5.1(土)
初夏の高原のような日差しと風の一日を、コンビニにコピーを取りに行った以外は、自宅に籠もって過ごす。いろいろと連休中にやっておかなくてはならないことが山積しているのだ。そもそも、ゴールデンウィークにどこかに出かけるなんて、堅気の人間のすることです。平日の昼間に映画館で映画を観ているようなヤクザな人間が、堅気の方の真似なんかしちゃあいけません。家でじっとしていなくちゃ。
夜、中井貴一主演の映画『梟の城』(1999年)をTVで観る。織田信長に一族を滅ぼされた伊賀忍者の生き残りが、堺の豪商今井宗久(背後に徳川家康)から豊臣秀吉暗殺の依頼を受けて動くのだが、そこに裏切り者やら、甲賀忍者やら、家康に仕える服部半蔵やらがからんできて、人はいっぱい死ぬし、なんとなくヤクザ映画みたいな感じがした。まあ、でも、あれですね、最後は重蔵(中井貴一)と小萩(鶴田真由)は幸せに暮らしましたとさ・・・・となったから、それでよしとしましょう。私としては、誰がどうなろうと、小萩が、いや、鶴田真由がかわいそうなことにならなければ、それでいいのです。
5.2(日)
初秋の高原のような涼しさというか、ちょっと肌寒くさえある。窓を開けたまま寝ていた息子が鼻をグズグズしているので、近所の内科医院からもらって服用しないままでいた鼻水の薬と咳の薬を与える。
夕方、ちょっと散歩に出る。「モスバーガー」の前を通ったとき、ロースカツバーガー(320円)に激しく惹かれたが、「減量中、減量中・・・・」と呪文を唱えて、邪念を振り払う。「ラオックス」で電子辞書(カシオのXD-H9100)を購入。いま使っている電子辞書(ソニーのDD-IC2050)は百科事典(マイペディア)も入っていて重宝しているのだが、いかんせん画面が小さい。鞄に入れて持ち歩くにはこれでいいとして、書斎で机上に置いて使うには、もっと大きな画面のものがほしいと思っていた。カシオのXD-H9100は、英語辞書機能が大変充実していて、英文科に入学した娘にはピッタリだと思って入学祝いに買ってやったのだが、たまたま今日借りて自分でも使ってみて、使い勝手のよさを実感したので、自分用にも購入することにした。帰宅する前にスーパーに寄って、煎餅を買う。減量中、小腹が減ったときには煎餅が一番いい。それも草加煎餅のようにしっかりした煎餅がよい。「かっぱえびせん」のような軽いものはかえって食べ過ぎてしまい(ヤメラレナイ、トマラナイ)、ダメなのである。歯ごたえのある煎餅を一枚、熱いお茶でいただくと、腹持ちがいい。もちろん減量中なのだから、間食はしないに越したことはないのだが、空腹感から読書に必要な集中力が低下してしまっては、元も子もないのである。それにしても、このところ、夕食のなんと美味しいことか。
5.3(月)
郵便小包でメグ・ライアン主演の映画『恋人たちの予感』(1989年)のDVDが届く。Amazonのマーケットプレイスに出ていた中古品を購入したものである。これまで古本はインターネットでたくさん購入してきたが、中古DVDは初めてである。価格は1393円(別途送料340円)。安い。DVDはここ数年でどんどん価格が下がってきて、たとえば、この『恋人たちの予感』の場合、2001年6月18日発売のものは4179円、2002年2月8日発売のものは2625円、2004年6月25日発売予定のものは1821円で、それぞれ現在も流通している(Amazon参照)。もちろん映画の内容は同じである。であれば、近年発売の安価なものの方を購入する一手に決まっている。私も1821円の近日発売のものを予約購入しようと思ったのだが、側に「ユースド価格:1393円」という表示があったので、クリックしてみると、Kさんという方が出品しているもので、「一度見ただけで新品同様です」というコメントが書かれていた。送料と合わせても1733円で、来月発売の新品よりも82円安い。ならばこちらにしようと、購入を申し込んだところ、Amazonからの自動送信の注文確認メールがあってからほどなくして、出品者のKさん本人からお礼のメールが届いた。北海道の紋別にお住まいの方である。Kさんからのメールに対して、『恋人たちの予感』はメグ・ライアンとビリー・クリスタルの2人の会話(本当によく喋る)がとにかく楽しい映画なので、DVDが安く手に入り、コレクションに加えることができて嬉しいですと返信したところ、翌日、Kさんから発送を知らせるメールが届いて、同じロブ・ライナー監督の作品で、『恋人たちの予感』の後日談ともいえる『ストーリー・オブ・ラブ』(主演はブルース・ウィルスとミシェル・ファイファー、1999年)も出品していますので、もしよかったらと書いてあった。調べてみると、確かに、こちらは1050円とさらなる安値で出品されていたので、なかなか商売が上手だなと思いつつ、購入した。すると再びKさんからお礼のメールが届き、この映画をみて女性不振(ママ)にならないで下さいねと書かれていた。「女性不信」の誤りであろう。この映画を観たとたんに、女性のことが信じられなくなっても別に構わないが、女性から相手にしてもらえなくなるのは困る(まるで呪いのDVDではないか)。古本屋さんからインターネットで本を購入するときは、めったにメールで無駄話はしないが、素人の出品者が多いマーケットプレイスは街の広場でやっているフリーマーケットのような味わいがある。
5.4(火)
台風のような強風が一日中吹いていた。志賀直哉に「颱風」(昭和9年)という短編があって、その中の何でもない一場面が、こういう日には必ず思い出される。それはこんな場面だ。「学校へやつた子供等の事が少し心配になつた。それを云ひに、妻の部屋へと行くと、幼稚園を休ませた女の兒が一人、縁に坐つて『風、もつと吹け。もつと吹け』と負けずに唄つていた。」・・・・私は想像する。その女の子はおかっぱ頭をしていると思う。両足をブラブラさせていると思う。母親が作ってくれた白地に水玉模様のワンピースを着ていると思う。ここまでは確かだ(自信がある)。しかし、わからないのは、その子が一体どんな節回しで「風、もつと吹け。もつと吹け」と唄っていたのかということだ。私の知るかぎり、そのような歌詞の童謡や唱歌はない。藤井樹郎作詞の「風にきく」も、水谷まさる作詞の「小ちゃな風」も、巽聖歌作詞の「風」も、西条八十訳詩の「風」(クリスティナ・ロゼティ)も、台風のような激しい風を歌ったものではない。日本人が台風を正面から歌ったのはブルーハーツの「台風」(1993年のアルバム「STIC OUT」所収)が最初である(というのは、もちろん、たんなる思いつきです)。ということは、女の子は即興で「風、もつと吹け。もつと吹け」と唄っていたことになる。歌というよりは、叫びに近いものだったのかもしれない。もし、その女の子がいまも生きていたら、70代の半ばになっている。昭和2年生まれの私の母と同年配なのだ。
5.5(水)
われわれは洋画を映画館やレンタルビデオで観るときは、普通、「外国語の音声」+「日本語の字幕」という組み合わせで観ている。そういう組み合わせに馴れてしまっている。ところが、DVDで観るようになると、それ以外に、「外国語の音声」のみ、「外国語の音声」+「外国語の字幕」、「日本語の音声」のみ、といった選択もできる。お望みとあれば、「日本語の音声」+「英語の字幕」や、「日本語の音声」+「日本語の字幕」という組み合わせで観ることもできる(後者は日本語を勉強中の外国人向けだろうか)。聴覚障害者の身になって「外国語の字幕」のみや、「日本語の字幕」のみで観たりもできる。実際、私はいま、『恋人たちの予感』のDVDをそんなふうにして観ている。すでに一度観ている映画で、ストーリーを急いで追いかける必要はないので、1つのチャプター(本編は14のチャプターに分割されている)をいろいろな組み合わせで楽しんでから、次のチャプターに進んでいる。GW中の唯一の娯楽である。
そんなことをして、一体何が楽しいのかというと、いろいろな発見があるからである。発見といっても、日本語の字幕や吹き替えの仕事をしている方たちには、どれもあたりまえのことで、たんに私がこれまであまり深く考えたことがなかったというだけの話なのだが、そういう個人的発見ではあっても、発見というのは心躍るものである。
下の表は、『恋人たちの予感』の一場面(DVDではチャプター3)の英語字幕と日本語字幕と日本語音声を並記して比べたものである(英語音声は英語字幕とほとんど同じなので省略)。背景的説明を少ししておくと、シカゴの大学を卒業して車でニューヨークに向かうSally(メグ・ライアン)に、彼女の親友のAmandaが自分の恋人であるHarry(ビリー・クリスタル)をニューヨークまで一緒に乗せていってやって欲しいと頼んだことから、物語は始まる。車中で二人はいろいろと話をすることになるわけだが、この二人、ものの見方や考え方がまるで違う。水と油である。とくに男女関係については、「男と女の間には友情は成立しない」(なぜなら不可避的にセックスが介入するから)と考えるHarryに対して、Sallyは「セックス抜きの男女間の友情は成立する」と主張して一歩も引かない。表の会話は、そうした男女関係についての議論が始まる直前、2人がドライブインでの食事を終えて車に乗り込む場面での会話である。
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英語字幕 |
日本語字幕(戸田奈津子) |
日本語音声(武満真樹) |
S1 |
What? Do I have something on my face? |
何よ 何か付いてる? |
何 何か付いてる? |
H1 |
You’re a very attractive person. |
君はチャーミングだ |
君は実に魅力的だ |
S2 |
Thank you. |
ありがとう |
どうも |
H2 |
Amanda never said how attractive you were. |
アマンダは言わなかった |
アマンダから聞いてなかった |
S3 |
Maybe she doesn’t think I’m attractive. |
そう思ってないのよ |
彼女はそう思ってないのよ |
H3 |
I don’t think it’s a matter of opinion. Empirically, you are attractive. |
誰が見たって君はチャーミングだ |
誰が見たって魅力的な人間だよ |
S4 |
Amanda is my friend. |
アマンダは私の親友よ |
アマンダは私の親友よ |
H4 |
So? |
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だから? |
S5 |
So you’re going with her. |
あなたは彼女の恋人よ |
あなたは親友の恋人よ |
H5 |
So? |
|
だから? |
S6 |
So you’re coming on to me. |
私をクドく気? |
それなのに私をクドく気? |
H6 |
No, I wasn’t. What? Can’t a man say woman is attractive without it being a come-on? All right, all right. Let’s just say, just for the sake of argument, that it was a come-on. What do you want me to do about it? I take it back, okay? (I take it back.) |
違うよ
「チャーミングだ」と褒めるとクドきか
よし 一つ折れて君をクドいたと仮定しよう
その場合僕はどうする 取り消すよ いいだろ? |
冗談じゃない
「魅力的だ」と褒めるとクドいたことになるのかい? よしわかった 下らない議論を避けるために百歩譲って僕が君をクドいたと仮定しよう
そして前言を撤回する それでいいだろう 前言撤回だ |
S7 |
You can’t take it back. |
取り消せないわ |
そんなの無理だわ |
H7 |
Why not? |
|
どうして? |
S8 |
Because it’s already out there. |
耳は聞いたわ |
もう既成の事実ですもの |
H8 |
Geez, what are we supposed to do? Call the cops. It’s already out there. |
耳は聞いたわか 大変だ どうしよう! |
既成の事実 こりゃ大変だ 警察に電話しなきゃ |
S9 |
Just let it lie. (okay?) |
いいわ 無視しましょう いいわね |
茶化さないで この件は無視するわ いいわね |
H9 |
Great. Let it lie. That’s my policy. That’s what I already say; Let it lie. Wanna spend the night in a motel? See what I did? I didn’t let it lie. I said I would, and then I didn’t. I went the other way.
What? |
いいとも 無視しよう
何でも無視すればいい どう? モーテルに泊まらない?
すまない無視してくれ |
ようし 無視しよう 大賛成だ 僕の哲学だ 何でも無視 モーテルで一泊しないかい?
前言撤回の方を無視しよう 撤回の撤回さ
何だい? |
S10 |
We are just going to be friends, okay? |
私達はただの友達よ |
あなたと私は永遠にただのお友達 |
H10 |
Great. Friends. It’s the best thing. |
友達か 最高だな |
そりゃあいい
それが一番さ |
S=Sally, H=Harry
ふう~、表を作るだけでけっこう時間がかかったな(映画ではわずか1分30秒の場面なのに・・・・)。
Harryに2カ所(H6とH9)のちょっと長めの台詞がある他は、シンプルな会話のやりとりである。けれど、2人とも(とくにHarryは)早口な上に、口語的な表現が多いために、英語音声だけではフォローできない(もちろん私のヒアリング能力の問題もある)。
それで、まず、「英語音声」+「英語字幕」の組み合わせで観たところ、「英語音声」と「英語字幕」は同じではないことに気づいた。映画やTVドラマは、まず脚本があって、俳優は脚本に書かれた台詞を喋り、字幕は台詞そのままであるとすれば、両者は一致するはずなのだが(私はそう思いこんでいた)、実際はそうではないのである。たとえば、H6の最後の(I take it back.)や、S9の最後の(okay?)は字幕には表示されていなかった(表示するまでもないからか。しかし、それなら、ほかにもたくさんあると思うが・・・・)。また、H9の台詞をHarryが喋っている間、Sallyは「やめてちょうだい」という感じで、2度ほど、Harry, Harryと相手の名前を呼んでいるが、これも字幕には表示されていない(字幕がかぶるからだろう。互いの発話のかぶりというのは日常生活ではよくあることで、エスノメソドロジーの会話分析では、その場合の表記法が決まっている)。
次に、「英語音声」+「日本語字幕」という一番ポピュラーな組み合わせで観た。これは誰でも気づいていることだが、「日本語字幕」はオリジナルの台詞よりも情報量が少ない。S1からS3までのワン・センテンスの台詞では情報量に差はないが、H3のようにツー・センテンスの台詞になると、最初のセンテンス(「見解の問題じゃない」とでも訳すのだろうか)が無視されている。H9に至っては、後半がまったく訳されず、「すまない無視してくれ」というオリジナルにはない台詞でまとめられてしまっている。字幕を読んでいる間は、目が映像から離れる。その非映画的時間をできるだけ短縮するためには字幕は簡潔な方がいいのだろう。それはわかる。だが、量の問題はよいとして、せっかくの面白い表現が無視されてしまうのはもったいないと思う。H9のCall the cops. It’s already out there. がまさにそれだ。「警察を呼ぼう。ほら、あそこに、あんなものがあります、って」(映像ではHarryが近くの地面を指し示しながら喋っている)。It’s already out there. はS8の字幕では「耳は聞いたわ」と訳されていて、It はHarryがSallyをクドいたときの言葉の意味に解されているが、H9の台詞回しから明らかなように、itは言葉(音声)ではなく、HarryがSallyをクドいたという事実を指すのであって、その事実が、ここでは、あたかも社会学者デュルケイムが言うところの「社会的事実」のように、目で見て、手でさわれるモノとして、個人の外部(out)に個人の意識に先行して(already)客観的に存在している(だから取り消せない)のである。そういうSallyの認識論を、Harryが「警察を呼ぼう。ほら、あそこに、あんなものがあります、って」と茶化しているところが面白いのだ。日本語字幕ではこの面白さを味わうことができない。
最後に、普段はありえないが、「日本語音声」+「日本語字幕」という組み合わせで観た(暇だなあ)。それで気づいたのだが、「日本語音声」は情報量の点ではオリジナルと「日本語字幕」の中間にある。それまで私は「日本語字幕」を声に出して読めば「日本語音声」になるのだと漠然と考えていた。しかし、そうではなかった。「日本語字幕」の場合は、目が映像から離れる時間が長くならないようにすることが絶対条件だったが、「日本語音声」の場合は、俳優の口の動きに合わせることが絶対条件である。自分で試してみてわかったのだが、ほとんどの場合、「日本語字幕」をそのまま吹き替えの台詞に使ったのでは、俳優の口がまだ動いているのに台詞が終わってしまう(無音の口パク状態が生じる)のである。また、「日本語字幕」では、H4とH5のSo? や、H9のWhy not? を訳さなくても、簡単な言葉なので、観客はオリジナルの音声を耳で拾って字幕の空白を自分で埋めてくれる。しかし、吹き替えの場合は、俳優の口が動いているときの音声の空白は不自然なので、簡単な言葉ではあっても、きちんと埋めなくてはならない。もしかしたら、字幕翻訳よりも吹き替え翻訳の方が仕事としては大変なのではないだろうか(世間の注目度は逆だけれど)。ちなみに、「日本語字幕」では「耳は聞いたわ」と訳されていたH8は、「日本語音声」では「既成の事実ですもの」と訳されている。堅い言い回しだが、目で見て、手でさわれるモノというニュアンスはこちらの方がずっとよく出ていて、後の「警察に電話しなきゃ」というHarryの茶化しが生きてくる。
調子に乗ってずいぶん長々と書いてしまった。「フィールドノート」を私物化してはいけない・・・・って、元々私物だからいいか。読みたくない人は読まなければいいわけだしね。Just let it lie ! さて、今日で連休も終わった。お仕事、お仕事。
5.6(木)
馬場下の交差点から早稲田通りを高田馬場方面に向かってちょっと上がったところに、「メイプルブックス」という古本屋が新規開店した。2ヶ月ほど前に開店したそうなのだが、「馬場歩き」をしない私は、今日初めて気づいた。さっそく入ってみる。古本屋とリサイクル本屋の中間(よりもややリサイクル本屋寄り)といった感じの品揃い。単行本にはこれといったものが乏しかったが、文庫本で何冊かいいものがあった。7冊購入。締めて1800円。
(1) 安岡章太郎編『私の文章読本』(文春文庫、1983年)
小島信夫はこう書いている。「一言にいって、私は文章というものを非常に簡単に考えている。つまり、言いたいことが、十分にいえているかどうかということだ。というより、いいたいことがあるかどうか、ということだ。」安岡章太郎はこの小島の言を取り上げて、こんな風に注釈を付けている。
「この書き出しの一行目は、怒ったような小島の頬をふくらませた顔が目に浮かぶ。これは無論、私がふだんから小島を知っているせいだが、この何となくムッとしたような口振りは、おそらく小島を知らない人だって感じられることだろう。古ぼけた裏町でマンジュウをふかしている菓子屋の頑固おやじが、女子大の家政科の生徒か何かにマンジュウつくりのヒケツをきかれて、『マンジュウというものは非常に簡単だ。つまり皮でアンコを、うまく包んで十分に蒸してあるかどうかだ』と、セイロの湯気の向こうでわざと忙しそうに長い箸などをうごかしながら、俯いてブツブツいっている感じだ。この迷惑げな、不機嫌そうな顔つきなり口振りなりは、おそらく作家に限らず、永年一つのことをやって暮らして人が、おまえのやっていることは何か、ときかれたときにだれもが示す職業的な反応であり、本当はとまどっているのである。」
本書は17人の作家の文章作法と、それを素材にして展開した安岡の「交友録的文章論」。
(2) 橋本治『よくない文章ドク本』(徳間文庫、1987年)
最近、斉藤美奈子が『文章読本さん江』(筑摩書房、2002年)で小林秀雄賞を受賞したけれど、あれは勉強のよくできる女の子が、エレガントに「おじさん的権威」を批判してみせた本。20年前に、同じ事を、もっと気取らずにやってみせたのが、奇才橋本治のこの本。
(3) 吉村昭『私の文学漂流』(新潮文庫、1995年)
『星への旅』(1966年)で太宰治賞を受賞するまでの彼の文学的自伝。
(4) 小林信彦『日本人は笑わない』(新潮文庫、1997年)
「どうして、こういうことになったのか、というのがぼくの思いです。こんなはずではなかった。誰がこんな風にしたのだ・・・・。日本人が笑わなくなったことです。いや、笑えないことです」、と小林が書いたのは、バブル崩壊から間もない1994年のことである。いや、そんなことはない、小劇場の満員の若者達はよく笑っているではないか、という予想される反論に対して、彼は次のように答える。「こういうゲラゲラ笑いは、笑っていないのと同じではないかと僕は思います」。そして彼は、「笑い」の消滅の起源を、1970年代に始まった「笑い」の幼児化(その象徴がドリフターズの登場である)に求めるのである。
(5) 如月小春『都市の遊び方』(新潮文庫、1986年)
彼女が急逝して3年余りになる。本書は演劇都市「東京」の文化人類学的スナップショット。本日一番の収穫。カバーの折り返しの彼女の写真にはびっくりする。
(6) 高橋英夫『元素としての「私」 私小説作家論』(講談社、1976年)
私は小沼丹の『椋鳥日記』を読んで彼のファンになったのだが、その『椋鳥日記』について高橋はこう書いている。
「作者自身と考えてよい中老の男が、一足先に滞在していた娘といっしょにロンドン市井の暮らしを経験し、それを心境小説ふうにえがいたのが『椋鳥日記』であるが、日本的私小説がその根生いの土地から離れ、異国の日常の中に置き移されたとき、どのような変化を生むかという私小説の実験としての面白さも加わって、この作品はなかなか捨てがたい味わいを醸し出している。井伏鱒二直系の小沼丹氏には、師ゆずりの抑制された諧謔と、ゆっくりした間合いのとり方の巧妙さが顕著であり、そういう質によって「私」の背後の社会を仄かに暗示するという作風を見せてきたが、外国にそれが移植されても枯れなかったと言えるのも、やはり小沼氏が、社会を『伝統的自然』の含みの中に吸収し、隠すことを知っていたからではないか、と思われるのだ。」
社会と自然を対立するものとしてではなく、社会を自然の一部として包み込む(ある意味で隠蔽する)ものとして捉える発想は、俳人に典型的であるが(世界は季語という契機なしでは成立しない)、俳句を読まない人でも、日記を付けるときに、「○月×日 晴れ」とまずはその日の天候(自然の有り様)に言及してからでないと、出来事の記述が始まらないというのは、同様の発想の表れであろう。
(7)和田秀樹『75歳現役社会論』(日本放送出版協会、1997年)
「若さ」に価値を置く社会で高齢化という現象が進行するとどうなるかというと、「高齢期の先送り」という現象が生じるのである。つまり自分のことを老人だと思いたくない老人が増えるから、老人としてみなされる年齢を引き上げることによって、老人たちを相対的に若返らせてしまうわけだ。まあ、一種の心理的トリックですね。本書では、「ヤングオールド」と「オールドオールド」という言葉がトリックとして使われている。75歳までは「ヤングオールド」なのだそうだ。「ヤングオールド」、すなわち「若い老人」・・・・、なんだ、やっぱり老人なんじゃないか。ところで「ヤングオールド」の下限は何歳なのかというと、この言葉の提唱者であるニューガートンによると、55歳である。な、なんですと?! あと5年ではないか(私が)。やだ、やだ、「ヤングオールド」なんて、やだ。絶対に、矢田亜希子(おやじギャグで抵抗するが、引かないでほしい)。55歳は「ミドル」だろ。「オールドヤング」でもいい。なんだったら、「オール阪神巨人」でもかまわない。とにかく、「ヤングオールド」なんてよれよれのアロハシャツみたいな言葉で呼ぶのだけは勘弁してくれ。
5.7(金)
5限の卒論演習は、今回から毎回2名の報告となる。学生は20名なので、6回で一周する。前期で2ラウンドやれる計算だ。以前、毎週ではなく、隔週にして、その代わり毎回4、5名に報告してもらったことがあるが、聞き手の学生たちの集中力が持続しないので、その年度だけで止めた。今日の報告はMさん「言葉の可能性と不可能性」とY君「典型的役割と役割パフォーマンスの違いから見えてくる個性」。
ところで、最近、気づいたのだが、机が口の字型に配置された演習などの授業で、報告者が資料をみんなに配るときに、右回り・左回り両方同時に配ることが多い。たしかに配布資料が1枚のときは、両方向同時に配った方が半分の時間で配り終えることができ、合理的な方式のように思える。しかし、配布資料が2枚のときに、1枚目は右回りに配り、2枚目は左回りに配ると、どちらも一周回るわけだから、同じ方向に2枚回したときと時間は変わらない。いや、実際には、途中で2枚の資料が交差して、若干の混乱をきたす分だけ時間がかかることが多い。配布時間短縮のためには、1枚目、2枚目とも均等に二山に分けて、両方向同時に配らなければ意味がないのである。ただし、均等に二山に分けるという作業はけっこう手間なので、実際には、目分量で二山にわけて配られることが多い。そうすると、1枚目のときと2枚目のときで、最終地点(両方向の流れが出会う地点)が変動することになり、若干の混乱が生じる。とくに配布資料が足りないという事態が生じると、この混乱に拍車がかかる(一方向回りの場合は、資料の残部はブーメランのように常に報告者の手元に戻ってくる)。・・・・要するに何か言いたいのかというと、やっぱり資料の配布はシンプルな一方向回りがよいのではないかということです。思うに、両方向回りの配布方式というのは、時間の短縮のためというよりも、手持ちぶさたの状態(配布資料が自分のところにまでやってこない状態)にある人を少なくしようという発想から来ているのではなかろうか。そして、この発想の背後には、小人閑居して不善をなす、という性悪説的人間観が潜んでいるように思える。たかが資料の配布の仕方で、そこまで言いますか、って話ですけどね。
5.8(土)
日射しは暖かく、空気はサラリとした、さわやかな一日。ベランダに猫を出したら、気持ちがいいのだろう、もうそろそろよかろうと、抱えて室内に入れようとすると、「ウ~」と抵抗するので、しばらくつきあってベランダにいた。昼過ぎ、自転車を漕いで昼食のサンドイッチを買いに行く。サンカマタ商店街の奥の蒲田文化会館に入っていたヨーカ堂が撤退して、その辺りの人通りが心なしか少なくなったような気がする。家賃が高いのか、後に入る店舗がまだ決まらないらしい。4階の蒲田宝塚とテアトル蒲田は営業を続けていて、今日から『世界の中心で、愛をさけぶ』と『死に花』の上映が始まっている。都心の映画館なら立ち見なのであろうが、こちらは今日も明日も余裕で座って観られるはずで、場末の映画館のよいところだ。鈴木ベーカリーが臨時休業だったので、旧ヨーカ堂前のロアモンドのサンドイッチを購入。店前から推察されるように、大衆的な鈴木ベーカリーのサンドイッチよりも、お洒落な分だけ値段も高めで、大(私の分)が450円、中(娘の分)が360円。言い忘れたが、妻と息子は矯正歯科の予約のある日で、家にいないのである。娘は昨夜、サークルの飲み会とかで、帰宅が門限の11時を過ぎた。当然、叱る。規範が破られた場合、それを黙認すれば、規範は形骸化する。親は規範の代理人(エージェント)である。『マトリクス』で言えば、スミスである。嫌われ役である。それでいいのだ。親が規範の代理人としての役割を演じなくなったら、子供は反抗の仕方を学ぶことができない。以前の「フィールドノート」で、娘はテニス&スキーのお遊びサークルに入ったらしいと書いたが、実は、あれは娘の嘘(あるいは照れ)で、演劇研究会というものに入ったのである。ふ~ん、生意気そうなものに入ったじゃありませんか。薄汚い部室で、タバコを吸いながら、ベケットが~とか、野田秀樹が~とか喋るのだろうか。いや、これは私の学生時代、1970年代的なイメージか。娘はラーメンズのファンで、先日も2回、彼らの同じ公演を観に行った。今日は高校時代の友人を家に呼んで、TSUTAYAで借りてきたバナナマンのビデオを観ながら、「最後の場面はラーメンズならそうはしなかっただろう」と批評家みたいなことを言っていた。ふむふむ、さすが演劇研究会ですな。この先、だんだん手強くなっていきそうな気がする。
5.9(日)
父と妻と三人でおせがき(「施餓鬼」と書くらしい)法要に出席。泰寿院は鶯谷駅から徒歩10分ほどのところにある下町の浄土宗の小さな寺である。11時前に寺に着き、墓参りをすませてから、用意されたお弁当をいただき、本堂で余興の落語を聞いてから、住職の講話、そしてお経と念仏の儀式。住職のA師は、3年前から、浄土宗北米開教区の総監をしていて、普段はこの4月に大正大学を卒業されたご子息が寺を任されているのだが、おせがきとお十夜の法要のときだけは帰国して住職としてのお務めをする。今回の帰国は、ちょうど先日の台風のような強風とぶつかって、これまで経験したことのないくらい機体が激しく揺れたが、念仏を唱えたら気持ちが落ち着きましたという話をされた。「みなさん、手を合わせて、お念仏を10回唱えて下さい」と英語で言ったのはご愛敬であった。終わったのは午後3時。雨が少しばかり降っていたが、傘を差すほどではなかった。下谷は寺の多い町で、そのためか、私が子供の頃と町の風景がそれほど変わっていないように思えた。
5.10(月)
午後、表参道にある「日本広報協会」というところで、全国の都道府県が出している広報紙のコンクールの審査会。普段、自分が住んでいる自治体以外の広報紙を見ることなどないから、なかなか興味深かった(審査結果は5月下旬の読売新聞紙上で発表される)。帰宅の途中で、『文藝春秋』6月号を購入。パラパラとやっていたら、「第35回大宅壮一ノンフィクション賞発表」の記事(渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ』が受賞)が載っていた。自分がさっきまで審査会に出ていたこともあって、6人の選者(猪瀬直樹、藤原作弥、関川夏央、柳田邦男、西木正明、立花隆)の「選評」を興味深く読んだ。中でも関川の「選評」が面白かった。彼は受賞作を、介護体験を通じて作者が成長する過程を描いた「教養ノンフィクション」として評価しながらも、次のような苦言を述べている。「だが、いかんせん長い。『自己客観』の不足も含め、編集者が十分に機能していないためだろう。編集者とは原稿の催促係でも整理係でもない。他者であり批評家である。」関川が一番押したのは日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』であった。刑法第39条(心神喪失を量刑減刑ないし免除の理由とする)の削除をテーマとして作品である。法律的概念のとらえ方に弱点があるとする多数意見に彼は抗しきれなかったが、後から、やはり強く押し続けるべきであったと後悔したようである。「だが、一般書に法律論的厳密性を完璧にもとめる必要があるのだろうか。私はいまもこの作品を惜しんでいる。ノンフィクションは『物語』ではない。『物語』ばかりではない。実証的言論こそが、その『文学』としてのありかたの原点であり核心ではないかと、ますます強く思うところがあるからだ。」推察するに、「法律論的厳密性」を持ち出したのは立花隆であろう(立花はかつてロッキード事件裁判をめぐる法律論争で専門家を相手に一歩も引かずに論陣を張ったことがある)。立花は「選評」で、日垣作品について次のように述べている。「切れ味の鋭さにおいては、『そして殺人者は野に放たれる』がいちばんだろうが、ナイフさばきの華麗さは見えても、ノックアウトパンチが相手をとらえたときのズシリとした手ごたえのようなものが感じられない。論争的作品の真骨頂は相手をブチ倒すところにある。ジャブのうまさと手数の多さだけでは相手を倒せない。」立花が自説を強く主張し、藤原、柳田、西木がそれに賛同して多数意見となり、関川はそれに屈したのであろう。銀座「松山」での選考委員会の情景が目に見えるようである。立花隆はノンフィクション界の田中角栄かもしれない。
5.11(火)
暑い。気温が30度を超えている。夏日である。午後、主任会があり、半袖シャツに麻のジャケットを着て、大学へ。いくら外は暑くても、いや、外が暑いときほど、電車の中や会議室は冷房が効いていてシャツだけだと寒いことがある。だからジャケットが欠かせない。それから、ジャケットを着ていないと、スケジュール帳、メモ帳、ペン、財布、定期券、キーホルダー、ハンカチ、ティッシュ、携帯電話を入れるポケットがなくて不便ということがある(もっとも妻からは、ジャケットが型くずれするから、ポケットにそんなに物を入れないで、と言われている)。ポシェットを肩から提げるという手もあるが、散歩のときならまだしも、B4判の書類が入るビジネスバッグを片手に提げながら、ポシェットもというのは、格好が悪い。それ故、本当に暑くなってくると、外ではジャケットを脱いで、肩に担いで歩くことになるのだが、何かの拍子に、ポケットの中身がこぼれ落ちることがある。ほんと、夏の出勤は悩ましい。ところで、丸谷才一のエッセイ集で一番面白いのは、なんと言っても、『男のポケット』だということを、唐突に、言ってみたくなりました。
5.12(水)
3限の社会学研究9の授業で、近代学校と立身出世の思想の関係を説明しているときに、教材として小学唱歌「仰げば尊し」(♪身を立て 名をあげやよ やよ励めよ~)を流したのだが、一番の歌詞の最後、「いまこそわかれめ いざさらば」の「め」が、意志(~しよう)を示す助動詞「む」の已然形「め」であることを知らず、「金の切れ目が縁の切れ目」とか「季節の変わり目」などというときの「目」だと思っている学生が少なからずいたことにびっくりした。「こそ+已然形」の係り結びの法則は古典文法の中ではかなりポピュラーなもののはずだが、出席カードの裏に「80へぇ」などと書いてあった。まさか「やよ励めよ」の感動詞「やよ」を「いやよ」(嫌よ)のことだと誤解している学生はいなかっただろうね。もっとも、子供の頃に暗唱した文語体の歌詞というのは、意味がわからないままに音として覚えてしまっているということはよくあることで、私も、つい最近まで、「君が代」の「さざれ石の巌となりて」の部分を「ただれ石の岩音鳴りて」だと思っていた(本気にしちゃいやよ)。
5.13(木)
もう10年前になるだろうか、完成して間もない恵比寿ガーデンプレイスの中の都立写真美術館に、早稲田大学に着任して最初に担当した一文の基礎演習の学生たちを連れて行ったことがある。彼らもそろそろ30歳に手が届く頃だ。それぞれの場所で元気にやっているだろうか。その恵比寿ガーデンプレイスに10年ぶりで出かけていった。恵比寿ガーデンシネマで上映中の『グッバイ、レーニン!』を観るためである。ベルリンの壁が崩壊する一月前の1989年10月7日(東ドイツ建国40周年の式典のあった日)の夜、青年アレックスはベルリンの街頭デモに参加していて、警官ともみ合いになった。たまたま現場を通りかかったアレックスの母親クリスティアーネは、その光景にショックを受けて、心臓発作で倒れる。昏睡状態に陥った母親が意識を回復したのは、8ヶ月後の1990年6月だった。その間に世界は一変していた。しかし、そのことは、10年前に父親が家族を残して西側に亡命して以来、愛国主義者の道を歩んできた母親には、心臓発作の再発の危険もあって、知らせるわけにはいかない、とアレックスは考えた。かくして家族、恋人、友人、知人、そして元宇宙飛行士のタクシードライバーを巻き込んでの茶番劇が始まった・・・・。ジム・キャリー主演の映画『トゥルーマンショー』は、ある男の誕生から現在に至る日々の生活を、その男には内緒で、壮大な街のセットを組んで(つまりその男以外の街の住人は家族も含めて全員役者)、全米に24時間生中継するという荒唐無稽な、ある意味恐ろしい物語であったが、『グッバイ、レーニン!』は笑いと涙の物語である。一つの国家の消滅の物語と、一つの家族の再生の物語が、見事にシンクロナイズしている。
映画を見終えて、大学へ。「五郎八」で昼食(揚げ餅蕎麦を冷やしで)。4限の時間、研究室で二文の基礎演習のレポート(テキストの『はじめて出会う社会学』の16の章それぞれの「面白度」と「難易度」を5段階で評定した上で、各章についての簡単な感想を書いてもらったもの)に目を通す。「面白度」を集計した上位8章のテーマを前期のグループ研究のテーマとして採用することにした。そのテーマとは、1位「セックスとジェンダー」、2位「メンズ・スタディ」、同2位「在日外国人」、4位「メディアと社会」、5位「エスニシティと人種」、同5位「エイズ」、7位「スポーツ」、8位「音楽とメディア」であった(以下、9位「新宗教」、10位「ファッション」、11位「身体と社会」、同11位「ヴァーチャル・リアリティ」、13位「フェミニズム」、14位「神秘体験」、15位「宗教と科学」、16位「カルチュラル・スタディーズとは何か」であった)。念のために言っておくと、この順位はあくまでも各章の文章の面白さ、わかりやすさを反映しているのであって(筆者は別々)、学生たちがカルチュラル・スタディーズや宗教やフェミニズムに関心がないわけではない。どのようなテーマも、語り口一つで、面白くも退屈にもなるのである。基礎演習の学生は26名なので、1グループ3人ないし4人で8グループを編成し、グループ単位で勉強を進め、6月中旬ごろから順次(毎回2グループ)報告を行う。
5限の時間、ロシア文学の草野先生と神楽坂の甘味処「花」に出かける。今年度最初の甘味同好会の総会である。神楽坂の駅を出て、商店街を下って、脇道をちょっと左に入ったところに「花」はあった(私はこの店は初めて)。メインストリートにある超有名店「紀の膳」とは違って、いかにも神楽坂の芸者さんたちが好みそうな、こぢんまりとした落ち着いた店構えである。女将さんによると、ついさっきまで満席状態だったらしいが、それが一遍に引けた直後で、客はわれわれだけだった。女将さんお薦めのクリームあんみつを注文する。冷やし汁粉にもかなり惹かれたのだが、初めての店では女将さんの言うとおりにするのが賢明である。事実、しばらくして、われわれが将来の話(文学部の)をしているところに運ばれてきたクリームあんみつは、私がこれまでの人生で出会ったクリームあんみつの中で文句なく最上位に位置するものであった。最初、フルーツパフェが出てきたのかと思ったほど、フルーツの量が半端ではないのである。いや、量だけではない。缶詰のフルーツは一つも使っていない。イチゴも、スイカも、ミカンも、ピーチも、バナナも、チェリーも、すべていましがた冷蔵庫から取り出して、洗って、剥いて、切って、盛りつけたものである。素晴らしい。もちろん、素晴らしいのはフルーツだけではない。アイスクリームも、あんこも、寒天も、豆も、牛皮も、「これぞ本物の味」と言えるものであった。これで750円は安い(と言っては、奢っていただいた草野先生に失礼か)。今度来るときは、もっとお腹が空いている時刻にして、クリームあんみつの他にもう一品、雑炊かなにかを注文してみたいと思った。
6限の時間が始まる頃に研究室に戻り、ちょっと休憩(居眠りですね)してから、7限の基礎演習の授業に臨む。食べ物と飲み物(もちろんアルコールはなし)を持ち込んで、懇親会をやりながら、グループ研究のグループ決めを行う。今年度のクラスは非常にまとまりがいい。「一週間の授業の中でこの時間を一番楽しみにいます」なんて、ふつうはちょっと気恥ずかしくて言えない(私の感覚では)ような言葉が、みんなの口からポンポン飛び出す。概して男子学生よりも女子学生の方が、一般学生よりも社会人学生の方が、元気がよいものだが、このクラスは男女の比率や、一般学生と社会人学生の比率がちょうどいい具合にいっているのだろう。ただし、本当にいいクラスになるかどうかは、グループ研究が始まってみないとわからない。これから先、大学生活にも慣れ、サークル活動やアルバイトに精を出すようになったり、仕事と勉強の両立に悩むようになったりしたときに、果たしてこのクラスが彼らにとってベースキャンプのような場所でありつづけることができるかどうか、まだまだ未知数の部分が多い。
5.14(金)
3限の大学院の演習では、加藤秀俊が23歳のとき(当時、彼は一橋大学を卒業して、京都大学の人文科学研究所の助手になったばかりだった)に書いた論文「身上相談の内容分析」(思想の科学研究会編『芽』1953年9・10月号に掲載)を採り上げて、ディスカッション。報告者はI君となっていたが、論文のコピーは先週全員に配布してあるから、当然、全員が論文を読んで、内容について何らかのコメントができるように準備してこないとならないのだが、ディスカッションは主として私とI君と修士2年のAさんの3人の間で展開され、修士1年の3人はなかなかディスカッションに加わることができない。縄跳びの大縄の中に入るタイミングを測りかねているようだ。ときどき水を向けてみるのだが、単発的な発言で終わってしまう。雰囲気に慣れていないということはもちろんあるが、やはり論文の読み込みが甘いのだ。自分が報告の担当でない論文でも、いや、それだかこそ、十分に読み込んでこないと報告者と同じ平面に立ってディスカッションをすることはできない。
大学院の演習を終えて、遅い昼食をとりに外出したら、中庭で去年の二文の基礎演習の学生だったIさんに声をかけられる。ゴールデンウィークに花巻の方に旅行に行かれたらしく、「賢治最中」と宮沢賢治幻燈館で買った絵葉書をお土産にいただいた。旅行中、最中と宮沢賢治から私のことを思い出てくれたらしいが、最中の方は分かるけど(私が甘党であることは周知の事実なので)、賢治と私がどうして結びつくのだろう。顔が似ているということは・・・・多分、ないよね。「雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ」、日々、頑張って授業をやっているということだろうか。『銀河鉄道の夜』はご覧になりましたかと聞かれて、『銀河鉄道999』のことかと勘違いした私に、Iさんは笑いながら、バッグから『銀河鉄道の夜』のビデオを取り出した。レンタルビデオではなく、購入したものだという。かなりのファンのようである。ご覧になっていないのならというので、週末の楽しみに借りることにした。
早稲田軒で昼食(ワンタン麺)をすませてから、本部キャンパスで行われている早稲田青空古本掘り出し市を覗いてみる。以下の4冊を購入。古本市は明日まで。
(1)P.ブラトリンガー『パンとサーカス』(勁草書房、1986年)*3600円→2000円
(2)フランソワ・ペルー『疎外と工業社会』(紀伊国屋書店、1971年)*600円→300円
(3)山中正剛・石川弘義「戦後メディアの読み方」(勁草書房、2001年)*2800円→1500円
(4)尾崎秀樹『大衆文化論』(大和書房、1966年)*440円→500円
5限の卒論演習は、Mさん「日本におけるクラシック音楽」と、Iさん「電車内空間での逸脱行為」の報告。6時半までやって、7時から高田馬場の「弁慶」でコンパ。参加者は私を含めて11名で、一人一人改めて自己紹介をしていたら、各人それぞれに面白いエピソードをかかえていて(たとえば、「仮面ライダー」の主役の三次オーディションまで行ったM君や、調査実習の報告書の原稿締め切り間際に失踪事件を起こしたもう一人のM君や、なぜか幸薄そうな男性を好きになってしまうIさんや、実は私もそうなのとIさんに共感するMさんや、幸薄そうな男性っていうのはたとえばいまここにいる男性でいうと誰? と2人に何度も尋ねるY君や・・・・)、自己紹介だけであっという間に2時間が経ってしまった。なかなか楽しい会だった。