旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

富山県高岡市の瑞龍寺です。

2006年08月31日 | 旅 歴史
 富山県高岡市にある瑞龍寺というお寺。加賀百万石の前田家の二代目 前田利長公(「利家とまつ」の息子)が建立したお寺です。利長は、慶長十四年(1609)当時「関野」と呼ばれていた荒野に城を築き近郊より民を集め城下町を造りました。これが高岡の始まりです。曹洞宗高岡山瑞龍寺は加賀藩二代藩主前田利長公の菩提を弔うため三代藩主利常公によって建立された寺です。利長公は高岡に築城ここで他界しました。
山門の柱には、加賀前田家の家紋が残されています。前田家ゆかりの格式の高いお寺です。寺域は三万六千坪、周囲に壕をめぐらしまさに城郭の姿を想わせます。当初城下町として造られた「高岡」は、慶長十九年(1614)前田利長の死去とともに家臣団は金沢へ引き上げ、まもなく廃城となったそうです。
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福井城

2006年08月30日 | 旅 歴史
福井城は慶長11年(1606)、徳川家康の次男・結城秀康が築城しました。以降270年間にわたり、福井藩主松平家の居城になりました。4層5階、高さ37mに及ぶ天守閣がありました。現在は石垣とそれを囲む堀だけが残っているだけです。城址は、本丸緑地として整備され、人々の憩いの場として親しまれています。結城秀康は幼名は於義丸といい天正2年(1574)徳川家康の次男として生まれました。兄・徳川信康が家康の命で自害したことから嫡男となりました。天正12年(1584)小牧長久手の戦いの後、豊臣秀吉の養子になり、養父と実父の1字ずつを取り「秀康」と名乗りました。天正18年(1590)秀康16歳の時、秀吉の意向で下総国結城城主の名門結城晴朝の元へ養子に出されました。関ヶ原の戦いの後、加賀藩への牽制の意味もあって福井68万石の初代藩主になりました。慶長6年(1601)5月、越前に入国した秀康は北ノ庄城の改修に着手しました。広大な城郭と五層の天守閣を建設し、九頭竜川から芝原上水を掘削して城下の飲料水を確保し、城下町の形成に努めたのでした。慶長12年(1607)4月、病床に就いていた秀康は34歳の若さで不運な一生を終えました。その後は長男の忠直が継ぎました。これより松平姓になりました。忠直は乱行を尽し、豊後に配流となってしまいました。
 越後高田から、秀康の二男で、忠直の弟、松平忠昌が52万石で入封しました。この時地名を福井と改めたそうです。本丸跡には福の井という井戸がありこれが福井という地名になったそうです。 忠昌の後は光通が継ぎました。松平光長の娘国姫を正室として迎えますが、国姫の母は秀忠の娘ということで側室の間の子、松平直堅を認めませんでした。直堅は危機を感じ、江戸に出奔。国姫は男子が生まれず、母と夫の板ばさみで自殺。光通もこれらの経緯を苦に、後を追って自殺しまったのです。遺言により後継は弟の松平昌親になりましたが早々に庶長兄の昌勝の子の甥の綱昌に家督を譲ってしまいます。綱昌は16歳と若年のうえ近臣を斬ったり、不審な点があったため領国を没収されてしまったということです。昌親が再び減封された25万石に藩主に返り咲き、綱吉の一字をもらって吉品となりました。
吉品は、嗣子に同じく兄昌勝の六男を迎え、松平吉邦としたのでした。次ぎの宗将も昌勝の三男でした。結城秀康の血筋は次ぎの宗矩で絶えました。福井藩は藩主に恵まれず、幕府から意図的に力を弱められた感があります。
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九州雲仙の原城跡です。

2006年08月29日 | 旅 歴史
明応5年(1496)、東肥前までも勢力を延ばし当時26万石ともいわれた領主・有馬貴純(8代目)によって築かれた原城です。周囲4キロの三方を有明海に囲まれ難攻不落の天然の要害でした。城構えは本丸、二ノ丸、三ノ丸、天草丸、出丸などからなり、別名「日暮城」とも呼ばれた美しい城でした。有馬晴純の代の時は全盛時代となりました。有馬義直時代には義直が家臣ともども洗礼をうけ、キリシタンとなりました。このため領民も次々と改宗し、領内の寺社は教会へとかえられていきました。その頃、佐賀の龍造寺により再三侵略されました。島津氏の救援で島原沖田畷にて勝利することが出き、島原半島の南部をかろうじて維持していました。
 義直の子、晴信は一旦キリシタン禁圧策をとりましたが、軍事的な理由でキリシタン保護策に変えました。有馬支配下の大多数の領民がキリシタンになりました。仏教徒は弾圧をうけ、寺社はことごとく破壊されたそうです。晴信は慶長17年(1612)に岡本大八事件に連座し配流・切腹となってしまいました。
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丸子城攻防

2006年08月28日 | 旅 歴史
 今日は丸子城跡に登ってきました。天正13年(1585)8月2日、真田昌幸は沼田城の明渡しを拒み、徳川家康の大軍と神川(かんがわ)の辺りで合戦し撃退させました。徳川軍は丸子城に矛先を変え、八重原に布陣しました。昌幸は手白塚(塩川)に出て牽制しました。8月19日、諏訪頼忠が丸子城への攻撃を開始し合戦が始まりました。丸子城では真田の家臣丸子三左衛門らが少ない兵力で城を守っていたそうです。翌日、昌幸は長瀬河原へ出て鉄砲で諏訪軍の背後を突いたそうです。これを見た岡部長盛は軍を三手に分けて出陣し、河原原に火を放って真田軍を退け、辰ノ口側から丸子城を攻撃したのですが結局城は落とせず、徳川軍は何も得ることなく帰ることになったとのことです。
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上田の小泉にある大日堂です。

2006年08月27日 | 旅 歴史
小泉大日堂は長野県内に残る貴重な中世の大規模仏堂の遺構です。上小地方では、国分寺の薬師堂に次いで2番目に大きなお堂となっています。上田市の有形文化財(建造物)にも指定されています。柱間が五間(実尺16.55m)四方で長野県下では一番大きい宝形造りの堂なのです。堂が建てられたのは室町時代の中期と推定されています。江戸時代の大修理で屋根をはじめ、外壁、天井その他細部の模様を崩してしまいました。昭和55年(1980)復元大改修で確証の残る部分をすべて原型に復したそうです。
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東昌寺の鐘楼です。

2006年08月26日 | 旅 歴史
 昨日行った大法寺のすぐ隣にある上田市浦野の東昌寺です。仁王門をくぐって杉木立の山道を登りつめた所に鐘楼は建っています。創建は建長2年(1250)と伝えられています。この鐘楼は、天保12二年(1841)有名な諏訪の立川流の大工、宮坂常蔵によって建てられたそうです。入母屋造り、桟瓦葺、袴腰という形で、県内でも数の少ない鐘楼です。上田市の有形文化財に指定されています。
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信州小県郡青木村の国宝の大法寺です。

2006年08月25日 | 旅 歴史
碓氷峠を越えて信濃の国に入った東山道は、上田から千曲川を南に渡り、浦野を通り保福寺峠を越えて松本平にでます。この浦野の山のふもとに大法寺があります。大法寺三重塔はあまりの美しさから、旅人が振り返り、振り返り立ち去っていったといわれており、「見返りの塔」という名で呼ばれています。昭和27年国宝に指定されました。長野県内で国宝に指定されている他の建造物は、上田別所の松尾寺八角三重塔・長野善光寺本堂・松本城・大町市の仁科神明宮の五ヶ所だけです。この塔は大正9年解体修理の時に発見された墨書によって鎌倉時代の末期の正慶2年(1333)、大阪四天王寺大工四郎某ほか小番匠七人によって建てられたそうです。
見返りの塔の名のあるように全体の形が上品で美しく仕上がっています。美しさの由縁は、初重が特に大きい事です。こうすると落ち着いた感じになる独特の工法で、奈良の興福寺三重塔にその類例を見るだけの独特の工法だそうです。
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岐阜城

2006年08月24日 | 旅 歴史
岐阜城は標高336mの金華山山頂に築かれた城です。 1201年に鎌倉幕府執事二階堂行政により砦が築かれました。戦国時代には斎藤道三の居城でもありました。永禄10年(1567年)8月、織田信長が、この城を攻略し、この地方一帯を平定するとともに、その地名も「井口」(いのくち)を「岐阜」と改めました。周の文王が岐山より興って天下を平定した故事によるものといわれています。岐阜城は安土城が築かれる10年間信長の本拠とし、その後信長の長男信忠が居城しました。本能寺の変後は神戸信孝・池田元助らが入城しました。慶長5年(1600年)8月、関ヶ原合戦の際に、信長の孫の秀信が西軍に味方したため、東軍に攻め入られ、激戦の末に落城しました。
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宮崎県の飫肥城です。

2006年08月23日 | 旅 歴史
飫肥城大手門です。明治2年(1869)当主伊東氏が大手門前の豫章館に移り、明治6年(1873)には、飫肥城内の建物全てが取り壊されてしまいました。この大手門は昭和53年(1978)6月に樹齢100年の飫肥杉を使用して復元されました。釘を一切使用せず作られているそうです。飫肥城は飫肥の町の北側、酒谷川と山川を臨む海抜60mほどの丘に建っています。康安2年(1362)砦程度のここに反乱兵士が立てこもりこの地方の豪族土持頼宣が平定したそうです。 鎌倉時代、工藤祐経が源頼朝より日向の地頭職に任ぜられました。それ以来日向の国主として支配してきました。6代目の伊東祐持は足利尊氏より都於郡に三百町の領地をもらい都於郡城を築いたのでした。長禄2年(1458)薩摩の島津氏は伊東氏の南下に備え飫肥城を築き、志布志城の新納忠統を守備に当らせました。文明16年(1484)伊東祐国が都於郡城から飫肥に出陣し攻略しました。 しかしすぐに城は島津氏に奪回されました。伊東祐国は何回も飫肥城を攻めましたが攻略できず逆に戦死してしまいました。 伊東祐国の子尹祐と島津忠国は和睦しましたが尹祐の子義祐は飫肥城を攻め島津氏との間で奪回が繰り返されました。永禄11年には義祐の次男祐兵(すけたけ)が城主になっています。

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小諸城の三の門(重文)の“懐古園”です。

2006年08月19日 | 旅 歴史
白鶴城や酔月城とも呼ばれた小諸城の跡です。小諸城は千曲川沿いの断崖に面して建っていて、要害堅固な城です。入り口の三の門(重文)には徳川家達(いえさと)公の筆になる“懐古園”の額が掛っています。この城は、もともと長享元(1487)年に大井光忠が築いた鍋蓋城が前身となっています。天文22(1553)年に武田信玄によって陥落させられると、以降は武田氏の小県攻略の橋頭堡として整備されました。武田氏が滅亡後、織田氏、北条氏、徳川氏と様々な主の下を転々とし、後に小田原攻めで功のあった千石秀久が入封しました。このときにかなり大規模な改修が行なわれ、小諸城は近世的な城となりました。
 園内には藤村記念館、小山敬三美術館、徴古館、郷土博物館、動物園、遊園地などがあります。二の丸の石垣には若山牧水歌碑が、千曲川を望んでは藤村詩碑が建てられています。
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奄美大島の隣の加計呂麻島のリリーが住んでいた家

2006年08月18日 | 旅 歴史
「寅次郎紅の花」で寅さんとリリーが一緒に住んでいた加計呂麻島のリリー家です。この家の表で満男(吉岡秀隆)と寅さんが劇的な再会を果たしました。海岸側は美しい諸鈍デイゴ並木が続いているところでした。前に誰かのホームページで見た「リリーの家」という大袈裟な看板も出店もなく地元の人に聞かなければどの家がリリーの家かわかりませんでした。
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北海道の松前城です。

2006年08月17日 | 旅 歴史
松前城は福山城ともいわれ、松前城福山の大地に築かれた平山城です。ロシア船が出没しだした幕末に、徳川幕府は松前崇広に築城を命じ、6年の年月をかけ安政元年(1854)完成させた日本で最後の城なのです。明治元年(1868)に榎本武揚、土方歳三らが率いる旧徳川幕府軍の手によって落城しましたが、明治2年に官軍が奪取に成功しました。明治8年(1875)天守、本丸御門、本丸東壁などを残して取り壊されました。その天守も昭和24年(1949)の火災により本丸御門以外の建物は焼失してしまったのです。復元された天守は鉄筋3階建ての建物で、内部は民俗資料館となっています。現在は公園として整備されていて、7000本の桜が咲く名所となっています。
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信州諏訪の高島城です。

2006年08月16日 | 旅 歴史
高島城は1590年(天正18年)、諏訪に転封された豊臣秀吉の部将、日根野織部正高吉によって1598年(慶長3年)に完成しました。この城は、諏訪湖と数条の川により周囲の濠の役割をしていて、諏訪湖の波が城壁にせまり、水中から城郭のみが浮き出したように見えたために、「諏訪の浮城」とも言われたそうです。それより前の諏訪は諏訪氏が諏訪湖周辺を治めていました。武田・織田の相つぐ侵攻を受けた後、天正18年(1590)豊臣秀吉によって徳川家康が関東へ移封された時、諏訪頼忠は行動をともにして武蔵国比企郡奈良梨へ移り、日根野氏が入封しました。関ヶ原の合戦後は、日根野氏の関東への転封と入れ替りに、慶長6年(1601)高島城には再び諏訪氏が帰城し、初代藩主諏訪頼水から10代藩主諏訪忠礼に至る江戸時代270年の間、諏訪氏の居城となりました。天守閣は明治8年(1875)に取り壊されましたが昭和45年に再建されています。
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長野市の松代城です。

2006年08月15日 | 旅 歴史
松代城は戦国時代には海津城と呼ばれ、北信濃に進出した武田信玄が永禄3年(1560)軍師の山本勘助に命じて築かせたものです。武田二十四将の一人高坂弾正を海津城主として上杉謙信の信濃への侵攻に備え、川中島四郡の要の地の最前線根拠地として築いた城です。永禄四年九月の川中島激戦の際は、武田信玄の本陣となり、妻女山に陣営を張る上杉軍に相対して、ここで軍を二手に分け、一手は妻女山攻撃隊となり一手の軍勢は武田信玄自ら率いて八幡原の直戦地へ進出した根拠地です。  
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塩田城跡からの景色です。

2006年08月14日 | 旅 歴史
 塩田城は鎌倉時代中期の建治3年(1277)鎌倉幕府の執権北条時宗の連署であった北条義政がこの地に移り、館を構えたところから始まります。義政の子、国時、その子俊時と三代にわたり約60年、塩田北条と称して、信濃の一大勢力としてこの地を統治しました。元弘3年(1333)鎌倉幕府の運命が危うくなったとき「いざ鎌倉」と一族をあげて支援に駆けつけました。奮戦むなしく幕府とともに滅亡しました。
 信玄はこの塩田城の戦略上の重要性に注目して重臣飯富(おぶ)氏をこの城に置き、自らもここに滞在して東信濃の拠点としました。 真田氏が上田城を築くまで約30年間軍政両面の拠点でした。
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