旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

長国寺

2007年10月29日 | 旅 歴史
 長野市松代町にある長国寺です。
 松代藩主真田家の菩提寺です。曹洞宗に属し、信州総禄所として格式を誇っています。天文16年(1547)真田幸隆が真田郷の松尾城内に真田山長谷寺として建立しました。元和8年(1622)上田藩主であった真田信之が松代移封に伴い現在の地に移転し寺号も長国寺と改めました。
 六文銭の家紋の入った屋根の造りは、真田家の菩提寺ならではのものです。屋根に海津城から移した全長1mの二つの鯱が逆立っています。真田家歴代藩主の墓があるほか、信之、信弘の御霊屋があります。歴代藩主の墓所は霊廟の裏手にあり、幸村・大助親子の供養塔もあります。
 真田信之は戦国武将真田昌幸の長男として永録9年(1566)に生まれました。関ヶ原の戦いの際、父昌幸と弟の幸村は石田三成が率いる西軍に属しました。信之は家名存続のため父昌幸の命に従い徳川方の東軍に味方しました。
 関ヶ原合戦後、昌幸・幸村は九度山へ配流。縁者配流の罪にもかかわらず、東軍についた信之に対しては咎めが無く、旧領の沼田・上田が安堵されました。
 元和2年(1616)、沼田藩初代藩主だった信之は、父昌幸の築城した上田城に入り、長男信吉が沼田藩二代藩主になりました。元和8年(1622)、松代に移封になり松代藩十万石の藩主となりました。万治元年(1658)この世を去っています。
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象山地下壕

2007年10月18日 | 旅 歴史
 象山地下壕は長野市松代町西条にあります。
 太平洋戦争の末期に軍が本土決戦に備えて各種政府省庁などを移設する為に極秘に建設された地下壕です。昭和19年11月11日から終戦の日まで当時のお金で2億円と延べ300万人の人よって建設されました。舞鶴山(現気象庁精密地震観測室)を中心に、皆神山、象山の3ヵ所に碁盤の目のように掘り抜かれ、その延長は10キロメートル余に及んでいます。全工程の75%の時点で終戦となり、工事は中止されました。
 舞鶴山(現気象庁精密地震観測室)地下壕は東洋一の地震観測所として使用されています。象山地下壕は訪れる人もなく、忘れ去られようとしていましたが、太平洋戦争の遺跡として多くの人々にこの存在を知ってもらおうとの観点から、平成元年から見学できるように整備したものなのです。
 多くの朝鮮の人々が労働者として強制的に動員され、1日3交替徹夜で工事が進められました。食糧事情が悪く、工法も旧式な人海作戦を強いられ、多くの犠牲者を出したと言われています。地下壕入口にはハングル語と日本語で書かれた慰霊碑が建てられています。 
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象山神社

2007年10月15日 | 旅 歴史
 長野市松代町にある幕末の先覚者・佐久間象山を祀った神社です。 大正2年象山殉職50年祭を契機に、元大審院長横田秀雄博士の主唱で、神社建立の計画が進められました。昭和6年創立許可がおり、昭和13年11月3日に総桧材桃山式流造の雄大な社殿が建立されました。
 境内には象山蟄居の家である高義亭や煙雨亭があり、隣りには象山宅跡があります。高義亭には、勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰など多くの明治維新の志士達が訪れ、大いに時事を論じた場所だったそうです。
 佐久間象山は松代藩に生まれ、啓之助と称しました。父や鎌原桐山、活文禅師などから学問、武術を学びます。天保4年(1833)江戸に出て佐藤一斎の塾に入門、渡辺崋山、藤田東湖と親交を結びます。大塩平八郎の乱の起るを見て「学政意見書」を藩に提出して陽明学の弊害を述べ、朱子学の再興を主張して天保10年(1839)神田に塾を開きました。
 天保13年(1842)、藩主真田幸貫より海防掛に命ぜられ「海防八策」を上申します。江川太郎左衛門から洋式砲術を学び、蘭学も習得します。嘉永6年(1853)ペリ-来航に際しては軍議役として横浜警備に当たりました。老中阿部正弘に「急務十事」を上申して横浜開国を主張しました。翌年門人である吉田松蔭の海外密航未遂事件に連座して罪を問われ投獄されます。44才から9年間松代に蟄居されます。文久2年(1862))やっと赦面されました。元治元年(1864)幕命によって上洛、公武合体論と開国論を主張しました。その開明的言動のため攘夷派志士によって京都、三条木屋町で暗殺されてしまいます。
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真田邸

2007年10月13日 | 旅 歴史
 真田邸は九代藩主真田幸教によって文久2年(1862)に建築され新御殿と呼ばれていました。参勤交代の廃止で、幸教の正室と義母のお貞の方が江戸から松代に帰ることとなり急遽、お貞の方の隠居所として建てられたものです。
 松代城跡のうち唯一残った建物で、国指定の史跡です。。明治元年からは真田家の居宅となっていましたが、昭和41年(1966)に真田家から譲渡されました。敷地の広さは6889㎡あります。
 新御殿の規模はなかなか広く大小53の部屋があり坪数は約408坪で創建時から改修されていますが当時のままだといわれています。旧大名の屋敷の面影を今に残している貴重な遺産です。
「水心秋月亭」と名付けた庭園は小堀遠州の流れをくんでいるといわれています。春はしだれ桜が素晴らしいということです。
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松代城

2007年10月12日 | 旅 歴史
 松代城は戦国時代には海津城と呼ばれ、北信濃に進出した武田信玄が永禄3年(1560)軍師の山本勘助に命じて築かせたものです。武田二十四将の一人高坂弾正を海津城主として上杉謙信の信濃への侵攻に備え、川中島四郡の要の地の最前線根拠地として築いた城です。
 永禄四年九月の川中島激戦の際は、武田信玄の本陣となり、妻女山に陣営を張る上杉軍に相対して、ここで軍を二手に分け、一手は妻女山攻撃隊となり一手の軍勢は武田信玄自ら率いて八幡原の直戦地へ進出した根拠地です。
 天正10年(1582)の武田氏滅亡後は、織田信長の武将森長可(ながよし)が海津城主となりましたが、同年6月に本能寺の変で信長が亡くなると、海津城は上杉景勝が支配するところとなりました。その後、豊臣秀吉を経て徳川家康が支配する時代になると、家康は上杉景勝を牽制するために森長可の弟森忠政を海津城主にしました。そして川中島四郡13万7千石を与えたのです。
 慶長8年(1603)森忠政が美作津山に移りました。替わって入封したのは徳川家康の六男松平忠輝でした。その後、城主は松平忠昌・酒井忠勝と入れ替わりました。
 元和8年(1622)真田幸村の兄で、関ヶ原の合戦・大坂の陣で徳川方についた真田信之が信州上田から10万石で入封しました。以後、真田氏10代の居城として明治維新を迎えます。城の名を松代城と改めたのは正徳元年(1711)真田家三代幸道の時からです。
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松本城

2007年10月01日 | 旅 歴史
 松本城は別名「烏城」と呼ばれています。黒々とした外壁は姫路の白鷺城と好対照です。現存する五層の天守閣では日本で一番古く、日本の城の中で最も美しい天守閣だといわれています。外見は五層に見えますが内部は六層になっています。窓は少なく、矢や弾を発射する狭間と呼ばれる小窓や石落としなどがあり実戦用の城であることがわかります。
 松本城は、戦国時代の深志の砦を創始としています。室町時代末期の永正元年(1504)、この地方に大きな勢力を持っていた小笠原貞朝が一族の島立貞永に命じて築城させたといわれています。
 以後、小笠原氏の居城となり、「深志城」と呼ばれました。天文19年(1550)武田晴信(信玄)がここを占領し、信濃支配の前線基地としました。 
 天正10年(1582)のいわゆる「武田崩れ」及び本能寺の変後の混乱に乗じて、長時の嫡男小笠原貞慶が徳川家康の後ろ盾により深志城を回復し、名を「松本城」と改めました。 
 天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼし天下を統一すると、家康を関東に封じ、貞慶の嫡男小笠原秀政も下総の古河へ移されました。
代って秀吉の有力武将、石川数正が松本城に入城し、城の大改築に着手しました。数正は小笠原氏の城づくりを大きく超える本格的な近世城の造営に着手したのです。それは秀吉の威光を天下に示すことでもあったのです。
数正は松本城の完成を見ずして3年後の文禄元年(1592)朝鮮出兵のために出陣した肥前名護屋城で亡くなります。
 数正の嫡男石川康長が父の遺志を受け継ぎ五層の天守が本丸西南隅に完成したのは慶長2年(1597)頃でした。
 徳川幕府の時代になって石川康長は大久保長安の事件に連座した疑いを持たれ、慶長18年(1613)に改易されてしまいました。
代わって松本城主になったのはかってこの城を治めていた小笠原秀政でした。愛着のある松本でしたが二代目の小笠原氏忠真(ただざね)の時には播磨明石へ移封させられてしまいました。
 その後、松本城主は戸田氏になり、松平氏に移ります。寛永10年(1633)に城主松平直政が天守に辰巳附櫓と月見櫓を増築しました。現在も残る「連結複合式」の天守が完成したのです。その後城主は堀田氏、水野氏と交替しました。享保10年(1725)志摩鳥羽より戸田光慈(みつちか)が6万石で入封してからは戸田氏9代の居城となりました。
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