フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2003年9月(前半)

2003-09-14 23:59:59 | Weblog

9.1(月)

 3年前に一文の社会学専修を卒業し、テレビ番組の制作会社に勤めているHさんから「あくび通信Hawaii1号」と題されたメールが届く。「あくび通信」は彼女が海外に出かけたときの定番で、現地での見聞をレポート風にまとめて、リアルタイムで送信してくる(配信先リストの中に卒論の指導教員であった私のメールアドレスも登録されているのである)。今回のハワイ行は、初めて海外で開催される「ウチナーンチュ会議」という沖縄県人会の会合に出席するのが目的。しかし彼女は京都の出身である。その彼女がなぜ「ウチナーンチュ会議」に出席するのかというと、彼女が卒論研究で沖縄の竹富島にフィールドワークに行ったとき、泊まった民宿で親しくなった民俗学者のご夫婦の奥さんのご専門が「ハワイ移民」で、「今度ハワイでウチナーンチュ会議あるから、一緒にこーへん?」と関西弁で誘って頂いたのである。好奇心旺盛なところと、他人とすぐに打ち解ける性格は、彼女の持ち味である。

フィールドワークの帰りに立ち寄った沖縄県立博物館で「ハワイ移民100周年特別展」が開かれていたことも彼女の好奇心を刺激したらしい。いま沖縄県立博物館のホームページを開いて3年前のこの催しの案内に目を通したのだが、沖縄からの最初の移民30人がハワイに上陸したのは1900年1月8日だそうだ。日本からの最初のハワイ移民は1885年だったから、それから15年遅れての移民開始ということになる。小学館の『決定版20世紀年表』を見ると、1900年の前後というのは、日本人の移民先がハワイや北米から中南米へ転換する時期だったことがわかる。「第1回ペルー移民790人が横浜を出航」(1899年2月27日)。「第1回メキシコ移民83人が横浜を出航」(1901年11月16日)。「第1回ブラジル移民781人が神戸を出航」(1908年4月28日)。それと表裏をなすように、「サンフランシスコで日本人学童の排斥事件が起きる」(1906年4月1日)、「米国務長官、駐米大使青木周蔵に対し、日米相互移民禁止条約の締結を提議」(1906年12月28日)、「日本人労働者200人がサンフランシスコで上陸拒否される」(1907年1月22日)、「外務省、移民会社各社に対してハワイ移民の停止を通告」(1908年1月25日)など、アメリカへの移民は日に日に厳しい状況になっていった。日清・日露の戦争に勝利したことで、日本という国家、日本人という民族が、欧米人にとって目障りなものとして認識されるようになったということである。そういう時期のハワイ移民であったから、彼らの経験した苦難は想像するにあまりある。Hさんが訪れた「日本文化センター」でガイドをしている日系二世の吉武茂幸さん(81歳)の話。「ポルトガル人などが、さとうきびプランテーションの監督を務め、少しでも休むとムチを打たれました。ひとりひとりに番号札が付けられ、名前を呼ばれることはありませんでした。まるで奴隷のように扱われる日々が続いたのです。」 「日本文化センター」のホームページを開いたら、移民一世たちが座右の銘を刻んだ石柱の写真があって、その1本に「仕方がない」と刻まれていた。日本人の伝統的な心性を目の当たりにした気がした。

 

9.2(火)

 前期、私の調査実習の一員で、後期からアメリカのシラキュース大学に留学したAさんからメールが届く。シラキュースはニューヨークから車で4、5時間ほどのところ(ニューヨーク州の中央付近)にある町で、1年を通して曇りの日が多く、冬はとても寒い(零下20度!)らしい(「シラキュース大学日本青年会」のホームページにそう書いてある)。事実、Aさんからのメールによると、すでに屋外ではトレーナーが必要だという。先週から授業が始まったのだが、社会学の授業は先生が早口でまくしたてるので全然理解できず、泣きたくなるという。彼女に限らず、留学をした人たちは最初は必ず、一体自分は何をしにここに来たのかと、泣きたい気持ちなるものである。Aさんもいま直面している最初の坂道を乗り越えて、シラキュースの寒い冬を暖かなハートで迎えてほしい。

 有隣堂と栄松堂を梯子して以下の本を購入。

 (1)柳美里『交換日記』(新潮社)

 (2)柳美里『石に泳ぐ魚』(新潮社)

新刊は(1)。彼女の幻の処女作『石に泳ぐ魚』の出版差し止め訴訟の最高裁判決が出たのは昨年の9月24日で、大方の予想通り彼女の敗訴となったが、その前後の日記は非常に興味深い。(2)は改訂版。原告は改訂版についても出版差し止め請求をしたが、それについては一審で棄却されている。

 (3)多胡吉郎『我輩はロンドンである』(文藝春秋)

NHKのディレクターがロンドン勤めをしていたときの漱石をめぐるエッセー。漱石本と春樹本は腐るほど出ているが、この本はこれみよがしの薀蓄や独りよがりの思い付きを語ったりしないところが美徳である。文章も味わいがある。

 (4)『ブルーガイドニッポン29 大阪』(実業之日本社)

週末に学会で大阪に行く。大阪は初めてなので(!)、ガイドブックを買おうとあれこれ見たのだが、いまのガイドブックは食べ物のことしか書いてない。いつからこんな情けないことになってしまったのだろう。結局、街の雰囲気が読んでいて一番伝わってくる本書を購入。ガイドブックの老舗だけのことはある。梅田茶屋町に「阪急古書のまち」という古書店街があることがわかったので、ぜひ行ってみようと思う。

 (5)深浦康一『最前線物語』(浅川書店)

 (6)近藤正和『新ゴキゲン中飛車』(日本将棋連盟)

 どちらも将棋の定跡の解説書。大阪の宿は天王寺に取ったのだが、近くにジャンジャン横丁があって、そこには有名な将棋会所「三桂クラブ」がある。最近はコンピューター相手の将棋しか指していないので、ひさしぶりに人間相手の将棋を指してみようか。私はいまでこそ「将棋の強い社会学者」だが、学生の頃は「社会学に詳しい将棋指し」であった。

 

9.3(水)

 夕方、研究室を出ようとしていたとき、突然、雷を伴った激しい雨が降ってきた。空が光ってから、雷鳴が轟くまでの時間がどんどん短くなっていき、ついに同時になった。いま、雷雲の真下にいるらしい。さすがにこういうときに傘を差してスロープを下るのはやめたほうがよかろうと、31号館の下のベンチに座ってしばらく雨をながめ、雷の音を聞いていた。今日は暑い一日だったが、明日からは涼しくなるという。短かった夏の終わりを告げる雷雨のような気がした。昇降機しづかに雷の夜を昇る(三鬼)。

 

9.4(木)

 『高原へいらっしゃい』の最終回。やはり一話削除した影響だろう、展開が速すぎる。本当は「八ヶ岳高原ホテル」が売り払われ従業員が離散していくのに一話、ホテルが買い戻され従業員が再結集するのに一話、という構成であったはずである。ちょうど『Dr.コトー診療所』が、コトー先生が診療所を辞めて東京に帰っていくのに一話(今週)、コトー先生が再び島に戻ってくるのに一話(来週の最終回)、という構成であるように(最終回はそうなるに決まっている)。下降と上昇を一話の中に詰め込むとどうしても話がお手軽になってしまう。

明日から大阪に行き、8日に帰京の予定(フィールドノートの更新も8日までありません)。

 

9.5(金)

 東京発午前10時53分の「のぞみ11号」に乗り、午後1時26分に新大阪に到着。初めての大阪である。ホームのアナウンスも、駅構内の土産物屋の売子の声も、標準語である。しかし、地下鉄御堂筋線のホームにエスカレーターで上がってくる人々を観察したら、かねて聞いていたとおり、左側を開けている。大阪に来たことを実感する。何の変哲もない駅弁で昼食を済ますのではなく、大阪に着いてから何か食べようと、車内では何も食べずに我慢していたので、腹ペコである。難波(なんば)の「自由軒」をめざす。ところが地下鉄を降りて地表に出ると方向感覚が麻痺している。しかも陽射が厳しい。すでに午後2時である。空腹と疲労で「自由軒」は諦めて、第2候補の「末広軒」に目標を切り替えたところ、こちらはすぐに見つかる。明治30年から続く洋食屋の老舗でハヤシライス(700円)が美味しいという話だ。地下の小さな店で、テーブル席は3組の客で埋まっていたので、カウンター席に座る。カウンターの中には老人と呼んでもよい男性が2人と若い男性が1人いた。若い男性が注文をとりに来たので「ハヤシライスを!」と快活に注文する(初めての店ではあるが臆してはいけない)。するとカウンターの中の老人の一人が、よくぞハヤシライスを注文してくださったという感じで、「おおきに!」と大きな声で言った。よかった、気難しいオヤジじゃなくて。待つこと20分、ハヤシライスが運ばれてきた。あれ? ご飯が少ない。これではとても足りない。やや気落ちしながら最初の一匙を口に運ぶ。う、うまい! 腹ペコであることを差し引いても、素晴らしく美味い。デミグラスソースが実にマイルドだ。きっと、いろいろなものを入れて、じっくりと何日もかけて煮込んだものに違いない。最後の一匙まで慈しむように平らげる。「末広軒」を出て、再度「自由軒」をめざす。名物のカレーライスを食べるためである。私はとくに大食いというわけではないが、家でカレーライスやハヤシライスを食べるときは、大抵、お代わりをする(どこの家もそうだよね?)。「末広軒」のハヤシライスで人心地着いたせいで、方向感覚も回復し、「自由軒」は今度はすぐに見つかる。予想していた通りの大衆食堂である。織田作之助が愛した店である。名物のカレーはルーとごはんが混ざっていて(ドライではなくウェットまま)、それがカルデラ火山のような形態で皿に盛られ、真ん中の窪んだ部分に生卵が落とされている。私の隣のおじさんは生卵をカレー(とライス)に混ぜずに食べていたが、私はスプーンで全体をグチャグチャとかき混ぜて食べた。多分、この食べ方が正しいと思う。というのもカレーがかなり辛く、味が尖がっている感じなので、生卵とからめることでほどよくマイルドになるからだ。量は、やはり大衆食堂だけあって、十分だ。さすがにハヤシライスを一皿食べた後だけにお腹一杯になった。腹ごなしに商店街をブラブラ歩く。金曜の午後だからか、とても活気がある。大阪的活気だ。吉本興業の牙城、「なんばグランド花月」では本日2回目の公演が始まろうとしていた。プログラムを見たらトリはオール阪神巨人だった。見てみたい気もしたが、4000円はちょっと高い。

 天王寺東映ホテルには午後4時頃チェックイン。シャワーを浴び、一休みして、散歩に出る。天王寺公園を横切って通天閣まで歩く。ミナミの下町というのだろうか、東京で言えば浅草に雰囲気が似ているが、浅草をもっと落ちぶれた感じ、時代の流れに取り残された感じにすると通天閣界隈になる。入場料600円を払って高さ91メートルの展望台に昇る。観光客はそこそこいるものの、喫茶店は閉鎖されていて、斜陽産業であることは歴然としている。売店で壜入りのオレンジジュースを買ったとき、壜底に果汁が沈殿していて、おばさんが一生懸命振ってから栓を抜いて私に渡してくれたのも物悲しかった。通天閣を降りて、ジャンジャン横丁と呼ばれる通りを歩く。串かつ、寿司などの食物屋が軒を並べる中に、目指す「三桂クラブ」はあった。たくさんの客が将棋を指し、碁を打っている。それを通行人が立ち止まって硝子越しにのぞきこんでいる。昭和30年代の風景のようであった。もちろんいまでも将棋・碁会クラブはあるが、繁華街では場所代の安いビルの上の階にあるのが普通で、市井の人々の目に触れることはなくなってしまった。私は通りから硝子越しにしばらく観察をした。チェスクロックは使われていない。つまり考慮時間は無制限(=良識の範囲内)ということだ。手合いカードもない。つまり一局終えるごとに対戦相手が変わるのではなく同じ相手と続けて指すということだ。どちらも私が慣れ親しんでいるやり方ではないが、郷に入らば郷に従えである。店内に入ると、席主が「どのくらい指しはりますか?」と尋ねた。「二段くらい」と答える。私は日本将棋連盟の三段の免状を持っており、町道場では四段で指していた。しかし、ここ数年、将棋から遠ざかっていることを考慮して控えめに答えた。対局相手に指定されたのはここの常連の一人とおぼしきおじさんであった。駒を並べながら、ふと、壁に掛けられた会員の段位を見て驚いた。有段者が少ないのである。これはここのクラブのレベルが低いことを意味するのではなく、逆に高いことを意味する。つまり段位が辛いのである。ここは「王将」坂田三吉の地元である。東京では初段は腐るほどいるが、ここでは初段は並みの指し手ではない。私は謙遜で「二段」と自己申告したつもりだったのだが、実は、とんだ大口をたたいてしまったのだった。対局が始まる。指し手が進み、相手の棋力は私と同程度であることがわかった。私には相手の考えていることがわかり、相手も私の考えていることがわかる。必然的に局面は膠着状態になる。こうした場合、勝敗を分けるのは集中力の持続、すなわち勝負への執念である。数年ぶりで人間相手の将棋を指す私と、毎日ここで将棋を指している相手との差がここに出る。4局指して私の1勝3敗であった。6時から始めて4局目が終わったのが9時半。夕食はジャンジャン横丁の串かつ屋のつもりであったが、遅くなったので、屋台で買ったタコ焼きを食べながら夜道を帰る。しかしさすがにこれだけではものたりないので、ホテルの近くの「すゑひろ」という大衆食堂でキツネうどんを食べ、コンビニで夜食用に鮭のおにぎりを1個買って帰る。

 

9.6(土)

 大阪市立大学での日本家族社会学会大会の一日目。午後のテーマセッション「戦後日本の社会変動」で他のメンバー2人と一緒に報告。私は司会も兼ねていたので、他の2人の報告原稿にも事前に目を通していたのだが、その中でK氏が日本の家族社会学の大御所であるM氏の学説を批判していることを知っていた。会場にはたぶんM氏もおられるであろう。M氏だけでなく、M氏の教え子や、M氏の世話になった人も大勢いるであろう。これは一波乱あるだろうと私は、不安半分、期待半分で当日を迎えた。心配したとおりK氏があちらこちらから集中砲火を浴びることになった。K氏はM氏という超弩級の戦艦を相手に戦ったのではなく、戦艦とそれを取り囲む艦隊を相手に戦ったのである。夜の懇親会の会場で、何人かの研究者が私のところにやってきて、自分はK氏の見解を支持しますと言った。だったら質疑応答のときに発言してくれればよかったのにと私は言ったが、それが無理な注文であることも承知していた。学会とはつまるところ社交の場なのである。

 

9.7(日)

 大会二日目。午前のテーマセッション「NFRJ98からの提言(2)」に出席。昼休み、弁当を食べながらNFRJ-S01のメンバーと第二次報告書の相談。午後のシンポジウム「現代社会における家族ならびに結婚の意味を問う」はテーマに魅力を感じないので失礼する。一旦、ホテルに戻り、ちょっと昼寝をしてから、着替えをして、天王寺公園の中にある大阪市立美術館に行く。行く途中の道に露天のカラオケ屋がたくさん出ていた。こんなものを見るのは初めてである。客は下層社会の人々である。用意された椅子とテーブルで一杯やりながら、自分の順番が来るのを待ち、路上のマイクの前で歌うのである。曲が混じらないように屋台と屋台の間には一定の間隔が空いている。道を進むにつれて歌い手と曲が次々に変わっていくのである。美術館はそれほど期待せずに行ったのだがとてもよかった。よく映画はビデオでなく映画館で観るべきだというが、美術品も本ではなく美術館で観るべきである。今回、そのことを強く感じたのは、墨絵の巻物と洛中洛外図を観たときである。横に長い墨絵の巻物は美術本には部分しか載っていないことがほとんどである(これは大和絵の巻物や屏風絵についても言える)。しかし、それでは巻物の面白さは伝わらない。右から左へ、深山から始まって海に出るまでの過程、春から始まって冬に至る過程、そういう空間的・時間的展開こそ巻物の面白さである。また、洛中洛外図のような大きな絵は美術本では縮小がきつくなり細部がわかりずらくなる。しかし洛中洛外図の面白さは細部にこそ宿る。ここでこんなことをしている人たちがいる、あそこであんなことをしている人たちがいる、と眺めて回る楽しみである。また、この美術館には印籠や根付のコレクションがあり、一つの部屋が全部そのために使われている。こんなにたくさんの印籠や根付を観たのは初めてである。閉館の時刻が近づいたので、美術館を出て、一昨日行ったジャンジャン横丁の「三桂クラブ」にまた顔を出す。今日の相手は一昨日の人よりも棋力は劣り、途中で難しい局面はあったものの、2戦2勝。その後、隣で観戦していた老人から対局を申し込まれる。この人はさらに棋力が劣り、4戦4勝。都合、本日の成績は6戦6勝。しかし相手が弱かったのでちょっと物足りない。夕食は天王寺の駅ビルの中にあるトンカツ屋でとる。同じビルに蒲田でもお馴染みの熊沢書店が入っていたのでのぞいてみる。東京には「東京人」という雑誌があるが、ここには「大阪人」という雑誌があるのを知ってびっくり。中島らも『牢屋でやせるダイエット』(青春出版社)を購入。

 

9.8(月)

 学会は昨日で終わり、今日は純粋な大阪散策の日。9時半ごろホテルをチェックアウト。とりあえず荷物を新大阪駅のコインロッカーに預けてから、市内に戻る。心斎橋から心斎橋筋(大阪で一番のアーケード街)を難波まで歩く。戎(えびす)橋には「危険ですから川に飛び込まないで下さい」という看板が立てられていた。いよいよ阪神優勝の日が近づいている。道頓堀通りの太左衛門橋のたもとにある有名な「大たこ」のタコ焼き(6個で300円)を賞味する。うん、確かにタコが大きい。「大たこ」の向かいの「角座」ではチャン・イーモウ監督の話題作『英雄(HERO)』を上映中で、見てみたい気もしたが、目指すは「なんばグランド花月」である。11時50分開演の1回目の公演に間に合うように30分前に着いたのだが、すでに指定席(4000円)は完売で、立ち見(2000円)しか残っていないというので見物は諦める。平日だからと高をくくっていたが、甘かった。前売り(3500円)を買っておくべきだった。さて、どうしようと歩いていると、「東宝敷島」で『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』がかかっていて、しかもちょうど初回の本編が始まるところだったので、数秒考えて、飛び込む。東京にいたらわざわざ映画館では観ない作品だが、旅先なので、こういう展開も悪くないと思った。作品の出来は、そうですね、75点くらいかな。女性本部長がもっとクレバーで、犯人たちももっとクレバーでないとね・・・・。ユースケ・サンタマリアのネゴシエーターは、WOWWOWドラマ『交渉人』の三上博史を観た後では冗談としか思えない。最初から、サスペンスではなく、コメディー&人情ものとして割り切って観ればいいのかもしれない。実際、笑えたし、しんみりもした。映画館を出たのが2時。古書店「天地書房」で矢作勝美『伝記と自伝の方法』(出版ニュース出版、1971年)と臼井吉見『残雪抄』(筑摩書房、1976年)を購入し、「551蓬莱」本店で豚マン2個(330円)を食べてから、心斎橋筋を戻る。来たときよりも人出がずぶん増えている。完全閉店セールをやっている鞄屋で36000円の正札の付いたイタリア製のビジネスバッグが10000円で売られていて、衝動買いしそうになったが、荷物になるので思いとどまる。讃岐うどんの専門店「川福」できつねうどん(650円)を食べてから、地下鉄で梅田まで行き、茶屋町の阪急電鉄の高架線下にある「阪急古書のまち」をのぞく。「天地書房」の女主人に尋ねたところ、大阪には神田や早稲田のような古書店街はなく、ここが唯一それらしい場所とのことだった。店の数は10はなく、しかも店ごとの専門が特化しているので、見て回るのにそれほど時間はかからなかった。結局、購入したのは、矢沢永一『大正期の文藝評論』(中公文庫、1989年、品切れ)一冊のみ。新幹線(午後5時53分新大阪発のぞみ24号)の発車時刻まであと1時間となったので、大阪見物はおしまいにして、新大阪駅に向かう。家族の土産には一口餃子(30個入り)と赤福(8個入り)を買う。車内での夕食用におにぎりを3個買って(いくら、たらこ、牛筋肉。その場で握ってくれる)、新幹線に乗ろうとしていたとき、妻から今日は何時に帰るのかとメールが入る。9時過ぎになるとメールを返したら、今日の夕食はビフテキなのにとまたメールが来た。あれ? 夕食は済ませてくると言っておかなかったかな・・・・。車内では隣の席が空いていたので、ノートパソコンを広げてずっとフィールドノートを書いていた。散歩と古本と映画と美術館と飲食、東京でしていることを大阪でもしたに過ぎないわけだが、唯一、ひさしぶりに人間相手の将棋を指したことが非東京的日常であった。蒲田に着いたのは9時ちょうど。迎えに来てくれた息子の自転車に荷物を載せて蒲田的商店街の雑踏の中を家に向かった。

 

9.9(火)

 私の卒論ゼミのOBで、いまは東大の大学院の博士課程で戦前の小店員の保護問題を研究しているT君が、昨日のフィールドノートを読んで、雑誌『大阪人』は『東京人』よりもずっと先輩格の雑誌で、『東京人』が1986年の創刊であるのに対して、『大阪人』は1947年創刊で、さらに前身の『大大阪』は1924年創刊であることをメールで教えてくれた。実は、T君は先々週、『大大阪』をほぼ全号所蔵している大阪府立中之島図書館に出向いて行って、終日目を通していたのである。「最近映画館が、商店の小僧が仕事をサボって映画を観られるように、専用の駐輪場を設置してけしからん」といったルポが載っているそうで、東京には『大大阪』に相当する雑誌はこの時期にはなく、都市社会事業の面では東京を大きくリードしていた当時の大阪の様子がよくわかる、とのことだった。・・・・なるほどねぇ。それにしても「戦前の小店員の保護問題」とはずいぶんと渋いテーマに取り組んでいるものだ。

 今夜は月と火星が大接近している。月は満月で、非常に明るいが、火星も負けずに赤く光っている。3階の子供部屋のベランダで眺めていたら、息子、娘、そして妻もベランダに出てきて、一家でお月見となった。

 

9.10(水)

 午前中からK氏と二人でNFRJ-S01(戦後日本の家族の歩み調査データ)のクリーニング作業。10月1日から日本家族社会学会員へのデータ(ver.2)の公開を行う予定(ご希望の方はまず日本家族社会学会に入会して下さい)。昼食は「五郎八」の揚げ茄子のみぞれおろし蕎麦とお稲荷さん、食後に葛切り。葛切りは唯一のデザートとして前からメニューにあることは知っていて、気になっていたのだが、K氏は私と同じく下戸なので、そろって注文してみた。上品な黒蜜の甘さがそば汁の後にはぴったりだった。クリーニング作業は、それほどの量ではなく、4時には終わった(ver.1の時点で時間をかけて徹底的にクリーニングをしたからである)。後はコードブックが出来上がれば公開できる。

 帰宅途中、有楽町のビッグカメラに寄って、『最強東大将棋6』を購入。帰宅して、さっそくPCにインストールして、試してみた。強さ自体の向上は実感できないが、レーティング戦のシステムが導入され、自分の棋力のレベルがコンピューターとの対戦を続けていくうちに数値化され、かつ変動するのが面白い。でも、やっぱり、人間相手の将棋の方が面白いね。

 

9.11(木)

 8月は冷夏だったが、9月はしっかりと残暑である。今日も暑い。どうだろう、8月はなかったことにして、これから夏休みが始まることにしらたら。一種のサマータイムみたいなものです。国民全員、「せーの」で、今日は9月11日ではなくて、8月11日ということにしちゃうと。そう決めちゃうと。そう思い込んじゃうと。反対の方、いますか?

『Dr.コトー診療所』の最終回。よかった。とくに時任三郎がよかった。もちろん吉岡秀隆もいい。柴咲コウもいい。泉谷しげるもいい。小林薫もいい。千石規子(つるばあさん役)もいい。富岡涼(子役)もいい。なんだか円谷幸吉の遺書みたいだが、みんなよろしゅうございました。しかし、やはり、一番いいのは時任三郎である。彼が息子と一緒に東京まで出かけて行って、病院の廊下で、コトー先生に島に戻ってきてくれと言う、あの場面、あれが今日のハイライトシーンであった。「みんなあんたに島に戻って来てほしいと思ってる」と言おうとして、やめて、「俺があんたに戻ってきてほしいんだ」と言い直す。そのとき息子が父親の顔を見上げて、「お父さん・・・・」と言う。つまり、このドラマは、よそ者であるコトー先生が島民たちにしだいに受け入れられていく物語なわけです。拒絶から受容へ。時任三郎はそのプロセスを体現しているわけです。彼は第1話から第10話まで一度も微笑まなかった。終始厳しい顔をしていた。とっておいたんです、最終回のために。彼の船でコトー先生が島に帰ってくる。歓喜する島民たち。しかしコトー先生は船酔いで吐き気を催している。その姿を見て初めてほほえむ時任。そのやんちゃ坊主のような笑顔。憎い演出です。ところで、一昨日、二文の卒論ゼミのときに、仙台放送(フジTV系列)の東京支局に勤めているMさんから聞いたのですが、視聴率が取れたら、『Dr.コトー診療所』は『北の国から』のようにスペシャルを制作する話があるそうです。20%を越えているわけだから、決まりだよね。楽しみだ。

 

9.12(金)

 午後、大学で『社会学年誌』45号の特集のための研究会。道場氏、入江氏、私の3人。インターネットサイト「日本の古本屋」の話題でひとしきり盛り上がる。古本屋を梯子しながら本を探す楽しさは何ものにも代えがたいが、特定の本を探している場合には、「日本の古本屋」は力強い助っ人である。なにしろ私に代わって全国の古本屋を瞬時に探して回って、結果を報告してくれるわけだから。もちろん「日本の古本屋」とはいっても、いまはまだ、一部の古本屋がそれぞれの店の在庫の一部をネット販売しているに過ぎない。もし、将来、日本中のすべての古本屋が、それぞれの店の在庫のすべてをネット販売するようになったら、それはまさに革命と呼ぶに相応しい事態であろう。

先月、「日本の古本屋」で購入した清水関連の本は以下の通り。

『生活の叡智』(実業之日本社、1942年)*1500円

『思想の展開』(河出書房、1942年)*3000円

『三つの生命』(鱒書房、1948年)*800円

『日本文化形態論』(弘文社、1950年)*1300円

『私の社会観』(創元社、1951年)*1000円

『基地の子』(光文社、1953年)*1000円

『社会学ノート』(河出文庫、1954年)*1500円

『日本が私をつくる』(光文社、1955年)*1000円

『女性のための人生論』上(河出新書、1956年)*1000円

『現代思想入門』(岩波書店、1969年)*1000円

清水はその81年の生涯に94冊の単著を出した(その他に33冊の訳書と38冊の編書がある)。すさまじい数である。売文業者(清水はこの言葉を好んだ)としての清水の活躍の舞台は雑誌、とくに『世界』や『中央公論』といった総合雑誌であった。雑誌に発表した論文が何本かたまるとそれを一冊にまとめて本にするということを続けていくうちにこれだけの数になったのである。『清水幾太郎著作集』全19巻(講談社、1992-93年)はその一部を収めるに過ぎない。それ故、以前から、古本屋で著作集未収録の本を見つけるたびに購入していたのであるが、「日本の古本屋」を使うようになってから、飛躍的に能率が上がった。今日、「日本の古本屋」をのぞいたら、『女性のための人生論』の下巻が、上巻を買ったのとは別の書店から出ていたので、心の中で「ラッキー!」と叫びながら、すぐに発注した。他に清水関連の本を4冊注文。

『学生論』(河出書房、1951年)*2500円

『人生と思想』(河出新書、1951年)*1000円

『日本の運命とともに』(河出書房、1953年)*2800円

『人間を考える』(文藝春秋、1970年)*1000円

『諸君』創刊号(文藝春秋、1969年)*1500円

ちなみに、『諸君!』は清水の最後のホームグラウンドとなった総合雑誌であり、爆弾論文と言われた「核の選択 日本よ国家たれ」は『諸君!』1980年7月号に掲載された。

 

9.13(土)

 宅配便で長谷正人さんから彼の編著『映画の政治学』(青弓社、2003年)が届く。昨年の『社会学年誌』43号の特集論文を核にして1冊の本にまとめたものである。とりあえず「はじめに」(いかにも長谷さんらしい文章だ)に目を通し、お礼のメールを送る。「特集のコーディネーターはかくあらねばならないと肝に銘じました」と。本書は「映画の社会学」ではなく「映画の政治学」である。編者曰く、「映画を政治的に語ること、映画をめぐる日本の言説空間に『政治』を導入すること。私たちが本書で企図していることは、この簡明な表現にほぼ尽きているといえよう」。いま、映画を「政治的」に語ることは流行っていない。それは政治的メッセージを含んだ映画が流行っていないということではなく(もちろんそれもある)、映画一般を「政治的」に語ることが時代遅れのようになってしまっているということである。たとえば、『千と千尋の神隠し』という大ヒットした映画ももっぱら「趣味的」ないし「オタク的」に語られている。今夏、大ヒットした『踊る大捜査線 THE MOVIE 2』も、それをちゃんと論じた文章にはまだお目にかかっていないが、たぶんそうなるだろう。長谷さんたちはそうした状況に一石を(7本の論稿から構成されているから「7石を」というべきか)投じようというわけだ。しかし、同時に、長谷さんたちの論稿は、取り上げている作品のもつ「魅惑」や「快楽」に徹底的にこだわっている。作品を冷徹な外科医のような手さばきで腑分けしてみせる、ある種のカルチュラル・スタディーズとの違いがそこにある。

「日本の古本屋」で清水幾太郎の本を4冊注文。

『科学社会史』(山雅房、1941年)*1500円

『思想の歴史8 近代合理主義の流れ』(平凡社、1965年)*500円

『思想の歴史10 ニーチェからサルトルへ』(平凡社、1969年)*1000円

『講座日本の将来5 余暇時代と人間』(潮出版、1969年)*1500円

「清水幾太郎」で検索して出てきた一覧表を見ながら何冊か入力ミスがあるのに気づく。「蟻書房」が出品している『現代思想入門』(平凡社、1959年)は、出版社が間違っている。平凡社ではなく岩波書店が正しい。「悠山社書店」が出品している『私の社会史』(創元文庫、1953年)は書名が間違っている。正しくは『私の社会観』。「あじさい堂書店」が出品している『昨日の夜』(文藝春秋、1977年)も書名が間違っている。正しくは『昨日の旅』。旅行記です。『昨日の夜』では、小川知子の、♪あなたがかんだ小指が痛い 昨日の夜の小指が痛い・・・・という歌(ゆうべの秘密)を連想してしまう。

*後記:いつもこのフィールドノートを見てくれている中学時代の同級生のW君からメールが届き、上記の歌詞は伊東ゆかり『小指の思い出』であると指摘される。そ、そうだった。『ゆうべの秘密』は、♪ゆうべのことはもう聞かないで、あなたにあげた私の秘密・・・・、というのだった。伊東ゆかりも、小川知子も、中学生のわれわれには色っぽい大人の女性であった。

 

9.14(日)

 朝、雲ひとつない青空が広がっていたが、だんだん雲が多くなり、夕方には雨がぱらついた。深夜、窓から入ってくる夜気がひんやりとしている。夏から秋への移り変わりの季節には、一日の中に夏と秋がある。

 ヨーカ堂の広告を見ていた妻が、「アクエリアスの2リットルボトルが半ダース880円よ」と言った。1本当たり146円はコンビニの半額である。我が家では私と息子がアクエリアスの愛飲者で(同じようでもポカリスエットは甘みが口に残るので好まない)、常に何本かストックがある(研究室の冷蔵庫の中にもある。)。さっそく妻と自転車に乗って出掛け、2箱購入。帰りに南天堂書店に寄って、大江健三郎『いかに木を殺すか』(文春文庫)と小林旭『さすらい』(新潮社)を購入。

 TVで世界柔道を見ていたら、田村亮子の出る女子48キロ級の決勝の前に、男子無差別級の決勝をやっていた。おかしいな、普通、男子無差別級決勝が大会の最後を飾るものではないのか・・・・。そうか、これは実況放送ではなくて、録画を流しているんじゃないかと気づき、インターネットを開いたら、男子無差別級は鈴木桂治が優勝し、女子48キロ級は田村が優勝したと速報が出ていた。おかげで全然ハラハラせずに決勝戦を見ることができた。ところで、スタジオの藤原紀香は「女子48キロ級決勝の前に男子無差別級の決勝をご覧下さい」というコメントを確か言っていたよな。つまり彼女は録画とわかっていてワーワー、キャーキャー、実況中継風の芝居をしていたわけだ。やれやれ。どおりで隣の吉田秀彦のテンションが低かったはずだ。