旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

伊根の舟屋

2009年10月31日 | 旅 歴史
 京都府与謝郡伊根町にある伊根の舟屋です。
 全国的にも有名な舟屋の街並みです。伊根湾の5kmにも及ぶ周囲に、昔ながらの約230軒の舟屋が建ち並んでいます。映画「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋」の舞台となり一躍有名になりました。
 舟屋とは民家の一階海側に船倉等が付いた家屋のことです。古くから漁業を営んできた伊根の人々の生活の知恵です。伊根は京都府で一番の漁獲高を誇っています。ここでとれる伊根ブリは特に有名です。
 NHKドラマ「ええにょぼ」でも舞台となりました。阪東英二の素人っぽさが印象に残っています。戸田菜穂の初々しさも覚えています。
 漁民は海岸線より20mほど上の山際に住んでいたようですが、漁業を営む上で便利な海岸近くをおりてきて、山ぞいに母屋を建て、海岸に舟小屋をつくり、すぐに海に出られるようにと考えたそうです。
 潮の干満の差は年間を通して5、60cmと少なく、海が急に深くなっているので、舟の出し入れに便利だったようです。舟屋の集落ができた要因です。
 道の駅「舟屋の里伊根」から見た景色です。伊根湾を一望できるビューポイントになっています。



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元伊勢籠神社

2009年10月31日 | 旅 歴史
 今日は京都府宮津市大垣にある元伊勢籠神社(もといせこのじんじゃ)を紹介します。
 籠神社(このじんじゃ)は、大化改新以後に与佐宮を籠宮と改め、奈良時代の養老3年(719)に現在の地に社殿を移し、元の地を奥宮真名井神社としたそうです。10世紀頃丹後一の宮に定められたようです。丹後第一の大社です。
 籠神社の歴史は神代の時代までさかのぼるそうです。ここは伊勢神宮の元になったとされています。伊勢神宮はここから伊勢へ移されたので、籠神社は元伊勢ともよばれているのです。
 神殿前の石段の脇にある狛犬は、鎌倉時代のもので、石の狛犬では日本一とされ重要文化財です。作者の一心で魂の入った狛犬が、元伊勢詣りの参拝者などを驚かせたそうです。
 親の仇討ちで潜んでいた岩見重太郎がこのことを聞き鎮霊を決意して待ち構えていたそうです。音の方向に剛刀を一撃すると石の狛犬の前足が切れて出現が止んだいう伝説が残っています。
 ここには日本最古の伝世鏡「息津鏡」「邊津鏡」が 海部宮司家に伝えられています。国宝以上に重要な神宝だそうです。国宝系図に天祖からこれらの鏡を授かったと書かれていて、その素性の正しさを表しているそうです。
 神明造の本殿の高欄上に「五色の座玉」という飾りがあります。五行を示す、青(緑)・黄・赤・白・黒の五色の座玉です。伊勢神宮御正殿と、この籠神社のみに許されているものだということです。



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京都府立丹後郷土資料館ふるさとミュージアム丹後

2009年10月30日 | 旅 歴史
 京都府宮津市字国分小字天王山にある京都府立丹後郷土資料館ふるさとミュージアム丹後です。
ふるさとミュージアム丹後は、丹後・丹波地域の歴史文化に関する考古・歴史・民俗資料を常設展示しています。敷地内には、丹後国分寺跡(国史跡)が所在します。
 また屋外施設として、江戸時代宮津藩の大庄屋であった旧永島家住宅(京都府指定有形文化財)を移築復元して一般公開しています。


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成相寺

2009年10月30日 | 旅 歴史


 今日は京都府宮津市成相寺にある成相寺(なりあいじ)を紹介します。
 成相山の中腹にあり、西国三十三所第28番札所として有名な成相寺です。願い事が必ずかなう(成り相う)お寺としても知られています。
 慶雲元年(704)に真応上人が創建したと伝えられています。身代り観音とよばれる聖観世音菩薩がご本尊で美人観音としても有名です。
 「今昔物語」「群書類従」「梅沢古本説話集」「覚如上人旅日記」などに登場する古刹です。貞和4年(1348)立ち寄った覚如上人の旅日記によると諸堂宇も完備し、荘厳きわめたと記されています。
 餓死寸前の僧が食べ物をお恵みくださいと本尊に祈ると堂の外に猪が倒れていたそうです。その腿の肉をそいで飢えをしのいだそうです。後日堂内を見ると本尊の左右の腿が切り取られていたそうです。観音様が身代わりとなって助けてくれたのです。これよりこの寺を成相と名付けたそうです。
 撞かずの鐘です。鐘が鳴らずに三回も作り直しをして寄進を求めました。鋳造中に、長者の子供が誤って坩堝に転落して亡くなってしまいました。この母親は寄進を断るために子供を差し出すと言っていたのです。完成した鐘を撞くと子供の泣き声が聞こえ、それ以来、その鐘は撞かずの鐘になったというのです。
 雪舟筆「天橋立図」にも描かれた五重の塔は平成12年(2000)に完成し平成五重塔と呼ばれ趣を添えています。
 本堂は正面に千鳥破風を持つ入母屋造りで、天文17年(1548)に落雷のため焼失し、その後に再建されました。本堂内陣には左甚五郎作の「真向きの龍」といわれる龍の彫刻があります。境内には「底無しの池」などもあります。



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丹後国分寺跡

2009年10月29日 | 旅 歴史
 京都府宮津市府中国分にある丹後国分寺跡です。
 天平13年(741)聖武天皇によって国分寺建立の詔が出されました。丹後国分寺跡は現国分寺の南に位置していて、金堂、塔、中門など礎石が残っています。
 丹後国分寺は名勝天橋立を阿蘇の海を隔てて正面に一望のもとにみる台地の上に建立されたのです。雪舟の「天橋立図」にも本堂と五重塔が描かれています。



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智恩寺

2009年10月28日 | 旅 歴史
 京都府宮津市字文珠にある智恩寺です。
 日本三文殊のひとつで通称切戸(又は久世戸)の文殊堂として知られている文殊菩薩の霊場です。天橋立と陸地は「切戸(きれど)」によって分断されているのです。智恵を授かる文殊さんとして有名で「知恵の文殊」とも呼ばれています。
 茶屋通りに面する智恩寺山門は黄金閣とも呼ばれています。朝廷より黄金を下賜されたことからこの名がついたそうです。宮津市の指定文化財です。
 山門の楼上には釈迦如来を中央に両脇士・十六羅漢を安置しています。禅宗様式・三間三戸二重門の丹後地方最大の山門です。
 重要文化財に指定されている智恩寺の多宝塔です。室町時代の明応9年(1500)丹後守護の一色氏の武将延永修理之進春信(のぶながしゅりのじょうはるのぶ)が寄進したそうです。
 春信は病気全快を感謝して、一宮別当大聖院の僧、智海(ちかい)に建てさせたそうです。2万2000㎡の広い境内にマッチしています。
 文殊堂内にある本尊は善財童子(ぜんざいどうじ)、うてん王を従えた文殊騎獅像です。亀岡文殊(山形県高畠町の大聖寺)、安倍文殊(奈良県桜井市の崇敬寺)とともに日本3文殊に数えられています。
 鎌倉時代の鉄湯船です。国の重要文化財に指定されています。現在は手水鉢として使われていますが昔は寺院の大湯屋において寺僧の施浴に用いられたそうです。
 鎌倉時代の石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。宝篋印陀羅尼を納める塔です。後に供養塔、墓碑塔として建てられました。呉越王の銭弘俶の八万四千塔が原型になっているそうです。ここ石塔は和泉式部の歌塚と伝えられているそうです。丹後守藤原公基が日置金剛心院で式部が書き捨てた和歌を持ち帰り、なみだの磯(涙が磯)に埋めて鶏塚としたそうです。
 その反古の一首が
「いつしかと待ちける人に一声も
   聞せる鶏のうき別れかな」
 その後、明応(1492-1501)の頃、砂に埋まった塚を掘り出して文殊堂の傍らに建てたのが今の歌塚だそうです。



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天橋立

2009年10月28日 | 旅 歴史


 今日は京都府宮津市文珠にある天橋立を紹介します。
 松島、宮島と並んで日本三景の一つである天橋立は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が立てかけた天と地とを行き来していたはしごが、眠っている間に倒れてしまって天橋立になったと「丹後国風土記」には記されています。
 天橋立は、別名「天に通う神秘の橋」と言われ、この地に残る伝説には、様々な神が登場してきます。全長3.6kmにも及ぶ「海の回廊」には8千本もの松が生い茂っています。
 伊邪那岐命が天上に通うための道であった天橋立。そしてその子孫が投げた宝珠が天へと通じる御橋となり、そこを天女たちが降りてきたという神話も残っています。
 現実には宮津湾奥の野田川や天橋立北側の川から流出する土砂が、南への海流で運ばれて堆積し、氷河期と間氷期に海水面が上下した作用で現在のような珍しい地形が出来たと考えられています。まさに数千年の歳月を経てできたものなのです。
 宮津湾北岸の江尻から南西にのびる全長約3.6km、幅20mから70mの細長い砂嘴(沿岸流によって運ばれた砂礫が湾口の一方の端から海中に細長く堆積したもの)です。
 砂嘴の白砂は美しいクロマツにおおわれています。古来よりこの風景が神秘的であったため数多くの神話や伝説を生み出しています。
 「大江山 いくのの道は 遠ければ
    まだ ふみもみず 天の橋立」
 有名な小式部内侍の歌です。
 明治20年(1887)頃になると、地域の海路、陸路の整備が進むにつれ、観光資源として本格的に意識されはじめました。明治38年(1905)には内務省の地盤国有公園、大正10年(1921)には国の名勝に指定されました。
 大正13年(1924)の舞鶴・宮津間の鉄道開通が、観光客の急激な増加をもたらし、観光地としての天橋立を確立することとなりました。大正13年4月舞鶴・宮津間が開通し、翌年7月に天橋立駅が設置されたのです。
 椋平虹伝説というのがあります。虹を見た時から3日のうちにどこかで地震がおきるというのです。椋平廣吉が17歳の時、対岸の黒崎という岬の上に虹のきれはしのような雲を見つけ不思議な虹の観測をはじめたのです。彼の予知的中は全国に伝わり、以後「椋平虹」論争が繰り広げられたのです。



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智源寺

2009年10月27日 | 旅 歴史
 京都府宮津市京街道にある智源寺です。
 赤い山門が目に鮮やかなこの寺は寛永2年(1625)宮津城主京極高広が母の追善のために建立した寺で、心庵盛悦善師を懇請して開山としたそうです。
 松渓山と号する曹洞宗の丹後地方随一の名刹です。山寺号は京極高広の母の惣寺院殿松渓智源大禅定尼から名付けられています。
 智源寺は京街道の要所に位置しているため、宮津城城下町の防衛を兼ねていたようです。京極家が寛文6年(1666)改易になった後も丹後曹洞宗のたばね役となり続け明治を迎えたそうです。
 本堂の天井には20枠に及ぶ美しい花鳥図が描かれています。これは円山応挙十哲である円山四條派と土佐派20人による傑作といわれています。



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大村邸跡の長屋門

2009年10月26日 | 旅 歴史
 京都府宮津市字柳縄手にある大村邸跡の長屋門です。
 柳縄手付近は慶長までは柳町といわれ藩政時代の武家屋敷があったところだそうです。大村邸はもと藩医小谷仙庵が住んでいたそうです。
 仙庵の次男謙次郎は明治13年に帰郷開業して立憲政党に加盟したそうです。その後旧藩士大村政智が住んだようです。昭和61年100年間維持されてきた邸宅が焼失しましたがこの長屋門だけが免れたということです。



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カトリック宮津教会

2009年10月26日 | 旅 歴史
 今日は京都府宮津市宮本にあるカトリック宮津教会を取り上げてみます。
 聖ヨハネ天主堂はフランス人のルイ・ルラーブ神父により明治29年(1896)に建てられました。外観はフランス風のロマネスク様式の構造ですが、堂内は畳敷きという和洋折衷の聖堂になっています。
 小規模ながら長崎の大浦天主堂にならぶ古いもので洋風建築として貴重な遺構です。内部は一部が中二階付きとなっています。
 ルイ・ルラーブ神父は宮津地方における伝道活動を50年にわたって行なった人物で教育振興にも献身的に努力した人として有名です。



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舞鶴引揚記念館

2009年10月25日 | 旅 歴史
 京都府舞鶴市平無番地の引揚記念公園内にある舞鶴引揚記念館です。
 戦後の昭和20年(1945)から昭和33年(1958)まで13年にわたって海外からの引き揚げ者を迎え入れた舞鶴です。
 約66万人もの引き揚げ者の歴史と平和の尊さを語り継ぐ施設として引揚記念館は創設されました。
 戦争の悲惨さと平和の尊さを後世に伝えるため、中国や旧ソ連からの引き揚がの歩みや激動の歴史を映像や写真で紹介しています。
 辛く悲しい集団収容の様子も模型を使い再現しています。あわせてシベリアでの抑留生活の貴重な物品資料なども展示されています。



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赤レンガ博物館

2009年10月25日 | 旅 歴史
 今日は京都府舞鶴市浜にある赤レンガ博物館を紹介します。
 平成17年3月まで大規模改修工事を行なっていました。この赤れんが博物館建物は明治36年(1903)に旧舞鶴海軍兵器廠魚形水雷庫として建設されたものだそうです。
 現存する本格的な鉄骨レンガ造りの建物としては我が国最古級のものだそうです。赤レンガ倉庫の一角を利用してジャズコンサートなども開かれてきているそうです。




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舞鶴市政記念館

2009年10月24日 | 旅 歴史
 京都府舞鶴市北吸にある舞鶴市政記念館です。
 舞鶴市政記念館は、赤煉瓦倉庫の転活用第2号として、平成6年(1994)10月に芸術・文化交流の場として新しく生まれ変わりました。
 建物は、旧海軍の雑品庫並損兵器庫として明治35年に建設された煉瓦造2階建の倉庫です。赤レンガ博物館が大規模改修工事中、展示品の一部はこの舞鶴市市政記念館に展示されました。
 ホールは、絵画などの展示や音楽、演劇の発表などの場として利用できるように吹き抜けの煉瓦空間を整備しました。約200人収容のコンサートなどが開けます。舞鶴市の歩みやベルリン五輪棒高跳びに出場し友情のメダルで有名になった大江季雄選手なども紹介しています。



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舞鶴港

2009年10月24日 | 旅 歴史
 今日は京都府舞鶴市南田辺にある舞鶴公園(田辺城跡)を紹介します。
 舞鶴は将であり歌聖といわれた細川藤孝(幽斎)が、天正8年(1580)織田信長より丹後国をあてがわれ城下町をつくったのが始まりです。舞鶴公園は田辺城の本丸があったところです。
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの際に家康側についた藤孝が石田三成側の福知山城主小野木縫殿助の軍に囲まれ、わずか五百人の兵で舞鶴城(田辺城)に篭城して2ヶ月余日戦いました。古今和歌集の秘伝の継承者であった幽斎は古今伝授を伝える唯一の人でした。
 古今相伝の箱に「古も今もかはらぬ世の中に心の種をのこす言の葉」と詠んで八条宮智仁親王の使者に献上したそうです。その後、後陽成天皇の勅命により囲みを解かれたのは有名な話です。



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三室戸寺

2009年10月23日 | 旅 歴史
 京都府宇治市菟道滋賀谷にある三室戸寺です。
 三室戸寺(みむろとじ)は明星山と号する修験宗のお寺です。もとは天台宗寺門派(三井寺)に属し、宝亀年間の770ー781年に光仁天皇の勅願により創建されたと伝えられています。
 康和年間の1099ー1104年に園城寺の修験僧隆明(りゅうめい)によって中興されたようです。
 文明11年(1479)日野富子の宇治明神参拝につき、その路次掃除に関し宇治の橋寺と争って堂塔が焼失したそうです。再興後も槇島合戦で信長に焼かれ衰退したそうです。
 中世以降、西国三十三所巡礼が庶民の間に広がったのに伴い第十番札所として定着し、今もなお、巡礼姿の参拝客をよく見かけます。


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