佐賀県多久市多久町にある多久聖廟です。
多久聖廟は全国の孔子廟の中でももっとも壮麗といわれ、数多くの観光客が訪れれています。学問の神様としても有名です。
江戸時代、多久領は多久氏によって治められていました。多久家4代を継いだ多久茂文(しげふみ)は佐賀藩2代藩主鍋島光茂の3男で、幼くして多久茂矩の養子となりました。
茂文は多久領を治めるためには教育が必要と考え、学校と孔子像を安置する聖廟の建設に着手しました。
元禄12年(1699)、まず学問所(後の東原庠舎(とうげんしょうしゃ))を建設し、講堂に孔子像を安置しました。宝永5年(1708)に椎原山の麓に聖廟(恭安殿)を完成させ、孔子と四配(顔子、曾子、子思子、孟子)像を納め、祀っています。
多久聖廟は中国風の外観で、桁行3間、梁間4間、一重裳階付きの妻入りで、屋根は入母屋造りの本瓦葺きです。正面には唐破風造りの1間の向拝が付いています。国の重要文化財に指定されています。

下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/

多久聖廟は全国の孔子廟の中でももっとも壮麗といわれ、数多くの観光客が訪れれています。学問の神様としても有名です。
江戸時代、多久領は多久氏によって治められていました。多久家4代を継いだ多久茂文(しげふみ)は佐賀藩2代藩主鍋島光茂の3男で、幼くして多久茂矩の養子となりました。
茂文は多久領を治めるためには教育が必要と考え、学校と孔子像を安置する聖廟の建設に着手しました。
元禄12年(1699)、まず学問所(後の東原庠舎(とうげんしょうしゃ))を建設し、講堂に孔子像を安置しました。宝永5年(1708)に椎原山の麓に聖廟(恭安殿)を完成させ、孔子と四配(顔子、曾子、子思子、孟子)像を納め、祀っています。
多久聖廟は中国風の外観で、桁行3間、梁間4間、一重裳階付きの妻入りで、屋根は入母屋造りの本瓦葺きです。正面には唐破風造りの1間の向拝が付いています。国の重要文化財に指定されています。

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佐賀県杵島(きしま)郡白石(しろいし)町大字堤にある肥前犬山城です。
肥前犬山城は標高342mの杵島山山頂の犬山岳の山頂に建っています。実在の城ではなくお城の形に擬した展望所です。ここから白石平野や有明海が一望のもとに見渡せます。
肥前犬山城からは下に3つの小高い丘が見えます。中央に見えるのは「須古高城跡」です。戦国時代、この城は平井経治氏の居城でした。
難攻不落で有名でしたが龍造寺隆信との4度の戦で、ついに敗れ滅亡しました。隆信も島原で島津・有馬の連合軍に敗れ、高城は、代々鍋島の須古藩が城主になりました。

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肥前犬山城は標高342mの杵島山山頂の犬山岳の山頂に建っています。実在の城ではなくお城の形に擬した展望所です。ここから白石平野や有明海が一望のもとに見渡せます。
肥前犬山城からは下に3つの小高い丘が見えます。中央に見えるのは「須古高城跡」です。戦国時代、この城は平井経治氏の居城でした。
難攻不落で有名でしたが龍造寺隆信との4度の戦で、ついに敗れ滅亡しました。隆信も島原で島津・有馬の連合軍に敗れ、高城は、代々鍋島の須古藩が城主になりました。

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佐賀県鹿島市古枝乙にある祐徳稲荷神社です。
「祐徳さん」と親しまれている祐徳稲荷神社は、伏見稲荷、笠間稲荷とともに日本三大稲荷の一つに数え上げられています。
祐徳稲荷神社は、貞享4年(1687)、肥前鹿島3代藩主鍋島直朝(なおとも)公の夫人花山院萬子媛が、京都から輿入れする際に、京都御所内の花山院邸に鎮座する稲荷大神の分霊を勧請したのが始まりだといわれています。
宝永2年(1705)、石壁山窟の寿蔵にて、萬子媛は断食して入定を果たしたそうです。以降、萬子媛の諡名から「祐徳院」と呼ばれるようになったそうです。
衣食住の祖神と仰がれ、五穀豊穣、商売繁盛、家運繁栄、大漁満足、交通安全などの守護神として信仰があつく、参詣者は福岡の太宰府天満宮についで年間280万人に達するそうです。
本殿などは、昭和初期に建て直されたものが昭和24年(1949)に焼失してしまいました。伊勢神宮造営局長の角南隆氏が設計して昭和32年(1957)に再建されました。主要建物は総漆塗りで、楼門、神楽門などは極彩色の華麗な造りです。

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「祐徳さん」と親しまれている祐徳稲荷神社は、伏見稲荷、笠間稲荷とともに日本三大稲荷の一つに数え上げられています。
祐徳稲荷神社は、貞享4年(1687)、肥前鹿島3代藩主鍋島直朝(なおとも)公の夫人花山院萬子媛が、京都から輿入れする際に、京都御所内の花山院邸に鎮座する稲荷大神の分霊を勧請したのが始まりだといわれています。
宝永2年(1705)、石壁山窟の寿蔵にて、萬子媛は断食して入定を果たしたそうです。以降、萬子媛の諡名から「祐徳院」と呼ばれるようになったそうです。
衣食住の祖神と仰がれ、五穀豊穣、商売繁盛、家運繁栄、大漁満足、交通安全などの守護神として信仰があつく、参詣者は福岡の太宰府天満宮についで年間280万人に達するそうです。
本殿などは、昭和初期に建て直されたものが昭和24年(1949)に焼失してしまいました。伊勢神宮造営局長の角南隆氏が設計して昭和32年(1957)に再建されました。主要建物は総漆塗りで、楼門、神楽門などは極彩色の華麗な造りです。

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佐賀県武雄市武雄町大字武雄にある武雄温泉新館です。
東京駅を設計した辰野金吾博士の設計で大正3年8月に建てられた武雄温泉新館と、大正4年4月に竣工した楼門は平成15年3月に復原されました。
そして2つの建物は平成17年に国の重要文化財に指定されました。温泉の入口に立つ竜宮門形の朱塗りの楼門は、天平式楼門と呼ばれ釘を一本も使用していないそうです。
楼門は、入母屋造本瓦葺の木造二重門で、左右に平屋の翼屋が張り出しています。扁額の「蓬莱泉」は明治期に書聖とうたわれた中林梧竹の筆です。
新館の一階は、玄関を入ると左右に男と女の大浴場があります。それを中心に上場湯各3つの部屋があります。二階には5つの和室があります。

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東京駅を設計した辰野金吾博士の設計で大正3年8月に建てられた武雄温泉新館と、大正4年4月に竣工した楼門は平成15年3月に復原されました。
そして2つの建物は平成17年に国の重要文化財に指定されました。温泉の入口に立つ竜宮門形の朱塗りの楼門は、天平式楼門と呼ばれ釘を一本も使用していないそうです。
楼門は、入母屋造本瓦葺の木造二重門で、左右に平屋の翼屋が張り出しています。扁額の「蓬莱泉」は明治期に書聖とうたわれた中林梧竹の筆です。
新館の一階は、玄関を入ると左右に男と女の大浴場があります。それを中心に上場湯各3つの部屋があります。二階には5つの和室があります。

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佐賀県武雄市山内町大字宮野にある黒髪神社です。
黒髪神社は古くは黒髪三所大権現といい黒髪山頂の天童岩に上宮があり山麓に下宮があります。
古代の磐座(いはくら)信仰・巨石崇拝が色濃く残っていて日本に於ける神祇崇敬の最も古い形式を伝えています。
ご祭神はイザナギ、イザナミ、速玉男命などで、祖神様としての信仰が厚く、五穀豊穣・雨乞い・病気平癒・商売繁盛・交通安全・学業成就・諸災消除・諸願成就の神様として崇敬されています。
黒髪神社は流鏑馬神事も有名で、毎年10月29日に開かれる流鏑馬は、現在まで八百有余続く伝統神事となっています。

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古代の磐座(いはくら)信仰・巨石崇拝が色濃く残っていて日本に於ける神祇崇敬の最も古い形式を伝えています。
ご祭神はイザナギ、イザナミ、速玉男命などで、祖神様としての信仰が厚く、五穀豊穣・雨乞い・病気平癒・商売繁盛・交通安全・学業成就・諸災消除・諸願成就の神様として崇敬されています。
黒髪神社は流鏑馬神事も有名で、毎年10月29日に開かれる流鏑馬は、現在まで八百有余続く伝統神事となっています。

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佐賀県伊万里市立花町にある伊万里神社です。
伊万里神社は伊万里川沿いにあります。景行天皇2年(72)に「香橘(こうきつ)神社」として、現鎮座地に創祀され、昭和30年代に伊万里にある神社2つが合祀して伊万里神社となりました。
主祭神は橘諸兄です。下記田道間守が非時香果(ときじくのかぐのみ=橘)を得て帰国の途次、伊万里津に寄港した際、この実を当地に植えたとされます。後世橘氏の子孫がこれを祖先の霊跡として、橘諸兄を祀って「橘の宮」と称したのが始まりと伝えられています。
伊萬里神社の社殿は釘を一本も使わずに建てられている総木組建築の宮造りです。境内には「お菓子の神様」を祀っている「菓祖・中嶋神社」があり、伊万里出身の森永製菓創設者、森永太一郎氏の銅像もあります。
毎年10月になると、日本3大喧嘩祭りの一つともされる伊萬里神社の「トンテントン祭」が境内で行なわれます。この祭りは伊万里くんちとも呼ばれます。「荒みこし」と「だんじり」がトンテントンと打ち鳴らす太鼓を合図に組み合い、相手を倒す祭りです。

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主祭神は橘諸兄です。下記田道間守が非時香果(ときじくのかぐのみ=橘)を得て帰国の途次、伊万里津に寄港した際、この実を当地に植えたとされます。後世橘氏の子孫がこれを祖先の霊跡として、橘諸兄を祀って「橘の宮」と称したのが始まりと伝えられています。
伊萬里神社の社殿は釘を一本も使わずに建てられている総木組建築の宮造りです。境内には「お菓子の神様」を祀っている「菓祖・中嶋神社」があり、伊万里出身の森永製菓創設者、森永太一郎氏の銅像もあります。
毎年10月になると、日本3大喧嘩祭りの一つともされる伊萬里神社の「トンテントン祭」が境内で行なわれます。この祭りは伊万里くんちとも呼ばれます。「荒みこし」と「だんじり」がトンテントンと打ち鳴らす太鼓を合図に組み合い、相手を倒す祭りです。

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