和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山・根本大塔です。
根本大塔(こんぽんだいとう)は昭和12年(1937)に再建されたものです。弘法大師が創建する際、高さ16丈(約48.48m)もの巨大な建物にしたため、在世中には完成できず、第二世の真然大徳の時に落慶したと伝えられています。
この根本大塔も度々火災にあい、記録に残っているだけで5回も焼失し、その度に再建されてきました。現在の建物は、京都帝国大学教授天沼俊一博士、国会議事堂の設計にも関与した武田五一博士、古社寺修理監督の大浦徳太郎建築技師などにより設計監修され完成しました。鉄骨・鉄筋コンクリート造りで、外装のみ木材朱塗りの建物となりました。高さは創建当時と同じ高さがあるそうです。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
根本大塔(こんぽんだいとう)は昭和12年(1937)に再建されたものです。弘法大師が創建する際、高さ16丈(約48.48m)もの巨大な建物にしたため、在世中には完成できず、第二世の真然大徳の時に落慶したと伝えられています。
この根本大塔も度々火災にあい、記録に残っているだけで5回も焼失し、その度に再建されてきました。現在の建物は、京都帝国大学教授天沼俊一博士、国会議事堂の設計にも関与した武田五一博士、古社寺修理監督の大浦徳太郎建築技師などにより設計監修され完成しました。鉄骨・鉄筋コンクリート造りで、外装のみ木材朱塗りの建物となりました。高さは創建当時と同じ高さがあるそうです。
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和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山・金堂です。
昔は講堂と称していた金堂は高野山全体の総本堂で高野山での主な宗教行事が執り行なわれます。弘仁10年(819)に創建されましたが、承和5年(838) 嵯峨天皇御願の御堂として新たになり、本尊である薬師如来像と脇侍の諸尊像が奉安されたそうです。
正暦5年(994)、久安5年(1149)、永正18年(1521)、寛永7年(1630)、天保14年(1843)、昭和元年(1926)に焼失し、現在の金堂は昭和7年(1932)に再建された入母屋造りの鉄筋コンクリート造りの建物です。
高村光雲作の本尊、薬師如来が奉安され、壁面には木村武山画伯の壁画があります。
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昔は講堂と称していた金堂は高野山全体の総本堂で高野山での主な宗教行事が執り行なわれます。弘仁10年(819)に創建されましたが、承和5年(838) 嵯峨天皇御願の御堂として新たになり、本尊である薬師如来像と脇侍の諸尊像が奉安されたそうです。
正暦5年(994)、久安5年(1149)、永正18年(1521)、寛永7年(1630)、天保14年(1843)、昭和元年(1926)に焼失し、現在の金堂は昭和7年(1932)に再建された入母屋造りの鉄筋コンクリート造りの建物です。
高村光雲作の本尊、薬師如来が奉安され、壁面には木村武山画伯の壁画があります。
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和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山・壇上伽藍です。
高野山には西院谷、南谷、谷上、本中院谷、小田原谷、千手院谷、五の室谷、蓮花谷と8つのがあります。そして、各々の地区に多くの寺院があります。
西端には高野山の正門にあたる大門があり、国の重要文化財に指定されています。また東端には奥の院への入口である一の橋があります。
信仰の中心は、総本山金剛峯寺の西、「壇上伽藍」と呼ばれる場所です。ここには金堂、根本大塔、東塔、西塔、御影堂、准胝堂(じゅんていどう)、三昧堂、大会堂、愛染堂、明神社、山王院、六角経蔵、鐘楼、孔雀堂、国宝に指定されている不動堂などの堂塔が並んでいます。
壇上伽藍は奥の院とともに高野山の二大聖地です。ここは真言密教の根本道場のため弘法大師が創建した伽藍なのです。壇上伽藍には僧が修行する静寂の園という意味があるそうです。
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高野山には西院谷、南谷、谷上、本中院谷、小田原谷、千手院谷、五の室谷、蓮花谷と8つのがあります。そして、各々の地区に多くの寺院があります。
西端には高野山の正門にあたる大門があり、国の重要文化財に指定されています。また東端には奥の院への入口である一の橋があります。
信仰の中心は、総本山金剛峯寺の西、「壇上伽藍」と呼ばれる場所です。ここには金堂、根本大塔、東塔、西塔、御影堂、准胝堂(じゅんていどう)、三昧堂、大会堂、愛染堂、明神社、山王院、六角経蔵、鐘楼、孔雀堂、国宝に指定されている不動堂などの堂塔が並んでいます。
壇上伽藍は奥の院とともに高野山の二大聖地です。ここは真言密教の根本道場のため弘法大師が創建した伽藍なのです。壇上伽藍には僧が修行する静寂の園という意味があるそうです。
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和歌山県伊都郡高野町高野にある高野山・大門です。
大門は高野一山の総門です。ここから大門通りという広い道が山内に向けて真っすぐに延びています。現在のような門となる以前は、500mほど下方の旧道、「九折谷」に鳥居を建てて、高野山の総門としていたそうです。
現在の位置に移された時期は、永治元年(1141)ともいわれ、その際、鳥居から門の形式に変更されました。さらに寛喜2年(1230)には五間二階の楼門に改められたそうです。
天正5年(1577)に焼失しましたが、木食応其上人(もくじきおうごしょうにん)によって慶長9年(1640)に再建されました。現在の大門は、宝永2年(1705)に再建された建物です。国の重要文化財で5間3戸の2階2重門、高さは41.8m、入母屋造りの瓦棒銅板葺きです。
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現在の位置に移された時期は、永治元年(1141)ともいわれ、その際、鳥居から門の形式に変更されました。さらに寛喜2年(1230)には五間二階の楼門に改められたそうです。
天正5年(1577)に焼失しましたが、木食応其上人(もくじきおうごしょうにん)によって慶長9年(1640)に再建されました。現在の大門は、宝永2年(1705)に再建された建物です。国の重要文化財で5間3戸の2階2重門、高さは41.8m、入母屋造りの瓦棒銅板葺きです。
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和歌山県伊都郡九度山町九度山にある善名称院(真田庵)です。
伽羅陀山善名称院は高野山真言宗のお寺です。そしてここは真田庵(さなだあん)ともよばれています。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで敗れた真田昌幸・幸村の隠棲時代の屋敷跡でもあったからです。
昌幸は、慶長6年(1611)無念の思いでこの地で65歳の生涯を閉じました。幸村は慶長18年(1614)、大阪城に入城、大阪冬の陣、夏の陣で奮戦、元和元年(1615)茶臼山付近で壮烈な最後をとげました。
寛保元年(1741)に九度山出身の大安上人が、真田昌幸の墓所に地蔵菩薩を安置した一堂を造ったことでこのお寺が生まれました。善名称院は和歌山県の史跡に指定されていて、牡丹の名所としても知られています。
六文銭の紋が刻まれた門をくぐると、八つ棟造りの重厚な三層城閣風の本堂が建ち、軒の瓦には菊花の紋章が入っています。本尊は地蔵菩薩で、境内には開山堂(大安上人の廟)、土砂堂、宝物資料館、真田昌幸の墓、それに与謝蕪村の句碑があります。
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伽羅陀山善名称院は高野山真言宗のお寺です。そしてここは真田庵(さなだあん)ともよばれています。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで敗れた真田昌幸・幸村の隠棲時代の屋敷跡でもあったからです。
昌幸は、慶長6年(1611)無念の思いでこの地で65歳の生涯を閉じました。幸村は慶長18年(1614)、大阪城に入城、大阪冬の陣、夏の陣で奮戦、元和元年(1615)茶臼山付近で壮烈な最後をとげました。
寛保元年(1741)に九度山出身の大安上人が、真田昌幸の墓所に地蔵菩薩を安置した一堂を造ったことでこのお寺が生まれました。善名称院は和歌山県の史跡に指定されていて、牡丹の名所としても知られています。
六文銭の紋が刻まれた門をくぐると、八つ棟造りの重厚な三層城閣風の本堂が建ち、軒の瓦には菊花の紋章が入っています。本尊は地蔵菩薩で、境内には開山堂(大安上人の廟)、土砂堂、宝物資料館、真田昌幸の墓、それに与謝蕪村の句碑があります。
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和歌山県伊都郡九度山町慈尊院にある慈尊院です。
万年山慈尊院は高野山真言宗のお寺で、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されています。弥勒堂の本尊である木造弥勒仏坐像は秘仏で寛平4年(892)の墨書があり国宝に指定されています。
弘仁7年(816)、弘法大師が、高野山開創の時に、高野山参詣の要所のここに創建しました。高野山一山の庶務を司る政所を置き、高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場所としたのです。
大師の母が善通寺より会いに来ましたが、高野山は女人禁制だったため、ここに住み、翌年逝去したため母公廟が営まれました。それからは女人結縁の寺として女人高野と呼ばれました。
弘法大師はひと月に9度も20kmも離れている高野山から山道を下って、政所にいた母を訪ねたそうです。そのことで「九度山」地名になったそうです。
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弘仁7年(816)、弘法大師が、高野山開創の時に、高野山参詣の要所のここに創建しました。高野山一山の庶務を司る政所を置き、高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場所としたのです。
大師の母が善通寺より会いに来ましたが、高野山は女人禁制だったため、ここに住み、翌年逝去したため母公廟が営まれました。それからは女人結縁の寺として女人高野と呼ばれました。
弘法大師はひと月に9度も20kmも離れている高野山から山道を下って、政所にいた母を訪ねたそうです。そのことで「九度山」地名になったそうです。
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和歌山県紀の川市名手市場にある名手宿本陣(妹背家住宅)です。
名手宿本陣は名手市場村にあり大和街道に面しています。寛永7年(1630)より名手の大庄屋を勤めた地士頭妹背家の邸宅でもあります。紀州藩主の参勤交替や、鷹狩りの宿舎であったことから「本陣」と呼ばれました。
妹背家は中世期以来「紀伊八庄司」の一つに挙げられた名家で、当時は「名手荘」「丹生谷」を領した「土豪」だったそうです。華岡青洲夫人の加恵の実家でもあります。
主屋・米蔵・南倉が国指定重要文化財、敷地全域が国の史跡になっています。現在の本陣は正徳の火災の後に、享保から宝暦年間にかけて再建されたものだそうです。
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名手宿本陣は名手市場村にあり大和街道に面しています。寛永7年(1630)より名手の大庄屋を勤めた地士頭妹背家の邸宅でもあります。紀州藩主の参勤交替や、鷹狩りの宿舎であったことから「本陣」と呼ばれました。
妹背家は中世期以来「紀伊八庄司」の一つに挙げられた名家で、当時は「名手荘」「丹生谷」を領した「土豪」だったそうです。華岡青洲夫人の加恵の実家でもあります。
主屋・米蔵・南倉が国指定重要文化財、敷地全域が国の史跡になっています。現在の本陣は正徳の火災の後に、享保から宝暦年間にかけて再建されたものだそうです。
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