滋賀県大津市園城寺町に三井寺(園城寺)があります。
天台寺門宗の総本山である三井寺は正式名称を長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)といいます。再三の兵火や破却にあいましたが再興され、現在も国宝・重要文化財・名園など貴重な寺宝を数多く伝えています。
平安時代、第5代天台座主・智証大師円珍和尚の卓越した個性によって天台別院として中興され、 東大寺・興福寺・延暦寺と共に「本朝四箇大寺(しかたいじ)」の一つに数えられ、千百余年の歴史があります。
天智・弘文・天武天皇の勅願により、弘文天皇の皇子・大友多王が田園城邑を投じて建立され、天武天皇より「園城(おんじょう)」の勅額を賜わり、「長等山園城寺」と称したのにはじまります。
「三井寺」と呼ばれるのは、天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり、「御井(みい)の寺」の厳儀・三部潅頂の法水に用いられたことに由来しているからです。
円珍の死後、円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、正暦4年(993)、円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺に入ります。この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と称し天台宗は二分されたのです。
その後、両派の対立や源平の争乱、南北朝の争乱等による焼き討ちなど幾多の法難に遭遇しました。文禄4年(1595)、三井寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(けっしょ、寺域の没収、事実上の廃寺)を命じられました。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存しています。
慶長3年(1598)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可しています。死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺の祟りを恐れたためといわれています。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められました。現在の三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものです。
三井寺の境内は北院(ほくいん)、中院(なかいん)、南院(なんいん)の3院からなりたっています。北院は樹木が茂る山林の中に弘文天皇御陵、法明院があります。中院は僧侶の修行の中心で、大門、金堂、唐院、鐘楼、釈迦堂、金堂、三井の晩鐘、閼伽井屋などがあります。南院は庶民信仰の場所で観音堂などのお堂があります。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/
日本一周 ブログランキングへ
にほんブログ村
http://blog.fc2.com/