8.1(金)
合宿の癖で昨日も今日も朝7時に目が覚める。健康的な、あまりに健康的な、一日の始まりである。いっそのことこれを機会に夜型から朝型へ(というほどの早起きではないが)ライフスタイルを変えてみようかと思ったりする。でも、昨日寝たのは午前3時だったから、就寝時刻はいつもの夜型で、起床時間だけが朝型になっているわけで、こういうのはやっぱり健康的とはいわないだろう。
複雑な事情を抱えた家族があって、その家族のメンバー一人一人を主人公とする6篇の短編小説から構成される村山由佳『星々の舟』から冒頭の一篇「雪虫」を読む。泣かせる話という点では同じ直木賞作家の浅田次郎と通じるものがあるが、浅田ほど単刀直入ではなく、陰影に富んだ文章は伊集院静の『受け月』(平成4年直木賞作)を思わせる。
つらい経験から再起する女性たちを主人公にした5篇のラブストーリーから構成されるよしもとばなな『デッドエンドの思い出』から表題作を読む。婚約者の男性からだんだん連絡が来なくなり、思い切って彼のアパートに行ってみたら、女の人がいて、彼女から「ごめんなさい。私たち結婚するんです。」と言われ、そこに彼氏が帰ってきて、「ごめん。もっと好きな人ができてしまったんだ。」と言われるという、絵に描いたようなつらい経験をした女性が、一人の奇跡的に素直な性格の青年によって癒されるという一種の御伽噺で、よしもとばななは基本的な部分でデビューの頃とまったく変っていないという印象を強くもった。30年くらい昔、『天国に一番近い島』という作品でデビューした森村桂という「万年少女」のような作家がいたが(いまは軽井沢で「アリスの丘」という喫茶店をやっている)、よしもとばななは第二の森村桂になるのだろうか。
栄松堂で本を3冊購入。
(1)松本建一『丸山真男 八・一五革命伝説』(河出書房新社)
戦後日本の代表的知識人であった丸山真男が亡くなってこの8月15日で丸6年になる。同じく戦後日本の代表的知識人であった清水幾太郎と同じく、丸山もアカデミズムとジャーナリズムの接点に立っていたが、清水がアカデミックなジャーナリストであったとに対して、丸山はジャーナリスティックなアカデミストであった。
(2)竹内洋『教養主義の没落』(中公新書)
竹内によれば、教養主義は1970年前後までキャンパスの支配的文化であった。確かにそう思う。私が大学に入ったのは1973年であったが、文学部や本部の生協書店の書棚はメインカルチャーの本で占拠されていた。それは「名のある大学の学生ならば当然読むべき本」であった。たとえ実際には読んでいなくとも、「読んでいるフリをしなくてはならない本」であった。そうした教養主義は大正時代の旧制高校で発祥し、半世紀に渡って大学に君臨し、大学の大衆化の中で没落していった。教養主義の代理店は岩波書店である。清水幾太郎や丸山真男が立っていたアカデミズムとジャーナリズムの接点とは具体的には岩波書店のことであり、2人とも総合雑誌『世界』を活躍の舞台としていた。
(3)スチュアート・ダイベック『シカゴ育ち』(白水社)
訳は柴田元幸。訳者の「Uブックス版によせて」には、「この翻訳を九二年に出して以来、何人もの読者が、あなたが訳した本の中でこれがいちばん好きだ、と言ってくださった。・・・・ほかの作家たちには悪いけれど、僕自身も、いままで訳した本のなかでいちばん好きな本を選ぶとしたら、この『シカゴ育ち』だと思う。」とある。これが帯では、「いままで自分が訳したなかで最高の一冊」となって使われている。「いちばん好きな本」と「最高の一冊」では意味が違うと思うのだけれど・・・・。
東口のリサイクル書店「復活書房」に足をのばして、次の3冊を購入。
(1)大崎善生『ドナウよ、静に流れよ』(文藝春秋)
(2)最相葉月『あのころの未来 星新一の預言』(新潮社)
(3)マイケル・リチャードソン『ダブル/ダブル』(白水社)
ここでは新刊書が定価の半額で買える。昨日、栄松堂で買った『星々の舟』(1600円)もここでは850円の値札が付いていた。く、悔しい。でも、みんながこういう店を利用するようになると小さな新刊書店はたまったものではない。ほどほどに。ほどほどに。
8.2(土)
夕方まで続くと思っていた会議が早めに終わり、浮いた時間を研究室の整理整頓にあてる。事務机や作業机の上に雑然と置かれていた書類や本がしかるべきところに収まると気分がスッキリする。何も載っていない作業机の上で、先日行なった試験の答案用紙を学籍番号順に並べ替える。採点の後、点数を成績簿に転記するためにはそうしておく必要がある。社会学基礎講義Aと社会学研究9、ともに170~180枚あり、合わせて2時間近くかかった。びっしり書いてある答案もあればスカスカの答案もある。読みやすい字で書かれている答案もあれば、読みにくい字で書かれている答案もある。私は学生時代、答案を書くのが苦痛だった。普通に書いていると読みにくい字になるので、丁寧に書こうと努めるのだが、そうすると字を書くスピードが極端に遅くなり、いつも時間との戦いになった。そんなことを思い出していたら、解答の末尾に「悪筆失礼」と書いてある答案があり、なるほど読みにくい字でびっしりと書かれている。この学生も私同様苦労しているのだと同情した。余白に授業に対する感想や感謝の言葉が書かれてある答案が何枚かあった。解答以外のことを答案に書くことを嫌う教員も中にはいるだろうが、同じような答案を何枚も何枚も読む作業をしているときには、ちょっとした息抜きになって、私は悪い感じはしない。答案用紙の教員名を記入する欄が空白になっていると、この学生はきっと出席率がよくないのだろうなと思ってしまう。「大久保」ではなく「大久保孝治」とフルネームで書いてあると、印象がよい。ただし「孝治」の「孝」が「考」となっていてがっかりすることもある。・・・・念のために言っておくと、以上のようなことは、採点を左右するものではまったくありませんから、ご心配(あるいはお喜び)無用です。
帰宅してメールをチェックすると、オックスフォード大学の大学院に留学しているT君からメールが届いていた。修士号を取得したとの知らせで、授与式当日のガウンと帽子姿の写真が添付されていた。実に初々しい。これからヨーロッパを旅行して、9月下旬に帰国するとのこと。私の卒論ゼミの出身で、外国の大学院に留学した者はT君を入れて3名で、ジョージ・ワシントン大学の大学院に留学したMさんは向こうの企業に就職し、この6月にフランス人と結婚した。ケンブリッジ大学の大学院で法律の勉強をしているNさんは、しばらく連絡がないが、彼女のことだ、きっと元気にやっているに違いない。
寝る前にシュチュアート・ダイベック『シカゴ育ち』の冒頭の一篇「ファーウェル」を読む。わずか4頁の短編で、大学生の「僕」とロシア文学のゼミの先生バボビッチの一瞬の交流を鮮やかに描いた作品で、まるで川端康成の『掌(たなごころ)の小説』みたいだなと思ったら、後から「訳者あとがき」を読んだら、「一連のショート・ショートは、ダイベックが敬愛する川端康成の『掌の小説』に触発されてもいるという。」と書いてあったのでびっくりした。「ファーウェル」でとくに印象的だった箇所は、バボの部屋の机の上の壁に生まれ故郷のオデッサの市街図が画鋲でとめてあって、その市街図のいくつかの道路沿に赤インクでいくつかの丸が書き込んであるのに気づいた「僕」が、赤丸は何のしるしなのかと尋ねたときのバボの答えだった。「おいしいパン屋だよ」と彼は答えたのだ。「大学に契約を更新してもらえなかったとき、バボはあっさりよそへ移っていった。・・・・つぎはどこなのか見当もつかんよ、と彼は言っていた。でもね、ひとつの場所にとどまっていると、いずれ遅かれ早かれ、自分が属する場所がもうなくなってしまったことを思い出してしまうんだよ、と。」まるで『風の又三郎』の先生版みたいだなと思ったが、ダイベックが宮沢賢治も敬愛していたかどうかは、「訳者あとがき」には書いてなかった。
8.3(日)
9月6日、7日に大阪市立大学で開かれる日本家族社会学会大会のための宿をインターネットサイト「旅の窓口」で探す。東京→(新幹線)→新大阪→(地下鉄御堂筋線)→天王寺→(JR阪和線)→杉本町→(徒歩)→大阪市立大学、というルートで行くので、天王寺駅近くのホテルに決めた。実は、大阪は初めてである。奈良や京都や神戸には何度も行ったが、なぜか日本第二の都市大阪とはこれまでの人生で縁がなかった。だからとても楽しみである。大阪の街をあちこち歩き回りたい。学会で地方都市に行ったときは、地元の将棋道場で見知らぬ人と将棋を指すことをひとつの楽しみにしてきた。今回、残念なことは、通天閣の地下にある通天閣囲碁・将棋センターが先月23日で店仕舞いしてしまったことである。この道場には伝説の真剣師で元アマチュア名人の大田学さん(86歳)が1976年の開業以来ずっと師範代として君臨していた。いつか大阪にいったら、ここを尋ねて、大田さんに一局教えていただきたいとずっと思っていたのだが・・・・。
旅というものは、その気にならないとなかなか行けないものである。しかし、いったん旅をしたいという気持ちになると、それを抑えることは難しい。「旅の窓口」を開いていたら、6月初めに行く予定にしていて原稿の遅れのためにキャンセルした石川県内灘町にどうしても行きたくなった。今年は内灘闘争50周年の年で、6月22日には内灘町役場の町民ホールで記念の講演・映画上映・シンポジウムなどが行われ、『証言「内灘闘争」―運動に参加した人々の想い』という冊子も出版された。私は早稲田社会学会の機関紙『社会学年誌』の次の号に「清水幾太郎の内灘」(仮題)という論文を執筆することになっていて、この夏は内灘闘争関係の資料を読むことが日課の一部になっている。内灘には数年前に一度行っている。真冬の大雪のときで、列車が遅れに遅れ、内灘に着いたときはもう夕方で、誰もいない砂丘に立って雪の舞う暗い日本海をしばらく眺めていた。今度は明るい陽射しの中であのときと同じ場所に立ってみようと思った。9月12日に『社会学年誌』の特集についての会合が大学であるので、その日、そのまま金沢行きの夜行バスに乗れば、翌日の朝には内灘に着く。トワ・エ・モアの歌ではないが、誰もいない秋の海辺でしばらく時間をつぶして、10時になったら内灘文化会館の2階の町立図書館が開くので、『海辺のカフカ』の15歳の少年のようにずっと図書館にこもって、内灘闘争関連の資料を読もう。やはり現場で読むことが大切なのだ。宿は内灘町に適当なものがなかったので(食事付きの宿は避けたい)、金沢駅前のホテルを予約した。
8.4(月)
「ご無沙汰しております」という件名のメールが届いて、差出人の名前を見ると、なんだか中学1年生のときの同級生の名前に似ている。(まさか・・・・)と思いながら、開いてみると、やっぱりそのH君だった。実に35年ぶりである。「ご無沙汰しております」どころではない。先日の金曜日の正午過ぎ、H君が「トム・ヤン・クン」で食事をしているときに、チェックのシャツを着て、買物袋をかかえて、店の前の通りを歩いている私らしき人物をみかけたのだが、あれは君だったのか、という内容のメールだった。うん、私だ。ただし、チェックのシャツではなく横縞のTシャツで、買物袋ではなく本屋がくれたビニールの手提げ袋だが。確か私はそのとき開店して日が浅い「トム・ヤン・クン」の店内を(ちゃんとお客は入っているかな)と心配しながらチラリと覗いた気がする。そしてそのときタイ人風の色黒で目の大きな男性と目が合った気がする。もしかしてあの男性がH君だったのか。H君はその後、気になって、検索エンジンで我らが母校「御園中学校」を調べたところ、私のホームページ(の自己紹介ページ)にヒットし、そこに書いてあるアドレスにメールを寄こしたというわけだ。メールの署名欄にはH君のホームページのURL(http://homepage2.nifty.com/blackcow/)が書かれていたので、さっそく訪問してみる。素敵な写真がたくさんあって、添えられている文章も味わいがある。私の記憶にあるH君は、トイレ掃除の当番のとき、デッキブラシをエレキギターに見立てて、ブルーコメッツの「マリアの泉」を歌っていた少年なのであるが、自己紹介欄に書かれた座右の銘が、"Never complain, never explain"(文句を言わず、言い訳を言わず)で、へぇ、高倉健のようではないかと思った。男子三日会わざれば活目して待つべし。いわんや35年ですからね。日記欄を読むと、「わけあって6月10日付けで25年間勤めた会社をやめた。奇しくもその日に3年ぶりのSteely Danの新しいCDが発売となった。」と書いてあった。「わけ」については一言も触れられてなくて、後はSteely Danの新曲の話になる。まさにnever explainだ。
8.5(火)
住宅ローンの借り換えをする(いま金利が安いので)。銀行で死ぬほどたくさんの書類に署名と捺印をする。担当の女性は前回来たときと姓が変わっていて、新しい名刺をいただく。この3週間の間に結婚したのだ。「おめでとうございます」と言う。しかし、もしこれが離婚して姓が変わっていた場合は、何と言えばいいのだろう。「おや、まあ」は失礼だし、「頑張って下さい」も余計なお世話だし、結局、「そうですか」と言う以外に適当な言葉がないような気がする。今後、離婚率は上昇を続けるであろうから、そういう場面にときどき出くわすに違いない。「そうですか」という言葉をサラリと言えるように練習しとかなきゃ。男性の場合は結婚・離婚に伴う姓の不連続性はほとんどないわけで、あらためて現行の夫婦同姓制度は女性に不利な制度であると思う。しかし、夫婦別姓制度を導入したとしても問題は残る。子どもの姓はどちらかに決めなければならないからだ。仮に夫方の姓にした場合、夫婦が離婚して妻が子どもを引き取れば、子どもの姓は変わることになる(もちろんこの点は現行の夫婦同姓制度の場合も同じだ)。
実は私には画期的なアイデアがある。夫婦別姓制度を導入した上で、子どもの姓は新しく創出することにするのである。つまり、いまは子どもが生まれたら下の名前だけを命名しているわけだが、これからは姓名セットで命名するのである。こうすれば親が離婚しようが再婚しようが子どもの姓は一定である。さらに付け加えれば、子どもは成人するとき、親から与えられた姓名を継承するか、自分で新しく決めるかの選択の機会を与えられるようにする。それまで鈴木一郎と呼ばれていた男の子が、「今日から僕は花形満になります」と宣言できるのである。・・・とここまで革新的な思考を進めると、ではいっそのこと姓を廃止してしまってもいいのではないかという過激なアイデアも出てくるだろう。国民全員が、天皇家の人々のようになるのである。あるいは、ホステスやホストのようになるのである。ただし、姓がなくなるから、名前の識別能力は低下しますね。同姓同名ならぬ同名の人が増えちゃう。そこで名前の前に出身地を付けることにしたらどうかと。「清水の次郎長」とか「沓掛の時次郎」とか。出身地ではなくて渾名でもいい。「猿飛佐助」とか「左甚五郎」とか。要するに江戸時代の庶民のレベルに戻っちゃうわけだ。だめかな、やっぱり・・・・。うん、姓は残しましょう。夫婦別姓+子どもの姓の創出+成人になるときの改姓改名の機会。これです、これ。
ただし、もしこの制度が実現した場合、来年50歳になろうとしている私には改姓改名の楽しみがない。で、相談だが(誰にだ?)、還暦を迎えたときにもう一度改姓改名の機会が与えられるというのはどうだろう。たとえば、私なら姓は「晴耕」名は「雨読」、合わせて「晴耕雨読」という名前にしたいと思う。社会の一線を退き、悠々自適の老後を迎えるのに相応しい姓名だと思いませんか。・・・・夏休みに入り、翌日の講義の準備から解放されて、寝る前にこんなこと考えています。
8.6(水)
ここ数日、だらだらと1日を過ごしている。「だらだら」は夏休みの1日の過ごし方の基本である。もちろん学期中もだらだらと1日を過ごすことはあるのだが、それは後ろめたい感じがする。しかし、夏休み中は、「いいや、夏休みなんだし」と自分に言い訳ができるところがよい。
昨日、「Yahoo! JAPANサーファーチーム」から私のホームページを「Yahoo!カテゴリー」で紹介したい旨のメールが届いた。誰かが推薦してくれたのだろう。今朝、Yahoo! JAPANを開いてみると、確かに「社会科学」の中の「社会学」のページのサイトリストに新着情報として掲載されている。私のホームページは、一目瞭然、いたってシンプルなものである。凝るのが嫌いなのではなく、自分が凝り性であることを自覚しているので、凝るのが怖いのである。いかにだらだらと夏休みの日々を送っているように見えても、やりたいことや、やらなくてはならないことを、けっこうたくさんかかえているのである(ドーダ)。しかし、今回、ホームページが人目に触れる機会が増えるであろうことを考えて、内装にちょっと手を加えることにした。とはいっても、ホームページビルダーなどのソフトは使わず、もっぱらワードだけを使ってやるので、各コンテンツの目次を表形式で統一し、背景と表中をツートン・カラーで統一したという程度のことである。それでもだらだらとやっていたせいか、けっこう時間がかかってしまった。いいや、夏休みなんだし。内装に手を加えたついでに、「自己紹介」のページの「好きな料理」を「天せいろ」に変更(夏だから)。そうしたら、今夜の我が家の献立が天ぷらにざる蕎麦だった。これは偶然だろうか。私のホームページの存在は家族は誰も知らないはずなのだが・・・・。うん、きっと偶然に決まっている。
8.7(木)
研究室に出る。インタビュー調査を終えてICレコーダーの返却や経費の清算に来る者や、インタビュー調査の準備作業で来る者とで、さほど広くない部屋がピーク時には12人の学生でごったがえす。あたかもサッカーの試合の控え室のようである。明後日、調査で九州に行くことになっているY君とI君が、まだ飛行機の予約をしていないことが判明し、一同びっくり。Y君は大慌てで本部キャンパスの生協に飛んでいって手続きをしたが、往きはもう適当な便がなく、結局、新幹線で福岡までいくことになった。家がお寺のK君は周囲から跡を継ぐことを求められているが、寺の住職的人生に積極的に足を踏み入れていくことができず、帰省するのが苦痛だとさかんにぼやいている。それを聞いたHさんは自分が男だったら跡を継ぐ、幼稚園も経営しちゃうと答えていた。クッキーとプリンを手土産に留学の挨拶に来たAさんは、リクライニング・チェアーに身を沈めて、私の書棚から引き抜いた小倉千加子『女の人生すごろく』(ちくま文庫)や風間研『大恋愛 人生の結晶作用』(講談社現代新書)を読んでいる。この2冊は餞別として進呈することになった。Kさんは研究室のドアを開けた途端にたくさんの仲間がいるの見て、「みんな家族みたい!」と喜んでいる。・・・・大学3年生の或る夏の日の情景を、彼ら彼女らはずっと後になってふと思い出すことがあるかもしれない。
8.8(金)
散歩のついでに、一ヶ月先の東京⇔新大阪の新幹線の指定席券を購入しようと蒲田駅のみどりの窓口に行ってみると、長い列ができている。そうか、お盆で帰省する人たちだ。また別の日にしようと、有隣堂に足を向ける。こちらはさすがに平日の昼間だと空いている。文庫本の新刊を4冊購入。
(1)山崎努『俳優のノート』(文春文庫)
山崎努は存在感のある俳優である。高倉健のような身体所作から生じる存在感とは別の、台詞回しから生じる存在感である。私が彼のそうした存在感と出会ったのは、いまから20年前、山田太一脚本のTVドラマ『早春スケッチブック』を観たときである。あのドラマの中で山崎努が演じていた沢田竜彦という役は凄かった。いや、沢田竜彦を演じていた山崎努という俳優が凄かったのだ。たとえば、沢田は高校生の望月和彦(鶴見辰吾)に向かってこんなことを話す。
「いやあー自分をおさえるってことはいいことだ。そうやって、少しずつ何かを諦めたり、我慢したりする訓練は、しなきゃいけない。そういうことをしねえと、人間、魂に力がこもらねえ。しょっ中、自分を甘やかして、好きなようにしてるんじゃ、肝心な時に、精神にあんた、力が入らねえ。高校生だから酒をのみません、女房がいるから他の女とは寝ません、立小便はしません、満員電車で屁はたれません。そんことは、みんな、くだらないことだ。守る値打ちはねえ。しかしな、そういう、小っちゃなことで、自分をおさえる訓練をしておくことは、絶対に必要だ。そういう訓練をしなかった奴は、肝心な時にも自分をおさえることが出来ねえ。これだけは、いっちゃあいけねえなんてことも、しゃべっちまう。しゃべらないまでも、顔に出ちまう。そういう、安っぽい人間になっちまう。毎日、自分をおさえる訓練をしなきゃいけない。自分をおさえる。我慢をする。すると、魂に力が貯えられてくる。映画を見たい。一本我慢する。二本我慢する。三本我慢する。四本目に、これだけは見ようと思う。見る。そりゃあんた、見る力がちがう。見たい映画全部見た奴とは、集中力が違うんだ。そういう力を貯えなきゃあいけない。好きなように、やりたいようにしてちゃあ、そういう力は、なくなっちまう。しかしだ。それにはあんた限度ってェものがある。見たい映画を三本我慢し四本我慢し六本七本八本我慢しているうちに、別に見たくなくなっちまう。なにが見たいんだか分からなくなっちまう。欲望が消えちまう。それじゃああんた、力を貯えることになりゃあしねえ。力を、生命力を、むしろつぶしちまうことになる。我慢をしすぎて、力をつぶしちゃあいけねえ。自分の中の、生きる力をな。生きるってことは、自分の中の、死んでいくものを、くいとめるってこったよ。気を許しちゃあ、すぐ魂も死んで行く。筋肉もほろんで行く。脳髄もおとろえる。なにかを感じる力、人の不幸に涙を流す、なんてェ能力もおとろえちまう。それを、あの手この手をつかって、くいとめることよ。それが生きるってことよ。」
山田太一の脚本に特徴的な長台詞、それも日常生活の中ではめったに耳にすることのない芝居がかった長台詞である。こういう長台詞を生半可な俳優が喋るとクサイものになってしまう。ドラマがシラケテしまう。しかし、山崎努は脚本家の期待に見事に応えてくれる。芝居がかった長台詞に生命を吹き込んで口から吐き出す。だから、山田太一だけでなく、伊丹十三も(映画『マルサの女』)、野島伸司も(TVドラマ『世紀末の詩』)、宮藤官九郎も(映画『GO』)、脚本家はみんな山崎努のために「山崎努的台詞」を書きたくなるのだ。で、本書だが、彼が舞台で『リア王』をやることが決まってから千秋楽までの187日間の日記である。・・・・後の3冊は簡単に。
(2)前田愛『近代文学の女たち』(岩波現代文庫)
近代日本の小説の中から、樋口一葉『にごりえ』、尾崎紅葉『金色夜叉』、森鴎外『雁』、有島武郎『ある女』、谷崎潤一郎『痴人の愛』、大岡昇平『武蔵野夫人』の6作品をとりあげて、それぞれの女主人公の意識と心理(したがってその変遷)を中心に論じたもの。朝日カルチャーセンターでの講義録なので読みやすい。
(3)小沢昭一・大倉徹也『小沢昭一的流行歌・昭和のこころ』(新潮文庫)
昭和の語り部、小沢昭一が昭和の流行歌と歌手についてゴシップをとりまぜて(というかゴシップ中心に)語った本。
(4)東海林さだお『某飲某食デパ地下絵日記』(文春文庫)
東海さだおが毎月一点、小田急百貨店の食品売り場(デパ地下)で選んだ商品に漫画と文章をつけて毎日新聞に掲載した小田急百貨店の広告(5年半分)を本にしたもの。
文具コーナーでボールペンとシャープペンが一緒になっているペン(350円)を購入。この種のペンではシャーボが有名だが、あれは高級品(1500円から3000円)。ペンというのは傘と同じでよくなくすので、気軽に使える安価なものの方がいい。しかし、たんなるシャープペンやボールペンはたくさんの種類が並んでいるのに、ボールペンとシャープペンの兼用タイプのものはあまり種類がない。需要が少ないためなのか、構造が複雑なので安く作れないためなのか。いまは三色ボールペンとか四色ボールペンが流行りだが、私は本に書き込みをするときはシャープペンを使う。コメントや傍線の意味を色で区別するのではなく、線や記号の種類で区別する。ボールペンで書き込みをすると消すことができないし(つねに適切な書き込みができるわけではないので)、印刷されている文字よりも書き込んだ線や文字の方が目立ってしまって、そのガツガツした感じが下品である。古本なども、鉛筆やシャープペンで書き込みがしてあるのは気にならないが、ボールペン(とくに赤のボールペン)で線が引いてあるものは、とても買う気がしない。
昼食は「ジョナサン」で食べる。しかし、入って、席に着いて、メニューを見て、後悔した。それほど食欲をそそられるものがなく、しかも高いのである。子どもが小さいとき、つまり西船橋の方に住んでいたとき、ときどき近所のファミレスに食事に行った。一種の家庭サービスであり、レジャーでもあったから、値段のことはさほど気にならなかったが、たんなる日常的行為として昼飯を一人で食べようとすると、値段の高さ(内容と比較しての相対的な高さ)が気になる。結局、一番安い日替定食(680円)を注文する。日替定食なので中身はわからなかったが、わざわざ質問してみる気にはならなかった。「ご飯の量は大盛にしますか」と聞かれたので「普通でいいです」と答える。「ドリンクバーはどうされますか」とも聞かれたが、「けっこうです」と答える。ほどなくして運ばれてきたのは、鮪のフライのタルタルソース添えと、鶏肉の竜田揚のチリソース掛けで、それにレタスのサラダ(フレンチドレッシング)。量が少ないが、味はまずまず。ご飯はウェイトレスの勧めどおり大盛にすべきだった。「これが普通盛か?」と思うほどの量だった。きっと女性、それもダイエット中の女性にとっての普通盛に違いない。驚いたのは、カップスープをドリンクバーへ自分でとりにいかなくてはならないということ。2杯目以降はそれでもよいと思うが、最初は料理と一緒にテーブルに運ばれてきてしかるべきではないのだろうか。それに冷たい飲み物とは違うのだから、子どもとかが運んでいる途中でこぼしたりしたら危ないだろう。さっさと食べ終えて、店を出る。
自宅に戻り、インターネット(えきねっと)で新幹線の指定席の予約をする。このシステムは初めて使ったが、簡単に予約ができた。購入した指定券はみどりの窓口が空いているときを見計らって受け取ればいい。
夜、TUTAYAで借りてきた『猟奇的な彼女』を観る。さんざん笑わせて、最後の方で、ヒロインの猟奇性の原因が明らかになるあたりはしんみりさせる。よく出来た娯楽作品である。ところで主人公の男の子は私の調査実習ゼミのM君によく似ている。
先日のH君に続いて、今日、御園中学の1年G組の同級生だったW君からメールが届く。やはり35年ぶりである。ホームページを運営していくことは苦労も多いが、こういうことがあるから、やっぱり続けていこうという気持ちになる。
8.9(土)
台風10号が日本列島を縦断している。早朝、ものすごい雨の音で目が覚める。そして書斎の窓(西側)を閉め忘れていることに気づいて飛び起きる。案の定、窓から雨が吹き込んでいて、机上の手前に置いてあった書類や手帳や雑誌が濡れている。窓と机の間が70センチほど空いている(窓に背中を向けて椅子に座る配置になっている)のと、カーテンが引いてあったのが不幸中の幸いだった。もし机上のパソコンが雨でビショ濡れだったらと考えると、ぞっとする。
この台風の中を調査実習ゼミのY君とI君は、インタビュー調査のために早朝の新幹線で福岡に向かっているはずだ。テレビを付けると新幹線にはほとんど影響が出ていないことがわかった。切符の手配が遅くなって、飛行機ではなく新幹線で行くことになったのは、これもまた不幸中の幸いだった(夜の8時頃、Y君から、最初の1件が無事終了したとの連絡があった。台風の過ぎ去った九州はよい天気だそうだ。2人は今夜のうちに熊本に移動し、明日、午前と午後、2件のインタビュー調査を行う)。
窓を開けることができないので、この夏初めて書斎のクーラーの電源を入れる。気温だけでなく湿度も下がって快適。一度使うと使い続けることになるだろう。昔、クーラーのなかった時代、学者や学生は避暑地に行って本を読み、原稿を書いた。お金に余裕の或る人々は避暑地に別荘をもった。「田園調布の自宅」と「軽井沢の別荘」は成功のモニュメントであった。別荘はおろかマイホームさえ持てなかった庶民は、会社が福利厚生の一環として所有する避暑地の保養所で2泊3日のささやかなバカンスを楽しんだ。中には「脱サラ」をして避暑地でペンションの経営を始める人たちもいた。いまリメイク版が放送されているTVドラマ『高原へいらっしゃい』、そのオリジナル版(山田太一脚本)が放送されたのは1976年である。リメイク版には近所のペンションのオーナーが登場しているが、当時はまだペンションブームは到来していなかった。避暑という行為、避暑地という空間、それは近代日本の歩みの一面を的確に映し出している。
7月分の携帯電話代の請求書が届く。いつもは無料通話の2000円分も使い切ることなく、基本料(3000円ちょっと)だけの請求なのだが、7月は調査実習の件で学生と頻繁に連絡をとったので、請求金額は8000円。何万円も使っている人も珍しくないのであろうが、私にとっては画期的な数字である。しかし、まぁ、これぐらい使えば、携帯電話をもった甲斐もあるというものだ。きっと8月もこれくらい使うだろう。いや、8月は地方にインタビュー調査に出かけている学生との連絡が増える分、1万円を越す可能性もある(私はよく知らないのだが、携帯電話というのは、普通の電話と同じく、距離が遠いほど通話料も高くなるんだよね? 違うの?)。←いま、auのホームページで確認したら、10円で何秒話せるかは加入しているコースで決まるのであって、通話の距離とは関係みたいだ。誤解していた(というのは誤解じゃないよね?)。
8.10(日)
台風一過の夏の青空が広がった、今夏、一番夏らしい一日。都立雪谷高校はPL学園に13-1の完敗を喫した。妻と娘はTVを見てるとドキドキするからと、居間から退散し、私一人だけがTV観戦をした。勝負は初回の攻防でほぼ決まったといっていい。あの大観衆の前で普段の野球をやるためには、何回か甲子園の土を踏む以外にはないだろう。
昼食の後、娘と自転車で「復活書房」に行く。娘はコミックのある1階へ、私は一般書のある2階へ。中島京子という新人作家の『FUTON』(講談社)という小説を購入(1600円→900円)。帯に「高橋源一郎氏絶賛の大型新人登場」とあったので手に取る気になった。やはり帯(腰巻とも言う)って大切だ。『FUTON』は田山花袋『蒲団』のパロディ。いかにも高橋源一郎好みの作品である。娘が2階にサンダルの音を響かせてやって来る。お目当てのコミックを買うことができたらしい。この後、CDを買いに行くというので、その前にここの中古CDコーナーを見てみることを勧める。しかし、お目当てのアーティストの1つ前のアルバムはあったが、最新アルバムはなかった。一緒に蒲田パリオ5階の、娘はCDショップへ、私は熊沢書店へ。娘がすぐにお目当ての最新アルバムを買ってサンダルの音を響かせて書店の方にやってきたので、買物というのは目的のもの以外のものを見て回るのが楽しいんだと言ってやったら、素直にCDショップに戻っていった。河原敏明『昭和天皇とその時代』(文春文庫)とエックナット・イーシュワット『スローライフでいこう』(早川書房)を購入。しばらくして娘が戻ってきて、前作のアルバムを試聴したら気に入ったのでさっきの中古CDを買いに戻ると言い出した。ところが、戻ってみると、わずか2、30分の間にそのアルバムは売れてしまっていた。悔しがる娘に、チャンスの女神に後ろ髪はないのだと教えてやった。うん、今日は娘に人生の先輩としていろいろと教訓を垂れることができた。
清水幾太郎の3冊目の自伝、『わが人生の断片』の中の「内灘へ」の章を改めて読み返す。清水は都合5回内灘へ足を運んでいる。いつ、誰と行き、どこで、誰と会い、何をしたのかを整理する。10月末〆切の原稿「清水幾太郎の内灘」(仮題)の準備にいよいよとりかかる。9月13・14・15日の内灘訪問までに草稿をまとめたい。コピーでしか持っていない清水らが編者の『基地の子』(光文社、1953年)という本をインターネット(日本の古本屋)で検索したら、8冊出てきたので、一番安かった「辰書房」に発注する(1000円)。ついでに『清水幾太郎著作集』を検索したら、「弘南堂書店」から12万円で出ていた。「田村書店」の13万円(まだ売れていない)よりも1万円安いが、右から左に買える額ではない。すでに書斎の書棚にあるものを、もうワンセット、研究室用として購入しようという贅沢な買物だけに、バブリーな気分で購入してはならない。10万円を切るかどうかが購入の目安だと思っている。
夜、007シリーズ最新作『ダイ・アナザー・デイ』をDVDで観る。さすがにピアーズ・ブロズナンも老けた。彼だけでなく、ジュディ・デンチ(ボンドの上司M)も、サマンサ・ボンド(Mの秘書マネーペニー)も、ジョン・クリース(秘密兵器開発者Q)も、みんな老けた。そろそろ総入替の時期だろう。しかし、私より1つ年上の、つまり同世代のブロズナンがボンド役を降りるということには一抹の淋しさがある。もうひとふんばりしてほしいような気も・・・・。ちなみにショーン・コネリーが『ネバー・セイ・ネバー・アゲイン』で最後のボンド役に挑んだのは53歳のときだった。私はその映画を伊勢崎町の映画館で婚約したばかりの妻と観たのだが、いい作品だった。
8.11(月)
終日、内灘闘争関連の資料を読む。途中で、今年の5月に内灘闘争50周年を記念して刊行された『証言 内灘闘争―運動に参加した人々の想』を入手できないかと、インターネットで「内灘闘争」を検索していたら、莇昭三という人が金沢の中村さんという人に依頼してネット上に流した「内灘闘争50周年記念への参加のお誘い」という文書をみつけ、そこには莇さんのメールアドレスが載っていたので、問い合せのメールを送った。メールを送った後で、「莇」は何と読むのだろうと考えながら、文書の中の「医療・福祉問題研究会、城北病院の莇です」という箇所を見ていて、私は「あっ!」と叫んでしまった。莇さんは医師のようである。内灘闘争、医師、・・・・もしや、あの医師ではないのか。私はあわてて清水幾太郎の『わが人生の断片』を書棚から取り出して、昨日読んでいた箇所をめくった。・・・・やっぱり、そうだ。そこには1957年2月15日の清水の日記からの引用が載っている。
「二月十五日(金) 宿の支払いを済ませ、内灘村へ行く。出島権二に合ひ、いろいろと話を聞く。次いで、診療所に莇医師を訪ふ。呆れ果て、疲れ果てて、金沢へ戻る。午後は八時二十分の汽車にて帰京。」
「莇」には「あざみ」と振り仮名が振ってある。自分の記憶力の悪さに呆れながら、「莇医師」の文字をシャープペンで丸く囲む。最低限の注釈を加えておくと、内灘村の内外の反対運動にもかかわらず、米軍の砲弾試射場が内灘村の浜辺に設置され、村議会と政府との間で試射場の無期限使用が決まったのが、1953年9月14日。それからおそよ3年半後、清水にとっては5度目の内灘行である。その2週間前、1957年1月31日をもって試射場はその役目を終え、内灘村に返還された。しかし、村民は諸手をあげてこれを祝うことができない。試射場の返還は補助金の停止や試射場で働いていた村民の失業を意味するからだ。3年半の間に試射場は村にとっての異物から村の一部になっていたのだ。村民は米軍の正式通告の前に「試射場を維持してくれ」との陳情を行った。UPはこれを「歴史上珍しい恥知らずな方向転換」と題して本国に打診し、日本のジャーナリズムもその尻馬に乗って村民を批判し、さらにかつて村民を反対運動に駆り立てた革新政党や進歩的文化人(もちろん清水はその一人、いや、代表である)を批判した。清水の5度目の内灘行はそういう時期のものだった。日記に出てくる「出島権二(ごんじ)」は反対運動のリーダーだった人で、村の豆腐屋さん。清水は出島を一角の人物として信用している。それに対して、清水は莇医師に対しては「呆れ果て」ている。それはなぜなのか。5度目の内灘行から18年後に書かれた自伝で、そのときのことは次のように語られている。
「私たちは診療所を訪れた。村の人たちによると、この医師は共産党員であるという。彼は、三年半前に終わった基地反対闘争を回顧しながら、あれは全く私たちの誤謬でした、と言い始めた。あれは極左冒険主義でした。私たちは謙虚な態度で村民に奉仕すべきで、あの闘争についていは、心から村民に詫びるべきです・・・・。『私たち』の中には、明らかに、この私も含まれているらしい。詫びたいのなら、大いに詫びたらよいが、私は詫びたいとは思わない。『誤謬』や『極左冒険主義』を認めたい人間は、大いに認めたらよいが、私はそんなものを認める義理はない。・・・・内灘村が三年半前の内灘村でないように、共産党員も、三年半前の共産党員ではない。有名な六全協(昭和三十年七月)で、彼らは謂わゆる極左冒険主義を捨て、ソフトなニコニコ戦術に転じ、それからは、以前の自分たちの行動を、まるで敵の行動であるかのように非難している。自己反省や自己批判は大変に結構である。しかし、反省や批判の度が過ぎたのか、間もなく、彼らは自分たちの過去を忘れたような顔をして、自分たちの指導部の決定した戦術―ニコニコ戦術―より少しでも強い戦術に出る集団や組織に出会うと、見境もなく、これを極左冒険主義やトロキストと罵って、これを本当の敵以上の敵として扱うようになった。私たちが昭和三十五年の安保闘争で見たのは、そこから生まれるグロテスクな光景であった。」
私がメールを出したのは、その莇医師だったのだ。いま、莇さんはおいくつなのであろう。当時、すでに医師であったわけだから、若くても30歳前後であったろう。ということは、いまは80歳前後になられている計算になる。「城北病院」をインターネットで検索したら、驚いたことに現役の内科医で、週に3日(月・火・水)外来を担当されていることがわかった。1989年に刊行された『内灘闘争資料集』を見返したら、その呼びかけ人の中に莇さんの名前があり、しかも、「内灘試射場反対運動の覚え書き」という文章まで寄稿されていた。さっそくその文章を読む。闘争時の内灘村の内部の権力構造が明晰に分析されていて、参考になった。
夜、莇さんから返信のメールが届く。貴方の内灘闘争との関わりはわかりませんが、本がご入用ならお送りします。送付先を教えてください、ところで、貴方は以前、中国の杭州への旅行でご一緒した方ですか、とあった。私は身が縮む思いで、このようなことで莇様のお手を煩わせて申し訳ありません、私は内灘闘争の翌年に生まれた人間で、内灘闘争のことはずっと後になって本で知りました、早稲田大学の文学部で社会学を講じており、戦後の平和運動や社会運動や知識人論に関心があります、莇様とは面識はございません、とメールを返した。「清水幾太郎論」と書こうとして、やめて、「知識人論」とぼやかした。彼の名前は出さない方がよいだろうと判断したのである。清水はあの時の莇さんに呆れ果てたわけだが、莇さんは莇さんでその後の清水に呆れ果てたであろうから。
8.12(火)
研究室に内灘町の図書館の方から電話がかかって来る。少し前に、こちらから図書館に内灘闘争関連の資料の存在を確認するメールを出し、あるとの返事を得たので、9月13日(土)と14日(日)に伺わせていただきますのでよろしくお願いしますと再びメールを出しておいたのだが、実は、内灘闘争関連の資料は保管庫に入っていて、もちろん学芸員に申し出てもらえればお見せできるのだが、あいにくとその両日は一人しかいない学芸員の休みの日で、せっかく来ていただいても資料をお見せできないという電話だった(ちなみに電話をよこされたのはその学芸員の方で、資料目録をコピーして送って下さることになった)。あれ、まあ、しかたない、内灘行はまた別の日(平日)にしよう。ホテルと帰りの飛行機の予約をキャンセルする(往きは、夜行バスか夜行列車か迷っていて、まだ予約はしていなかった)。
8.13(水)
天気予報では今日からまた天気が崩れることになっていたが、しのぎやすい一日。遅めの昼食の後、長い昼寝をして、夕方、散歩に出る。駅前の商店街を抜けて、御園中学校の隣の公園でしばらくたたずむ。公演の横を東急多摩川線・池上線の線路が走っていて、蒲田駅周辺の活気はあるがゴミゴミした空間を抜けて来ると、ここでポッカリと空が広がる。帰りに南天堂で古本3冊を購入。
(1)北野武『孤独』(ロッキング・オン、2002年)*500円
帯に「出生の秘密から、離婚の危機、青春時代、そして愛人や酒と暴力にまつわる数々のエピソードまでー北野武、55年目の告白」とある。最初の「家族を語る」の章を立ち読みして予想以上に真面目に語っていることに驚いた。
(2)別冊宝島226『職がない! 変転する雇用のゆくえ』(宝島社、1995年)*100円
バブル崩壊後の「大失業時代」の初期に出た本。テーマの1つが、バブル期に新卒で大企業に入ったいわゆる「バブリーくん」であったので購入。バブル崩壊がライフコースに与えた影響は、調査実習で行っているインタビュー調査の重要なテーマである。
(3)石黒敬章『ビックリ東京変遷案内』(平凡社、2003年)*900円
銀座4丁目、新宿、新橋停車場、両国橋、・・・・といった東京のさまざまなスポットの現在の写真と昔の写真・絵葉書を並べただけの本だが、それで十分に面白い。高層の建物がなかったから、昔の東京は空が広々としている。
深夜、雨になる。
8.14(木)
冷たい雨の降る一日。郵便をポストに投函しに出たついでに駅まで足を延ばし「有隣堂」をのぞく。武市三郎『武市流力戦筋違い角の極意』(毎日コミュニケーションズ)を買って、さっそく同じフロアーの喫茶店で読む。将棋に「筋違い角」という破天荒な戦法があって、武市六段はその使い手として有名である。1年ほど前、大平武洋新4段の昇段記念パーティーでお会いしたとき(そのときの私は大平4段の後援会長ということになっていた)、「私は武市さんの将棋のファンです」と告白しておいた。
今月の『文藝春秋』に「証言『日本の黄金時代1964‐74』という特集が載っている。東京オリンピックから田中内閣総辞職までの高度成長後半期(爛熟期)で一番印象に残っている出来事は何かを各界の著名人1000人にアンケート調査(有効回答332)した結果、ベスト10は以下の通り。
第1位 三島由紀夫割腹自殺(1970.11.25)
第2位 東大安田講堂陥落(1969.1.18)
第3位 東京オリンピック(1964.10.10)
〃 アポロ11号月面着陸(1969.7.20)
〃 連合赤軍あさま山荘事件(1972.2.19)
第6位 大阪万博(1970.3.14)
第7位 東海道新幹線開通(1964.10.1)
第8位 ドル・ショック(1971.8.16)
第9位 田中角栄内閣発足(1972.7.6)
〃 石油ショック(1973.11.2)
三島由紀夫割腹自殺が第1位というのは私には意外だったが、著名人の大部分は私よりも年長の世代で、しかもインテリが多いせいだろう。当時、私は高校1年生で、漢文の時間に先生が息せき切って教室に入ってきて、「いま、三島由紀夫が市谷の自衛隊本部に立てこもって、バルコニーから演説をしている!」と興奮した様子で話していたのを覚えている。しかし、私は三島の小説は読んだことがなかった(読んでみたいとも思わなかった)ので、目立ちたがり屋の作家がおかしなことをやらかしたという感想しかもたなかった。私が好きだった作家は、三島とは対極にある(と私には思えた)志賀直哉だった。その志賀が88歳で亡くなったのは三島の死の翌年、1971年10月21日のことだった。その日、校舎の屋上でぼんやりしている私に級友のYが「どうしたんだ?」と聞いたので、「志賀直哉が死んだんだ」と答えた。そのときYがどんな顔をしたかは覚えていない。ベスト10にあげられている出来事の中で、私が一番印象に残っているのはアポロ11号である。ただし、月面に着陸した瞬間ではなく、月に向かって地球の軌道を離れた瞬間が一番感動した。もうこれで後戻りはできない、もし月の軌道にうまく乗ることができなかったら、彼らは暗黒の宇宙の彼方に消えてしまうのだ、そう思うとひどく悲壮な気分になったことを覚えている。あれから30年以上が経って、すでに21世紀に入っているのに、月以外の天体に人類が到達できていないなんて、そのときは思ってもみなかった。