京都府舞鶴市南田辺に田辺城跡(舞鶴公園)があります。
田辺城は明治6年(1873)に廃城となり、本丸跡地が舞鶴公園として石垣と天守台を中心として整備されています。舞鶴の地名は、田辺城の別称である舞鶴城(ぶがくじょう)に由来しています。明治2年(1869)版籍奉還の際、紀伊田辺藩と同じ藩名解消のため太政官より指示があり舞鶴城に因んで舞鶴藩と改称したそうです。
天正6年(1578)、織田信長の命によって細川藤孝(幽斎)は守護大名の一色義道を滅ぼし、丹後を制圧しました。宮津城を居城としましたが、交通の要所であったこの地に天正8年(1580)に田辺城を築きました。旧丹後守護所の八田という地名でしたが田辺と改めたのでした。
本能寺の変の際は旧知の仲で親戚にもなっていた明智光秀に応じませんでした。その後、藤孝は忠興に家督を譲り、田辺城に隠居しました。慶長5年(1600)、徳川家康側の忠興は石田三成方の上杉討伐のため会津に向けて兵を動かしていました。留守を預った藤孝は、宮津城はじめ田辺以外の城をすへて自焼して田辺城に籠城しました。
関ヶ原前哨戦であるこの戦いは田辺城籠城戦として有名です。田辺城に籠るわずか500の兵は、福知山城主小野木重勝や前田茂勝ら西軍・1万5千人に包囲されました。藤孝は古今相伝の箱に「古も今もかはらぬ世の中に心の種をのこす言の葉」と詠んで八条宮智仁親王の使者に献上しました。
藤孝は古今和歌集の秘伝の唯一の継承者であったのです。2ヵ月後、後陽成天皇の勅命で和議が成立しました。田辺城は開城され、藤孝は前田茂勝の丹波亀山城に幽閉されました。関ヶ原の戦いで家康が勝利をおさめると藤孝は解放され、忠興は豊前中津39万9千石で転封となりました。
田辺城には京極高知が12万3千石で入封。宮津城が再築され、本拠地が移り、慶長20年(1615)の一国一城令により田辺城は一時廃城となりました。高知は丹後国を宮津藩、田辺藩、峰山藩と3分割し、子供達に与えたため、次男・高三は3万5千石で田辺城に入り、城が復活しました。
3代京極高盛が豊岡藩に移封になると牧野氏が攝津より3万5千石で入封しました。この時、田辺城も城門や石垣などを改修しています。以後、牧野家が10代、藩主を世襲し明治維新まで治めました。昭和15年(1940)に造られた二層櫓の彰古館、平成9年(1997)に復興された城門には田辺城資料館、天守台石塁などがあります。
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