京都府京都市左京区大原来迎院町に三千院があります。
魚山(ぎょざん)三千院は天台宗のお寺です。「京都大原三千院 恋に疲れた女がひとり~ ♪」で一躍有名になりました。伝教大師・最澄が比叡山の東塔にあった梨の木の下に「円融房」という一院を開いたのが始まりとされています。現在地の大原には明治4年(1871)に移っています。それ以前は「梶井門跡」「梨本門跡」「円融院門跡」などと呼ばれました。
境内には往生極楽院、宸殿、客殿などの建物があります。境内南側の庭園内にある往生極楽院は平安時代末期の12世紀から大原の地にあった阿弥陀堂で国の重要文化財に指定されています。
三千院は「天台宗五箇室門跡」のひとつで、妙法院、青蓮院と並ぶ天台宗三門跡の一つです。後ろには小野山がひかえ、四方はまるで城のように高い石垣に囲まれています。平安時代後期以降は、皇族の僧が住持し、優美な雰囲気です。
応徳3年(1086)、梶井里(現大津市坂本)に本拠を移し円徳院と称しました。白河天皇の中宮藤原賢子の菩提を弔うためでした。梶井の地名と、加持(密教の修法)に用いる井戸(加持井)があったことから、後に「梶井宮」とも呼ばれました。
元永元年(1118)、堀河天皇の皇子・最雲法親王が入寺し、大治5年(1130)に第14世梶井門跡となりました。以後、歴代の住持には皇室や摂関家の子弟がつく、門跡寺院となりました。貞永元年(1232)火災のため焼失し、京都市内に移りましたが、応仁の乱で戦火に遭い、大原魚山に移りました。
魚山は最雲法親王以来、門跡の政所がおかれていたところでした。元禄11年(1698)、将軍徳川綱吉は門跡の入道慈胤親王(後陽成天皇皇子)に対し、京都御所の東に寺地を与えました。ここに本坊が建立され、持仏堂を三千院とし、歴代の法親王はここに住み、魚山は修行道場になりました。
明治維新の際、門跡であった昌仁法親王が還俗し新たに梨本宮家を起こし、本坊は魚山に移り三千院としました。院内にはあじさいの「有清園」と、シャクナゲが有名な「聚碧園」の2つの地泉回遊式庭園があり、しっとりとしたたたずまいをみせています。
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