旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

八幡社

2007年06月30日 | 旅 歴史
 上田市中央西にある八幡社です。八幡社は上田城鎮護のため、真田昌幸が海野郷(東御市)から移して建立した神社だといわれています。
 真田氏の跡も仙石氏、松平氏の崇敬篤く、藩主自ら参拝したようです。弓矢の神を崇めて毎年正月3日に射初式が行なわれました。 見事、的に当てた者は14日の宵祭りと翌15日未明にその的と矢を奉納する儀式を幕末まで続けていたそうです。
 かんばつの年には科野大宮社、大星神社を含めた3社合同で雨乞い祈願をしたそうです。拝殿には高さ102cm、横160cmの白黒一対の鷹の大絵馬が奉納されています。これは上田藩主であった仙石政明が献上した絵馬で東信地方では最大だそうです。黒鷹の絵馬は滝を背景に岩上から獲物を狙っているそうです。白鷹の絵馬は松の大樹の枝に舞い降りてあたりを警戒しつつ翼を納めようとしているそうです。貞享5年(1668)の頃の作ということで、東信地方では最古の絵馬だといわれています。雪舟の流れを汲む長谷川信舟の作だそうです。この絵馬は昭和60年に上田市の有形文化財に指定されています。
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太郎山

2007年06月29日 | 旅 歴史
 太郎山は標高1164m、上田市民に親しまれている山です。この山の山頂付近に太郎山神社があります。
 上田の中心市街地の真北に位置していて、東には東太郎山、西には虚空蔵山があり、上田市が温暖な気候になっているのに貢献しています。
 太郎山神社本殿は平成元年に上田市の有形文化財に指定されています。明治6年(1873)に彫刻師でもあり、大工の棟梁でもあった竹内八十吉によって再建されたものです。
 龍、獅子、象、うずらなどの動物や、中国の三国志の一節などの素晴らしい彫刻をみることができます。諏訪形の荒神宮や金昌寺の太子堂などにも八十吉の技法を見ることができます。
 太郎山神社は上田が養蚕が盛んな頃「養蚕の神」としての信仰を集めていたそうです。雨乞いの祈祷をしたという記録も残っているそうです。
 本殿の前には小さな鳥居が設けられています。この中をくぐると病気をしないということです。太めの方は少し無理かもしれません。
 太郎山神社の例祭は5月5日のこどもの日に行なわれるそうです。太郎山の山開きをするそうです。一年の無事を祈願して神楽の奉納され、護符やお菓子が登山者に振舞われそうです。
 太郎山神社本殿はこどもの日のほか、元旦、8月最終日曜日、体育の日、文化の日に一般公開されています。
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東昌寺

2007年06月28日 | 旅 歴史
 青木村にある国宝大法寺三重の塔をさらに少し登ると、山の中腹に東昌寺があります。上田市と青木村の境になっています。車で行くと不安になるような狭い急な道でした。この山深い中の立派なお寺は万年山東昌寺で、有力豪族でこの地方の地名ともなっている浦野氏の菩提寺なのです。
 東昌寺の創建は建長2年(1250)と伝えられています。天文12年(1551)に福井の心月寺の第七世、才応総芸を迎えています。この時臨剤宗だったのを曹洞宗にしたそうです。東昌寺の鐘楼は上田市の有形文化財に指定されています。天保12年(1841)有名な諏訪の立川流の大工、宮坂常蔵によって建てられたものです。宮坂常蔵は、立川流二代目冨昌の娘婿で、大工としては立川昌敬の名を使ったそうです。豊川稲荷など手掛け、尾張近辺に名作を数多く残しているそうです。県内では、この鐘楼が代表的な建築物です。
 入母屋造り、桟瓦葺(さんがわらぶき)、袴腰(はかまごし)という形体で、県内でも数の少ない貴重な鐘楼です。石垣の下からの鐘楼は鳥が羽を広げたような華麗な美しい建物です。
 鐘楼の袴腰の上の部分や、上層の貫(ぬき)の上に亀や象、獅子、竜、貘などが美しく彫られています。二階の天井には、墨で大きな竜が描かれています。鐘はアララギ系の歌人でもある香取秀真(ほずま)氏が昭和28年(1953)に作ったものです。東昌寺の本堂は大きくて立派な建物です。本堂左の間には二十五体の観音像、六体とも同じ千手観音が安置されています。
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海禅寺

2007年06月26日 | 旅 歴史
 真言宗の大智山海禅寺は東御市の海禅寺にあったものを真田昌幸が鬼門除けとして現在の中央北に移したものといわれています。
 参道は桜が植えられていて春は桜のトンネルとなるようです。灯籠のそばに六地蔵が並んでいます。その先に山門がどっしりと立っています。
 本堂の前には手水舎(ちょうずや)があります。ここの水は境内から湧き出ているものですが太郎山からの伏流水とされ重宝がられました。
 明治14年(1881)ここから柳町へ水道が引かれたそうです。これが名水として有名な「保命水」です。
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呈蓮寺

2007年06月25日 | 旅 歴史
 浄土宗の宝池山呈蓮寺です。建久年間(1190-1199)、工藤祐経を討った曾我兄弟の兄の方の十郎妻虎御前が開基したそうです。祐成の死後、虎は諸国を巡拝し善光寺に赴きます。佐久に庵を結んだ後に太郎山の麓の眉見林に寺院を建立したそうです。虎立山祐成寺という名だったそうです。
 応永年間(1394-1428)に鎌倉光明寺の一誉俊厳上人が再建したそうです。永享5年(1433)現在地に移転して「呈蓮寺」としたということです。
呈蓮寺には上田市の史跡に指定されている竹内善吾武信の墓があります。江戸時代末期の和算学の大家です。
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岩門大日堂跡

2007年06月24日 | 旅 歴史
 上田市岩門にある活文禅師ゆかりの岩門大日堂跡です。文政11年(1828)18才の若武者・佐久間象山がこの岩門の大日堂に来て活文禅師に入門しました。象山は松代藩士で松代からここまで30km(約8里)の道を馬に乗ってきたそうです。馬をつないでいた松の木は象山駒つなぎの松といわれ、今は二代目だそうです。
 象山は幕末の思想家で兵学者としても活躍しました。嘉永6年(1853)ペリ-来航に際しては軍議役として横浜警備に当たり、老中阿部正弘に「急務十事」を上申して横浜開国を主張しました。門人の吉田松蔭の海外密航未遂事件に連座し投獄、9年間松代に蟄居、最期は攘夷派志士によって京都、三条木屋町で暗殺されてしまいました。
 龍洞院の住職を辞した活文禅師は文政7年(1824)岩門大日堂に隠居して寺子屋を開き多くの門人を輩出させました。文政12年(1829)常田毘沙門堂に移ったあとも寺子屋を続け弘化2年(1845)71才で亡くなりました。

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龍洞院

2007年06月23日 | 旅 歴史
上田市蒼久保(あおくぼ)にある龍洞院です。「門無雅客到  坐豈乏清風」
 「門に雅客の至るなし 坐して豈(あに)清風に乏しからんや」という漢詩が刻まれている石碑があります。風流な客人も訪ねてこないが、こうして一人で座っていると清らかな風が満ちてくる、意です。
 JR信濃国分寺駅に近い国道18号線から下青木(しもあおき)の細い道を1km入ったところに蒼久保の龍洞院があります。永正元年(1504)、村上義清の祖父であった戸石(砥石)城主の村上石京大夫が、上田市の神畑(かばたけ)の鳳林寺を改名して一山正心を開祖として開創されたそうです。
 現在地の蒼久保には天正5年(1577)に移転したそうです。最も古い過去帳に天正五年という文字があるそうです。この寺は活文禅師が45才の時、住職として迎えられたことで有名です。
 活文禅師は松代藩士、森条七の次男として生まれ、10才の時、長和町(旧小県郡和田村)の信定寺に入り得度したそうです。信定寺は天文22年(1553)に武田信玄に攻められた城主大井信定が討ち死にし、その菩提を弔うため建立された寺です。
 信定寺は徳川時代に入り、例幣使日光参詣のさい和田宿に泊まり京都二条城祈願寺となり諸大名が参詣するようになったそうです。
 活文禅師は24才の時から7年間、江戸、長崎へ遊学し書や清の言葉などを習得したそうです。江戸に出た後、文化4年(1805)信定寺に戻り、14代の住職になり10年間務めたそうです。
 その後、上田の龍洞院の住職に迎えられました。文政7年(1824)周囲との折り合いが会わずに岩門の大日堂に隠居し、文政12年(1829)常田にある毘沙門堂に移り寺子屋などを続けていたそうです。弘化2年(1845)71才で亡くなったそうです。
 近代国家の礎を担った、佐久間象山や赤松小三郎、小布施の豪商・高井鴻山、郷土の彫刻家・竹内八十吉ら多くの著名人を育てたことでも有名です。
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日輪寺

2007年06月22日 | 旅 歴史
 天照山「日輪寺」は曹洞宗のお寺です。山門の奧の正面には普門閣とよばれる観音堂があります。寺の名前は真田氏の本家にあたる海野氏の海野幸義の法名の日輪寺殿に由来しているそうです。天文14年(1545)用山光受を開山にして海野幸義が開基したそうです。幸義が亡くなった後、海野氏の守り本尊であった聖観音が祀られたそうです。また別棟には子安観音も祀られたそうです。
 普門閣に掲げられている額は月舟宗胡禅師が書いたものだそうです。曹洞宗中興の師といわれる高僧だそうです。本堂は普門閣の手前の左にあります。寺の紋は真田氏と同じ六文銭です。8月にはりんご祭りが行なわれます。
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宗吽寺

2007年06月15日 | 旅 歴史
 上田市中央2-14にある宗吽寺はそううんじと読みます。もともとは上田城の堀近くにあったものを上田城築城の時にここに移したといわれています。開山は什慶といわれ、中興は慶英といわれています。宗吽寺は上田藩主の祈願寺となり、松平氏の参勤交代の折りには、江戸への出立の吉日をこの寺が選んだといわれています。
 本堂前にある石幢(石造物)は六地蔵塔で石灯籠として使われていたものだそうです。石幢は六角形の石灯籠型で6面に6地蔵を浮き彫りにするタイプか、6面に窓を開けて内部に6地蔵を置くタイプが普通だそうです。 「正平4年」(1349)と彫られています。南北朝時代の南朝の年号だそうです。ということは当時、このあたりは南朝方についていたようです。
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妙光寺

2007年06月14日 | 旅 歴史
修禅山「妙光寺」は日蓮宗のお寺です。山門前には手を合わせた日蓮像が置かれています。境内には「日進聖人蟄居遺跡」という碑があります。妙光寺はこの日進聖人が開基なのです。上田に流された日進聖人を仙石家は迎えたのでした。鬼門除けの祈願所を建立し、小堂法泉院を改築させたといわれています。
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小泉大日堂

2007年06月12日 | 旅 歴史
上田市小泉にある小泉大日堂は大規模な五間堂です。屋根は宝形造り(ほうぎょうづくり)となっています。細部の様式的特徴から室町時代後期の建設と考えられています。驚覚山「高仙寺」は大日堂の別当寺として建立されたのでした。
高仙寺は天文11年(1542)に茅葺に改修されたそうです。坂城の雄・村上義清と甲斐の武田信玄とが戦った上田原合戦で天文17年(1548)大半の堂宇を焼失しました。大日堂だけは奇跡的に焼け残ったのです。

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向源寺

2007年06月11日 | 旅 歴史
 上田市常磐城にある向源寺です。門前には矢出沢川が流れ向源寺橋も架かっています。向源寺は浄空が開基となり、上田原の地に開創されたそうです。寛永3年(1626)現在の場所に再建されたようです。そこにはもともと同寺の支坊があったそうです。
 永録9年(1566)武田信玄は、上田原の地にあったこの寺に陣を取ることを禁じた朱印状を出しています。この朱印状は市指定文化財となっています。俳人・小林一茶は江戸に赴く前の数年間をこの寺で過ごしたそうです。第14世の換沼氏は学問の長である寮司(りょうす)という立場にあったそうです。和歌もたしなんで一茶とは親交が深かったとようです。
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金昌寺

2007年06月10日 | 旅 歴史
もとは武石村にあり、琴松寺と呼ばれていたそうです。真田昌幸が援助してこの地に移転し鳳林山金昌寺としたそうです。
曹洞宗のお寺ですのに聖徳太子を祀る太子堂があります。全国的にも珍しいことだそうです。浄土真宗のお寺には多くあるようです。境内左手の太子堂には郷土の彫刻家竹内八十吉(1813-1898)による鶴や亀、獅子、象などが彫られています。
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芳泉寺

2007年06月08日 | 旅 歴史
 上田市常磐城3-7-48にある芳泉寺です。古舟橋の北側、上田市の「歴史の散歩道」にも指定されている常磐城には土蔵作りの家が立ち並んでいます。坂を上ったところに松翁山芳泉寺があります。
 芳泉寺は真田信之(信幸)の正室である小松姫の菩提寺です。本多忠勝の娘で徳川家康の養女として天正14年(1587)信之に嫁つぎました。徳川と真田の関係を山門、本堂についている六文銭と三つ葉葵の紋が物語っています。
 昔は常福寺というお寺だったそうです。千曲川左岸塩田平の常楽、安楽、長楽の「三楽寺」に対し右岸の「三福寺」の一山で「古舟の渡し」を越え、北国街道で善光寺へ向かう途中の祈願所ともなっていたようです。
 慶長5年(1600)真田信之は常福寺を菩提寺としました。小松姫の死後信之が納骨し、一周忌に霊屋も建立されたそうです。元和8年(1621)松代移封にともない松代城下の大英寺を建て霊屋を移したそうです。
 小諸から上田に仙石忠政は常福寺を修築し、小諸にあった菩提寺の宝仙寺をここに移しました。翌年、父秀久の墓を改装し、常福寺から円覚院芳泉寺と変えたそうです。
ここには小松姫の墓がるます。小松姫の婿選びの際、家康の前で平伏する大名に無礼な行ないをしたと信之が小松姫を鉄扇で手を打ち据えたそうです。それが縁で嫁いできたそうです。西軍についた義父、昌幸が信之の沼田城に立ち寄った時、留守を守る小松殿が「たとえ舅といえど敵味方に分かれたからには入城させられない」と言って入城させなかった事も有名です。
また仙石政俊(まさとし)の霊廟や仙石秀久・忠政の霊廟もおあります。秀久は石川五右衛門を生け捕りにしたことで知られています。忠政は上田城を修復し、塩田平の灌漑池など造成し手腕をふるいました。
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本陽寺

2007年06月02日 | 旅 歴史
 上田市中央6-3-3(鍛冶町)にある本陽寺です。この寺は小諸城主であった仙石秀久(ひでひさ)が文禄5年(1596)に亡くなった夫人のため建てられた寺です。仁王門は元禄5年(1692)の建立です。
 元和8年(1622)上田へ移封の際、息子である仙石家上田城主初代の忠政(ただまさ)が、小諸から寺と墓を移したそうです。秀久夫人の法名「本陽院殿槃室妙栄大禅定尼」が寺の名前になったそうです。本陽寺客殿の東側境内地の一角に上田城主仙石氏一族の墓がひっそりと並んでいます。
 墓一角の東北隅に立派な宝形造の覆屋があります。三代城主となるはずだった忠俊の墓です。病気のため28才で他界したそうです。前面左右には、10基の石灯籠が並んでいます。忠俊の宝篋印塔ひは「春光院殿梅心日香大居士」という法名が書かれています。仙石秀久の墓は同じ上田市の芳泉寺に廟の中に納められています。三代城主には政明(まさあきら)がなりました。
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