旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

松岬神社

2013年04月30日 | 旅 歴史
 山形県米沢市丸の内にある松岬神社の案内板です。
 明治35年(1902)4月、上杉神社から上杉鷹山を分祀してその摂社として創建されました。大正元年(1912)、新殿造営にともない県社に列しました。
 大正8年(1919)春日神社を合祀し、大正12年(1923)には上杉景勝を合祀しています。鷹山の師、細井平洲や米沢を建設した直江兼続、そして米沢藩復興の功臣竹俣当綱、莅戸善政なども祭神としています。
 昭和36年(1961)、アメリカの第35代大統領に就任したジョン・F・ケネディは、日本人の記者からの「日本で最も尊敬する人は誰か」との質問に、「上杉鷹山」と答えたそうです。

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上杉神社

2013年04月29日 | 旅 歴史
山形県米沢市丸の内にある上杉神社です。
 上杉神社は松岬公園内にある上杉謙信公を祀る神社です。上杉家は藤原高藤の流れをくむ鎌倉以来の名家です。慶長年間に上杉景勝は米沢城内に不識庵を建立しました。そこを謙信の廟堂としたのが始まりです。
 明治4年(1871)、治憲を併祀して社殿を改修して不識庵から上杉神社に改めました。米沢藩の藩祖として崇敬されている上杉謙信公を祭神としています。
   大正8年(1919)の米沢大火で焼失しましたが、米沢出身の建築家、伊藤忠太博士の設計で再建されました。明治神宮、出雲大社、靖国神社を設計監督した人です。
 大正9年(1920)から再建を始め、大正12年(1923)4月に完成しました。その総工費は46万5500円余の大工事でした。同じ年の米沢市の予算は31万円余りだったそうです。 
 社地は老松や古杉が茂る松岬公園の中央部を占め、面積は約2万㎡です。社殿は本殿、幣殿、拝殿、神輿舎、神饌所、祭器庫、神符授与所、手水舎、斎館、神楽殿、宝物館、絵馬殿などをそなえています。
 春の「上杉まつり」は4月29日から5月3日まで催されます。例大祭も盛大に催され、太鼓と笛の音が鳴り響き鎧甲の武者行列が市中を練り歩くそうです。
 2月第2土・日には「上杉雪灯篭まつり」も開催されます。

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米沢市上杉博物館

2013年04月28日 | 旅 歴史
 山形県米沢市丸の内にある米沢市上杉博物館です。
 米沢市上杉博物館と県立の「置賜文化ホール」が一緒になって「伝国の杜」となっています。この名は米沢藩九代藩主上杉鷹山が残した「伝国之辞」に由来しています。
 米沢市上杉博物館には、数千に及ぶ上杉氏ゆかりの貴重な品々や国宝が収蔵されています。常設展示室では上杉の歴史と文化を中心とした「江戸時代の置賜・米沢」を紹介しています。


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上杉記念館

2013年04月27日 | 旅 歴史
 山形県米沢市丸の内にある上杉記念館です。
 上杉記念館は松岬公園の南側の二の丸跡にあり、旧上杉伯爵邸だった建物です。明治29年(1896)、最後の米沢藩主14代上杉茂憲(もちのり)伯爵の本宅として造営されました。敷地は約5千坪、建坪は530坪と壮大な大邸宅でした。
 鶴鳴館(かくめいかん)と呼ばれ、建設には当時のお金で4万円近くの巨費をかけました。大正8年(1919)5月19日の大火で類焼し灰燼に帰しました。茂憲はその1ヵ月前に亡くなっていました。
 伯爵を継いだ上杉憲章は、大正13年(1924)に再建しました。建坪は285坪と焼失前の約半分です。庭園は東京の浜離宮庭園を模して造園したようです。
 第2次大戦後は進駐軍の宿舎に使用され、昭和25年(1950)に接収が解除後、米沢市が上杉家より譲り受けたそうです。

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将棋塔

2013年04月23日 | 旅 歴史
 山形県天童市天童城山の天童城跡(舞鶴山公園)にある将棋塔です。
 将棋駒全国一を誇る天童市のシンボルとしてこの公園内に建てられました。王将の文字は大山15世名人の書によるものだそうです。毎年春にここで将棋駒の供養祭が行われるそうです。

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天童城跡(舞鶴山公園)

2013年04月22日 | 旅 歴史
 山形県天童市天童城山にある天童城跡(舞鶴山公園)です。
 舞鶴山に城を築いたのは、南北町時代の頃、南朝方の北畠親房の後裔である北畠天童丸です。吉野朝興隆のため、村山盆地を一望できる好立地のこの地に居を構えたのが始まりです。この一帯は市民の憩いの公園となっていて春には2千本のソメイヨシノが咲き乱れます。
 領主は代々、天童氏を名乗り、山形最上氏と肩を並べる奥州の名門として、その威容を誇りました。十代頼久の時代に、義兄の山形城主最上義光に攻められ、壮絶な戦いの末、天正12年(1584)落城し、頼久は伊達家の家臣国分氏に逃れました。ここに初代頼直から数え、209年間の長きにわたる天童山城時代は終わり、以後この地に再び城が築かれることはありませんでした。


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広重美術館

2013年04月21日 | 旅 歴史
 山形県天童市鎌田本町にある広重美術館です。
 東海道五十三次で有名な江戸の浮世絵師、安藤(歌川)広重の作品を展示しています。広重の作品の中に 「天童広重」という作品群があります。これは広重と交流があった天童藩士の依頼によって描かれたものだそうです。
 このことにちなんで平成9年(1997)に天童温泉滝の湯ホテルの経営で開館しています。「天童広重」を含む初代から4代までの作品や「東海道五十三次」などの錦絵など貴重な美術品が納められています。
 安藤広重は歌川豊広の門人で狩野派、南画、四条派なども学びました。 風景画を得意として代表作は「東海道五拾三次」です。各地の名所絵を数多く残しています。

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天童市将棋資料館

2013年04月20日 | 旅 歴史
 山形県天童市本町にある天童市将棋資料館です。
 天童駅のコンコース脇にあります。日本における将棋の起源や、天童で将棋駒が生産されるようになった由来といった、将棋の歴史について紹介しています。
 将棋の駒の生産は江戸時代に貧窮していた天童藩下級武士の手内職として始められたものだそうです。年産250万組、全国生産の95%を占めているそうです。

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出羽桜美術館

2013年04月19日 | 旅 歴史
 山形県天童市一日町(ひといちまち)にある出羽桜美術館です。
 昭和63年(1988)、出羽桜酒造株式会社3代目社長仲野清次郎が永年にわたって蒐集してきた陶磁器、工芸品等の寄贈を受けて開館しました。出羽桜酒造の母屋を改造した建物に韓国古美術を展示しています。
 古韓国・新羅・高麗・李朝期の陶磁器と工芸品が展示されています。李王朝時代の白磁は稀な逸品揃いです。その他、近代文人の書、桜に因んだ工芸品、日本六古窯などもあります。


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山形市郷土館(旧済生館本館)

2013年04月19日 | 旅 歴史
 山形県山形市霞城町の霞城公園にある山形市郷土館(旧済生館本館)です。
 変型八角形の三層楼の旧済生館は国内においても優れた洋風建築物として国の重要文化財の指定を受けています。明治11年(1878)9月に竣工した擬洋風の病院建築物で県立病院として出発しました。
 明治21年(1888)に民営移管となり、更に明治37年(1904)には市営病院の本館として使用されました。済生館と命名したのは時の太政大臣三条実美だったそうです。
 創建当時はオーストリア人医師のローレツが近代医学教育の教鞭をとったことで知られています。昭和46年(1971)に「山形市郷土館」としてオープンしました。旧済生館をしのぶ郷土の医学と医療関係資料、郷土史料を展示しています。

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国分寺薬師堂

2013年04月18日 | 旅 歴史
 山形県山形市薬師町にある国分寺薬師堂です。
 見ヶ崎川の近くの薬師町に国分寺薬師堂はあります。広い境内にはケヤキの大木が茂っています。奈良時代、聖武天皇の名をうけた僧行基が、ここに来て自ら薬師瑠璃光如来の像を彫ったそうです。そしてその像を祀って建立した寺院であるといわれています。
 毎年5月8日の薬師祭りから3日間東北一の植木市が開かれます。江戸時代から続いていて、全国3大植木市の一つに数えられています。東北、関東方面からも大勢の人が集まり大変な賑わいを見せているそうです。 
 植木市は、山形城主最上義光が大火にあって緑樹が少なくなった町内のため付近の農民に植木市を開かせたのが始まりと伝えられています。
 明治44年(1911)5月8日の大火によって金堂は類焼したそうです。そのため、真言宗宝幢寺本堂を移築して金堂にしたそうです。県議会の議事堂ができる前、この金堂で第一回目の県会が開催されたそうです。

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山形県郷土館(文翔館)

2013年04月17日 | 旅 歴史
 山形県山形市旅篭町にある山形県郷土館(文翔館)です。
 山形県郷土館「文翔館」は山形県の旧県庁舎及び旧県会議事堂です。煉瓦造りの重厚なイギリス・ルネサンス様式を基調にした設計で、大正5年(1916)に建てられました。昭和59年(1984)に国の重要文化財に指定されました。
 山形県郷土館は昭和61年(1986)から修理工事を始め、10年の歳月をかけて平成7年(1995)9月に完成しました。漆喰飾天井やシャンデリア、壁紙、絨毯、カーテンなどのモダンな意匠は当時のままに復原されています。
 旧知事室なども大正時代の家具までも復元されていて、その時代の雰囲気を味わえます。県の発展を伝える資料館としてだけではなく、音楽会や様々な展示なども使われています。

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山形県立博物館

2013年04月16日 | 旅 歴史
 山形県山形市霞城町の霞城公園にある山形県立博物館です。
 山形県内の地学や植物、動物、考古、民俗・歴史を総合的に展示しています。約800万年前に県内の大江町で生息していたヤマガタダイカイギュウのレプリカ(ジュゴンの仲間)が有名です。明治100年記念事業で設立された博物館です。

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霞城公園(山形城址)

2013年04月14日 | 旅 歴史
 山形県山形市霞城町にある霞城公園(山形城址)です。
 山形城は延文元年(1356)東北の南朝方に備えて、足利尊氏が出羽按察使に任命した斯波兼頼が翌年に館を構えたのが始まりです。斯波兼頼はこの地を拠点として出羽の南朝勢力を制圧。斯波氏の子孫は土着して地名の最上氏を名乗りました。
 戦国時代の天文15年(1545)、10代当主最上義守の長男、義光(よしあき)が生まれました。11代になった義光は次々に勢力を拡大させていきました。
 天正5年(1577)天童頼澄を追って天童を奪い、東根を攻撃。同9年(1581)新庄盆地に兵を進めて佐々木氏を倒し最上郡を平定しました。同15年(1587)尾浦城(鶴岡市)の武藤義興を滅ぼしました。
 その頃、伊達氏が南方へ侵攻したのに対して、義光は着々と北方へ勢力を広げていきました。義光の父、義守の妹義姫が政宗の母という親戚関係でした。
 関ヶ原の戦いの頃、直江兼継が率いる上杉軍が優勢のまま山形城まであと少しの長谷堂城まで侵攻してきました。最上は、伊達に援軍の要請をし、政景の援軍によって上杉を撤退させることができたのです。
 山形城は直江軍に攻められた時、山形城が秋の霞につつまれ、城内が隠れて攻撃されずに持ちこたえたとのいい伝えがあることから「霞が城」とも呼ばれるようになったそうです。
 最上義光は小田原北条攻めの際、豊臣秀吉のもとに真っ先に駆けつけ信頼を得ていきました。関ケ原合戦時には東軍の徳川家康に加勢して57万石の大大名となりました。西軍についた上杉氏は120万石から30万石に減封されたのでした。
 その後、義光は本拠地山形城下の整備、最上川の改修、庄内地方の新田開発、神社仏閣の復興など多くの民政事業の推進を計りました。慶長19年(1614)69才で波乱の生涯を閉じました。
 権勢を誇った最上氏も義光の孫の義俊の代にお家騒動が起こりました。義光には実子がいたのですが家康の息子を養子にしました。これが原因で家臣同士の権力争いになり、「最上騒動」が起こって改易となってしまったのです。
 元和8年(1621)徳川譜代の鳥居忠政が24万石で山形城に入封。その後は頻繁に城主の交替が行なわれ、廃藩まで12家を数えました。交替のたびに城主の石高が減少し、最後の水野氏はわずか5万石であったそうです。

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松岬神社

2013年04月13日 | 旅 歴史
 山形県米沢市丸の内にある松岬神社の案内です。
 明治35年(1902)4月、上杉神社から上杉鷹山を分祀してその摂社として創建されました。大正元年(1912)、新殿造営にともない県社に列しました。
 大正8年(1919)春日神社を合祀し、大正12年(1923)には上杉景勝を合祀しています。鷹山の師、細井平洲や米沢を建設した直江兼続、そして米沢藩復興の功臣竹俣当綱、莅戸善政なども祭神としています。
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