長野市松代町にある長国寺です。
松代藩主真田家の菩提寺です。曹洞宗に属し、信州総禄所として格式を誇っています。天文16年(1547)真田幸隆が真田郷の松尾城内に真田山長谷寺として建立しました。元和8年(1622)上田藩主であった真田信之が松代移封に伴い現在の地に移転し寺号も長国寺と改めました。
六文銭の家紋の入った屋根の造りは、真田家の菩提寺ならではのものです。屋根に海津城から移した全長1mの二つの鯱が逆立っています。真田家歴代藩主の墓があるほか、信之、信弘の御霊屋があります。歴代藩主の墓所は霊廟の裏手にあり、幸村・大助親子の供養塔もあります。
真田信之は戦国武将真田昌幸の長男として永録9年(1566)に生まれました。関ヶ原の戦いの際、父昌幸と弟の幸村は石田三成が率いる西軍に属しました。信之は家名存続のため父昌幸の命に従い徳川方の東軍に味方しました。
関ヶ原合戦後、昌幸・幸村は九度山へ配流。縁者配流の罪にもかかわらず、東軍についた信之に対しては咎めが無く、旧領の沼田・上田が安堵されました。
元和2年(1616)、沼田藩初代藩主だった信之は、父昌幸の築城した上田城に入り、長男信吉が沼田藩二代藩主になりました。元和8年(1622)、松代に移封になり松代藩十万石の藩主となりました。万治元年(1658)この世を去っています。
松代藩主真田家の菩提寺です。曹洞宗に属し、信州総禄所として格式を誇っています。天文16年(1547)真田幸隆が真田郷の松尾城内に真田山長谷寺として建立しました。元和8年(1622)上田藩主であった真田信之が松代移封に伴い現在の地に移転し寺号も長国寺と改めました。
六文銭の家紋の入った屋根の造りは、真田家の菩提寺ならではのものです。屋根に海津城から移した全長1mの二つの鯱が逆立っています。真田家歴代藩主の墓があるほか、信之、信弘の御霊屋があります。歴代藩主の墓所は霊廟の裏手にあり、幸村・大助親子の供養塔もあります。
真田信之は戦国武将真田昌幸の長男として永録9年(1566)に生まれました。関ヶ原の戦いの際、父昌幸と弟の幸村は石田三成が率いる西軍に属しました。信之は家名存続のため父昌幸の命に従い徳川方の東軍に味方しました。
関ヶ原合戦後、昌幸・幸村は九度山へ配流。縁者配流の罪にもかかわらず、東軍についた信之に対しては咎めが無く、旧領の沼田・上田が安堵されました。
元和2年(1616)、沼田藩初代藩主だった信之は、父昌幸の築城した上田城に入り、長男信吉が沼田藩二代藩主になりました。元和8年(1622)、松代に移封になり松代藩十万石の藩主となりました。万治元年(1658)この世を去っています。