「群馬県衛生所兼医学校」として建築されたそうです。その後「県立女学校」「師範学校付属小学校」「物産陳列館」「県農会」と使用者は変わりました。昭和3年、現在の群馬会館を建設するため相生村に移築され「相生村役場」となったのだそうです。「白い洋館」と呼ばれ、明治の初期洋風建築のさまざまな特徴をそなえています。左右ほぼ対称の形と優美な色彩は素晴らしさを感じさせます。 昭和51年に国の重要文化財の指定を受けました。
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群馬の高崎白衣大観音です。

2006年09月29日 | 旅 歴史
 高崎市の西方に広がる観音山丘陵の頂上には白衣大観音がそびえ立っています。平成12年(2000)には像としては初めて国の登録有形文化財に選定されたそうです。高崎市街地を見下ろす観音様は、昭和11年(1936)に実業家井上保三郎によって建立されたそうです。今では高崎のシンボルとして市民に愛されています。
 高さは41.8mで地上9階建ての大きなものです。慈愛に満ちた柔和な表情をしています。
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長野の海津城(松代城)址です。

2006年09月28日 | 旅 歴史
長野市松代町の松代城は戦国時代には海津城と呼ばれ、北信濃に進出した武田信玄が永禄3年(1560)軍師の山本勘助に命じて築かせたものです。武田二十四将の一人高坂弾正を海津城主として上杉謙信の信濃への侵攻に備え、川中島四郡の要の地の最前線根拠地として築いた城です。
 永禄四年九月の川中島激戦の際は、武田信玄の本陣となり、妻女山に陣営を張る上杉軍に相対して、ここで軍を二手に分け、一手は妻女山攻撃隊となり一手の軍勢は武田信玄自ら率いて八幡原の直戦地へ進出した根拠地です。  
 天正10年(1582)の武田氏滅亡後は、織田信長の武将森長可(ながよし)が海津城主となりましたが、同年6月に本能寺の変で信長が亡くなると、海津城は上杉景勝が支配するところとなりました。
 
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群馬県桐生にある彦部氏住宅です。

2006年09月26日 | 旅 歴史
 彦部氏住宅は室町時代に武士の屋敷として作られたもので、主屋、長屋門、冬住み、穀倉、文庫倉が国の重要文化財に指定されています。屋敷構えは背後を戦時の砦となる手臼山、残る三方を堀や土塁で固めています。中世武士の館のたたずまいを残しているのです。主屋は入母屋造り・かやぶき茅葺で、正面約18m・奥行き約11mあって規模が大きいものです。建築年代は江戸前期で全国的にも古く貴重な遺構です。当時の上層農家の姿を今に伝えています。
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高崎にある少林山達磨寺です。

2006年09月25日 | 旅 歴史
 昔、大洪水で碓氷川に流れて来た大木を一了行者が達磨大師の像を彫ってお堂に安置したのが少林山達磨寺の起こりです。 元禄十年(1696)前橋城主酒井公が水戸光圀公にお願いして、中国の渡来僧「心越禅師」(しんえつぜんじ)を迎え禅の道場として、この寺が開かれたそうです。高崎だるまは少林山達磨寺九代東獄和尚の伝授で生活に苦しむ農民の副業としてだるま作りを山県友五郎が始めたことから始まったそうです。少林山周辺では正月恒例のだるま市にむけ、70軒ほどの家で年間150万個のだるまが生産され、全国の8割を占めています。
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旧信越本線の碓氷第三アーチのめがね橋です。

2006年09月24日 | 旅 歴史
 旧信越本線の碓氷第三アーチのめがね橋です。碓氷の急峻を越えるためドイツのハルツ山鉄道のアプト式が採用されました。明治25年12月に竣工され26年にかけて建設しました。設計者はイギリス人のパゥネル技師らです。煉瓦造りのアーチ橋で長さは87.7m、高さは31mあります。
 こう配は1000分の66,7という旧国鉄最高のこう配です。昭和38年9月に速度改良のため廃止になりました。優れた技術と芸術的な美しさは今なおその威容を残しています。 
 明治政府は最重要の輸出品だった生糸産業の振興と、東日本の兵員を輸送するためこの鉄道を完成させました。500以上の犠牲者を出しながら、わずか2年間の工期でこの大工事は出来上がったのです。現存する12のトンネルの入り口はすべて違ったデザインになっています。基本的にはレンガ積みですが切り石も巧みに組み合わせ、特異な外観になっています。
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群馬県妙義山の中腹中之嶽神社です。

2006年09月23日 | 旅 歴史
 数々のコメント有り難うございます。メイルが記載されている場合はご返事をしていますがそれ以外はごめんなさい。neorinさん西国三十三箇所これから掲載していきますのでご期待下さい。
 中之嶽神社は妙義山の中腹に位置し、寿永元年(1182)欽明天皇の時代に創建された古社で日本武尊を祀っています。大黒尊天霊場でもあります。第52代嵯峨天皇の勅命により、弘仁九年(819年)大納言藤原冬嗣卿と弘法大師が登嶽し、大国主神出雲大社の分社として創設されたそうです。中之嶽神社はその轟岩を御神体としているので拝殿・幣殿のみで本殿がない珍しい様式となっています。 大和時代の第29代欽明天皇(在位539-571年)の御代に妙形氏が社殿を建立したそうです。平安末期、第82代後鳥羽天皇の寿永2年(1183)藤原祐胤卿が神剣を奉納したそうです。江戸時代に入ると、第108代後水尾天皇の元和2年(1616)加藤長清(道士)が登厳し中興の開山主として神器を守り奉斉し、諸大名が崇敬を寄せるようになったそうです。奇岩怪石が屹立する妙義の金洞山(1104m)には戦国時代から江戸時代初期にかけて実在したとされる「長清」道士の天狗伝説が残っています。加藤長清は戦国時代小田原の北条氏に仕えていた武士の家に生まれたそうです。道士の父親は殺されてしまったそうです。自分の未熟な剣の腕では仇討ちなど到底無理であることを悟り、剣術の修行のために金洞山に篭り数年間の厳しい修行を積み、ついには剣の極意を究めたそうです。父親の仇を探し出し一撃のもとに相手を斬り見事に宿願を果たした道士は仏門に入りました。そして名を「長清」と改めました。そして金洞山に戻ると悟りへの修行に没頭し、病気を治すという奇跡などもしたといわれています。
 死後、道士は妙義山に棲息する天狗の頭領となり、大勢の天狗を率いて今でも山岳仏教の修行者や山中の神社の崇敬者を見守っているといわれているのです。
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群馬県にある赤城自然園です。

2006年09月22日 | 旅 歴史
赤城山西麓に自然の楽園「赤城自然園」があります。園内は『セゾンガーデン』『四季の森』『自然生態園』の3ブロックにわかれており、赤城の植物、昆虫にであうことができます。この自然園の敷地は120ヘクタール、約36万坪、群馬でいうなら榛名湖とほぼ同じ大きさなんです! 山がガーデンなんです。
 園内を巡回しているスタッフは気軽に花の名前などを教えてくれます。整備している日の方が多くて平日は入れません。問い合わせをしてから行ってみた方がよいと思います。
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長崎県にある島原城です。

2006年09月21日 | 旅 歴史
 元和2年(1616)大和(奈良県)五条から島原に移封した松倉豊後守重政によって元和4年(1618)から7年の歳月を費やして築かれた島原城です。本丸には安土桃山様式建築の粋を集めた総塗り込め白壁の美しい五層の天守閣がそびえます。三層櫓が3カ所ある豪壮堅固な城構えです。南北に連なる連郭式平城で、外郭は周囲約4kmの長方形で塀をめぐらし、城門が7か所、平櫓が33か所あったそうです。内郭は堀にかこまれた本丸・二の丸を設け、その北に藩主の居館である三の丸が造られていました。別名を森岳城、高来城ともいわれていたそうです。城主は譜代の高力、松平、戸田と代わりましたが安永3年(1774)松平(深溝)忠恕が7万4千石で入封して以降世襲して明治に至りました。その間、延宝2年(1674)の殿舎の焼失、安永6年(1777)の台風による三重櫓・平櫓の倒壊、寛政4年(1792)の眉山爆発による被害など何度も損害を受けてきました。現在の天守閣は1964年に再建され、資料館として利用されています。天守閣は360度見渡せる展望所になっていて、遠く普賢岳なども一望できます。この景色からキリシタンの悲しい歴史があったことなど思うことができません。

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出羽三山神社三神合祭殿です。

2006年09月19日 | 旅 歴史
 山形県羽黒町にある出羽三山神社三神合祭殿は出羽三山の三神を祭る豪壮な建物です。出羽神社と冬期に雪のため参拝が不可能な月山と湯殿山を祭って三神合祭殿としています。
 本殿はたび重なる火災に見舞われましたが、現在の社殿は文化元年(1818)に再建されたものです。権現造で、茅葺屋根は高さ28m、厚さ約2、1mもあり、国の重要文化財に指定されています。
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甲府の武田神社です。

2006年09月18日 | 旅 歴史
 武田神社は元武田氏の館跡で、当時は「躑躅(つつじ)が崎館」と呼ばれていました。「躑躅が崎館」は武田信玄公の父、武田信虎が永正16年(1519)に石和から移り築いたもので、武田信玄公の時代を経て、武田勝頼が新府城を築くまでの間、武田氏の拠点でありました。境内には館の土塁・堀・石垣が残っています。
 敷地内には、「宝物館」、「島崎藤村記念館」も設置されています。甲府市民の初詣、花見の定番となっています。本堂で結婚式なども執り行ったりします。
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長野県佐久にある新海神社です。

2006年09月17日 | 旅 歴史
 重要文化財の新海神社三重塔は神社には珍しい三重塔があります。新海三社神社の神宮寺の塔として建立され、明治維新の廃仏毀釈の際には神社の宝庫として破却をまぬがれました。塔は塔婆の略で、本来仏教的構造物であり、神社にあるのは不思議です。わが国には神仏習合という長い歴史があり、新海神社にも神宮寺があり、神宮寺の塔としてこの地に三重塔が建立されたようです。明治維新の際、神仏分離令の発布により、神宮寺は川原宿という場所に移されましたが、この塔は、神社の宝物庫という名目で、現位置にそのまま残されました。
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諏訪大社下社です

2006年09月16日 | 旅 歴史
諏訪湖周辺にある4つの諏訪大社のなかで、もっともにぎわいをみせるのが、諏訪大社下社秋宮です。下社は春宮と秋宮の二社に分かれているのです。
 下社の祭神である八坂刀売命は、二月から七月まで春宮に鎮座し、八月一日の御舟祭りで秋宮に遷座し、翌二月一日に春宮に帰座されるといわれています。つまり夏は春宮に、冬は秋宮に住まわれるのです。
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長野市の戸隠神社中社です。

2006年09月15日 | 旅 歴史
 戸隠神社は、ここ中社と、宝光社、奥社、九頭龍社、日之御子社の五社で構成されています。九頭龍社は奥社の横に、日之御子社は中社と宝光社の中間にあります。通常は、奥社、中社、宝光社で戸隠三社と呼ばれています。御祭神は「天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)」 です。
 若狭国小浜の漁師が人魚を殺し、誤ってその肉を三人の子に食べさせたところ三人とも人魚になってしまいました。漁師はその罪を悔い、戸隠山に籠もりここの杉の木三本を植えたといいます。石段上の境内の樹齢900年余に及ぶ三本杉がこの八百比丘尼の伝説の杉だといわれています。
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長野の善光寺です。

2006年09月14日 | 旅 歴史
 善光寺は、約1400年前に建立され、一宗一派にこだわる事なく、あまねく全ての人に極楽浄土に導いてくれる御利益があります。現在の本堂は、宝永4年(1707年)に建立されたもので、江戸時代中期を代表する寺院建築として国宝に指定されています。皇極天皇の時代(642年)に創建されて以来12回目の建築です。
本堂前の4本の柱には、善光寺大地震(1847年)による「ねじれ」が見られ、「地震柱」と呼ばれています。 「牛に引かれて善光寺参り」から、「善光寺さん」と「そば」と「姨捨の月」と小林一茶が書くくらいですから善光寺は人気があったのでしょう。老若男女・善男善女、誰でもどの宗派でも受け入れるという自由な気風が人気の秘訣だったようです。
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