フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2004年12月(前半)

2004-12-14 23:59:59 | Weblog

12.1(水)

 家を出るとき、玄関に自分の靴がないことに気づいた。どうやら父が自分の靴と間違えて履いて出てしまったようだ。今日、父と母は連れだって湯島天神に孫(私の妹の子ども)の大学受験のお守りを求めに行っているのだ。しかたがないので、以前よく履いていた茶系の靴を履くことにしたのだが、少しゆるい。私の足が小さくなったわけではなくて、その靴を購入したときは私は厚めの靴下を常用していたのだが、いまは薄めの靴下をはいているので、0.5センチほどサイズのズレがあるのだ。若干のプカプカ感を足下に感じながら、大学へ行く。

 3限の講義の後、「志乃原」に昼食を食べに行く。ここではいつも野菜天せいろ(1,050円)と決まっている。茄子、人参、薩摩芋、獅子唐の天ぷらが各2個。これが旨い。せいろだけでは力がでないが、野菜の天ぷらと一緒に食べると満足感が違う。おまけにヘルシーな感じがする(たぶん)。隣の席のお婆さんは、特別注文なのであろう、蕎麦抜きで、しかも薩摩芋の天ぷらばかり大小とりまぜて10個ほどを食していた。よっぽど薩摩芋の天ぷらが好きなのだろう。でも、こんなに食べて大丈夫なのだろうか。4限の調査実習は、今日から詳細なケース報告の段階に入る。他者の人生の語りにどれだけ共感的に耳を傾けることができるか、それが一番大切なことである。

生協で買った本の伝票を事務所に回したら個人研究費の残額が400円ほどしかなくて、処理できませんというメモ書き付きで戻ってきた。そうだった、忘れていた。その伝票を持って生協文学部店に行き、現金で精算する。ついでに新刊を3冊購入。ケネス・J・ガーゲン『あなたの社会構成主義』(ナカニシヤ書店)、大沢真幸『帝国主義とナショナリズム』(青土社)、そして毛利嘉孝編『日式韓流 『冬のソナタ』と日韓大衆文化の現在』(セリカ書房)。最後のものは、来週火曜日に予定されている卒論仮指導のときの資料として購入(韓流ドラマの流行をテーマにして卒論を書きたいと言っている学生がいるので)。これらも当然、現金で購入。いままでは伝票にサインするだけでよかったのだが、これからは財布と生協の組合員証を忘れないようにしないといけない。

 

12.2(木)

 大学に行く途中、飯田橋ギンレイホールで『ドッド・ジ・アイ』(dot the i )を観る。タイトルの意味は、アルファベットの「i」の点を打つ、転じて、物事を完結させる、というような意味らしい。話の内容は恋愛映画の形式を借りたサスペンス。結婚の決まった女性(カルメン)が、女友だちとの独身最後のパーティ「ヘン・ナイト・パーティー」の席上で、パーティーの慣習に従ってその場に居合わせて一番セクシーな男(キット)とキスをする。そのキスは思いもかけず情熱的なものとなり、二人は恋に落ち、彼女と婚約者(バーナビー)との関係はギクシャクしたものになる。ところが、男を彼女に接近させたのは婚約者の企みだったのである。彼はなぜそんなことをしたのか。・・・・ここから先は書かないが、二転三転するストーリーは、ロマーヌ・ボーランジュ主演の『アパートメント』やブライアン・デ・パルマ監督の『ボディ・ダブル』を思い出させる。ただし、最後の方になると、「これでもか」という感じがちょと鼻について、「もういいんじゃないですか」という気分になりましたけどね。カルメン役のナタリア・ベルヴェケは日本の女優でいえば柴咲コウのような生気を感じさせる女優で、この映画の魅力の半分は彼女の存在による。スペインの女優といえばペネロペ・クルスだったけれど、そろそろ世代交代か。映画を観終わって、「紀の善」で一服して(田舎しるこ)、大学へ。

7限の基礎演習は、来週からグループ報告週間に入る。今日は授業時間を使っての最後のグループワークで、私は各グループの間を回って進捗状況を聞き、あれこれアドバイスをしたのだが、どのグループも前途多難を思わせる。授業時間外にグループワークの機会を持つことが難しいのが二文で演習形式の授業を運営しようとするときの構造的障碍である。現状ではその障碍の克服は個々の学生の熱意に委ねられている。こちらも演習用のBBSを設置したりなどの工夫はしているが、BBS上でのコミュニケーションは、あくまでもメンバーが顔をつき合わせて行うコミュニケーションを補助するもので、それがメインにはなりえない。現代の若者は携帯のメールを使ってのコミュニケーションに習熟しているからBBSでのコミュニケーションもお手のものだろうと考えるのは、まったくの勘違いで、メールによるコミュニケーションにも私的なものと公的なものとの違いは判然としていて、対面的な場面でのディスカッション(たんに自分の考えを一方的に述べるのではなく、他者の発言をきちんと受け止めて、議論を発展させていくこと)ができない学生はBBS上でのディスカッションにも参加できないのである。

 

12.3(金)

 街のあちこちにクリスマスのイルミネーションが見られる季節になった。大学からの帰りに立ち寄った丸の内OAZOも入り口前の3対のアーチ状のイルミネーションが見事だった。丸善でクレールフォンテーヌの綺麗な表紙のA4判リングノートを4冊購入(1冊850円)。今日は21回目の結婚記念日なので妻へのちょっとしたお土産である。しかし、これだけでは妻の歓心を得ることは難しいと思い、蒲田駅に着いてから東急プラザで花束とゴディバのチョコレートを購入しようとしたところ、持ち合わせが十分でなく、両方は無理であることが判明した。花かチョコレートか。小考して、私はチョコレートを選択した。店員が「贈り物でしょうか?」と尋ねたので、「そうです」と答えたら、「ご家族へのお土産もいかがでしょうか?」と言ってきた。何か誤解をされている気配があったので、「これは妻へのお土産なのです」と釈明すると、私の妻と同じくらいの年回りのその女の店員は「そうでございましたか」と言って微苦笑をして見せた。帰宅して、妻にチョコレートを渡すと、予想通り妻の顔が明るく輝いた。やはり「花より団子」である。一風呂浴びて食事が始まるときに、「クレールフォンテーヌのA4判のノートを買ってきたんだけれど、使うかい?」と聞いたところ、「A4判は使わないから」とニベもなく言われてしまった。やっぱりね。いいです、いいです、自分で使いますから。

 

12.4(土)

 一文の1年生の専修進級希望届の最終集計結果が発表された。予想通り、第一次集計で168人だったわが社会学専修の希望者は22名減の146名になった。それでも定員(75名)のほぼ2倍である。昨年同様定員の3割増の98名をとったとしても、希望者の3分の1に相当する48名は他専修へ行ってもらうことになる。3人に1人が高齢者になる(あと10年ほどで)という事態と同じくらい大変なことかもしれない。

 夕方、散歩に出る。普段はありま行かない東口の紀伊国屋書店をのぞいてみる。どの書店に行っても来年の手帳がたくさん並んでいる。近年流行の手帳のテーマは「夢の実現」のようである。「夢の実現」のためのツールとしての手帳ということである。しかし、流行になるということは「夢の実現」がいかに難しいかを逆説的に物語っている。そもそも夢というものは簡単に実現しないから夢なのであろう。たとえば「お汁粉を食べたい」というのは、糖尿病の患者にとっては夢かもしれないが(「お汁粉を食べたい」=「健康な体になりたい」)、ふつう夢とは言わないだろう。「お汁粉を食べたい」はたんなる欲求である。夢も欲求の一部には違いないが、実現までに相当の時間と努力を必要とする特殊な欲求である。近代社会は人々に各人の「夢の実現」を強いる社会である。「大きくなったら何になる?」「将来の夢は?」「定年後は何をしたいですか?」とくり返し問いかけることで、人が「夢の実現」に向けて不断に生きていくことを強制する社会である。ここでは夢というものが無条件にポジティブなものとして捉えられている。しかし、私は思うのだが、夢には現在を未来に従属させ、つらい現在から目をそむけさせるという機能があるのではなかろうか。その意味で夢は思い出と機能的に等価ではなかろうか。しかし過去→現在→未来と進行する物理的時間(自然科学的時間)の基盤の上に成立している近代社会(産業社会)では、夢を語ることは「前向き」な行為で、思い出を語ることは「後ろ向き」な行為であると見なされる。未来志向的な社会では「前向き」であることは高く評価される。・・・・どうも、この話は長くなりそうなので、また別の機会にしよう。いまの時間は12月5日の午前10時20分。前日のフィールドノートをいま書いているのだ。朝食はまだである。「朝食を食べたい」という欲求がしだいに高じてきている。われわれの欲求の多くは現在志向的な性質のものである。それはできるだけ時間を置かずに充足されることを求めている。「夢の実現」という大儀の下で繰り広げられている大きな戦争の最中にあって、われわれは「欲求の実現」のための局地戦を闘い抜いていかなければならない。学部の学生のとき中国語の授業のテキストとして読んだ「毛沢東選集」にそう書いてあった(というのはもちろん嘘です)。

 

12.5(日)

 深夜から明け方にかけて強い風が吹いた。雨戸がずっとガタガタ鳴っていた。ところが、朝、雨戸を開けると、台風一過のような青空と夏のような陽射し。いや、びっくりしました。風速と気温ともに記録破りのものであるとのこと。確かにこんな12月は記憶にない。半世紀を生きてきても「こんこと初めて」という体験はまだまだあるのだということを知った。

「こんなこと初めて」とまではいかないが、今日は珍しいことがもう一つあった。読んでいる小説の登場人物が自分と同じ姓だったのだ。大崎善生の短編集『孤独か、それに等しいもの』(角川書店、2004年)の冒頭の作品「八月の傾斜」の主人公石田祐子の中学・高校時代の恋人の名前が「大久保君」であった。ちょい役ではない。45頁の作品の中に83回も「大久保君」という言葉が出てくるのだ。「大久保君」の洪水。こういうのはちょっと困る。なんて言うのだろうか、照れくさいような気分になるんですよね。なんだか自分が出演しているビデオを観ているような感じで(小津安二郎監督の『一人息子』で笠智衆が演じていた学校の先生が「大久保先生」であったが、あれも照れくさかった)。

 

 「キスしてください」と私は卒業がいよいよ近づいた日に、家の近くの公園で大久保君にせがんだ。

 大久保君は私の手を優しく握りながら私にこう言った。

 「石田」

 「はい」

 「キスはね・・・・。高校生がやるものだと思う」

 「はい」

 「だから高校に進学してからにしよう」

 次の日にそのことを百合子に話すと、彼女は声を上げてケラケラと笑い転げた。

 「ハハハ。キスは高校生かあ。大久保君ってやっぱり可愛いなあ」

 そう、大久保君は可愛いと私も思った。可愛いだけじゃなくて格好もいいし、それにものすごく男らしいーー。

 

 どうです。恥ずかしいでしょ(各自、上記の引用文中の「大久保君」を自分の名前に置き換えて読んでみて下さい)。もっと恥ずかしい場面もあるのだが、とても引用することができない。耐えられない。

ところで、この「大久保君」は高校三年の九月に自転車に乗っているところをダンプカーに轢かれて死んでしまうんですね。先日読んだ瀬尾まいこ『幸福な食卓』の主人公の女子高生の恋人も自転車に乗って新聞配達をしているときに車に轢かれて死んでしまうのだが、いい奴があっけなく死んでしまうのは本当に悲しいものだ。あまりに悲しくて悲しみを悲しみとしてきちんと経験することができない。「大久保君」が死んでから石田祐子は毎年九月になるとひどい鬱に襲われる。そしてその予兆は八月から始まる。「八月の傾斜」というタイトルはそこから来ている。そして27歳になった彼女は八月に恋人からのプロボーズを受ける。

 

 大久保君が死んでから十年近くがたって、あの九月のどん底が決して彼のせいだけではないことも私は感じはじめていた。私はきっと時間とともに失われていくすべてのことに怯えているのである。すべてを自分から奪い去ってゆく、時間という有無を言わせない力に。

 大久保君が恋しいわけではない。

 大久保君と過ごした自分自身が恋しいのだ。それはなす術もなく、日々、移り変わっていってしまう。二度と取り戻すことのできない記憶の堆積物に、私は勝手に大久保君という名前をつけて呼んでいるだけなのかもしれないのだ。

 

 女性を主人公にした小説を書ける男性作家は少ない(男性を主人公にした小説が書ける女性作家も少ない)。大崎善生は女性を主人公にした小説を書ける数少ない男性作家の一人である、と大久保君は思う。

 

12.6(月)

 白水社から『吉田秀和全集』の第24巻が出た。これで完結とのことである。第1巻から第10巻までが出たのが、私が大学3年生だった1973年のことで、当時の価格で一巻あたり2,500円したが(今回の第24巻は4600円)、私は奮発して10巻全部を購入した。作家、学者、文芸評論家以外の全集で私が所有している全集はこの『吉田秀和全集』だけである。格別の存在なのだ。吉田さんは1913年(大正2年)の生まれで、今年91歳。朝日新聞の夕刊の文化欄に「音楽展望」という文章をずっと書いておられる。私は吉田さんの文章が大好きで、ほとんど崇拝というのに近い。音楽という目に見えないものを一体どうしたら文章という目に見えるものにあんなに見事に変換することができるのだろう。私は「芸術」と一括して呼ばれる領域に関しては、文学に一番多くの時間親しみ、次いで映像、そして美術という順で、一番疎いのが音楽なのだが、初心者であっても吉田秀和という名ガイドがいれば奥深い音楽の森の中へもワクワクしながら足を踏み入れることができる。そうやって私は、バッハの『平均律クラヴィーア曲集』やモーツァルトの『ピアノ協奏曲第20番ニ短調』(K466)を知り、グールドやポリーニといったピアニストにも出会った。もし吉田さんの文章に出会わなかったら私の世界のサウンドスケープはずいぶんと違ったものになっていただろう。ところで私が大学院の修士2年だった1979年から刊行が始まった『加藤周一著作集』全24巻のうち最後に残った第18巻『近代日本の文学者の型』はいつになったら出るのであろうか。

 

12.7(火)

 今日は3年生を対象とした卒論仮指導の日(他の授業はすべて休講)。一文は午前10時から開始。私の指導学生は11名で、102教室を使って演習形式で行う。最初に私から一年間のスケジュールについて説明した後、自己紹介を兼ねて各自のテーマについて話してもらい(A4判一枚のレジュメを準備しておくよう事前にメールで伝えておいた)、一人当たり15分ほど質疑応答を行う。漠然としたテーマから明確なテーマまでいろいろである。しかし現時点ではテーマの明確さはそれほど問題ではない。週に一度の演習がスタートする来春までの間にテーマが変わっても一向に構わない。要は一年間つきあっていけるだけの夢中になれるテーマであるかどうかだ。

二文は午後6時から開始。指導学生はT君一人だけ。すでに10月の卒論計画書提出の時点で実質的な仮指導は済ませてある。この2ヶ月の間に読んだ文献について報告してもらったが、なかなかの読書量で感心した。自宅は大学の近所とのことなので、少々重いが、研究室にある本を12冊ほど貸すことにした。この冬の間にとにかくたくさん本を読んで、基礎知識をしっかりと身につけてもらいたい。

帰り支度をしてスロープを下りていくと、ベンチに座っている学生から声を掛けられる。社会学専修4年で去年私の調査実習クラスのメンバーだったKさんだ。何で4年生がこんな時間にこんな場所に? 初心に返って、再度、仮指導の時点から卒論に取り組もうと考えているのかいと尋ねたら、そうではなくて(そりゃそうだ)、自宅に籠もって卒論を書いていても集中できないので、大学に来て書いているのですとのことだった。ふ~ん、そうなんだ。卒論の締め切りまであと10日。製本に要する時間のことを考えると、実質的にはあと一週間だ。みんな尋常の精神状態ではあるまい。彼らの言葉で言えば、「テンぱっている」のだろう。Kさんとは帰る方向が一緒なので、地下鉄の中で話を続けた。卒論は結論の部分を書いているのだが、最後をどうまとめるかが見えてこないのだという。体操の演技でいえば、着地がピタリと決まるかどうかで苦慮しているようだ。それに加えて、卒論の最後の一行を書いてしまうと、自分の大学生活も終わってしまうような気がして何だか淋しいのだそうだ。ロマンチックなことを言うじゃありませんか。

 

12.8(水)

 二文の基礎演習で明日発表の班が相談に来た。前日になって相談に来ても大して意味はないだろうと思ったが、案の定、発表できる水準まで準備が進んでいないことが判明する。発表の核になるアイデアはあるのだが、肉付けがされていないのである。アイデアだけで発表できるような錯覚に陥っているのである。太宰治だったろうか、作家がある作品で伝えたいことの要点は数行もあれば表現できるが、しかしそれだけを書いたのでは読者にちゃんと届かないから、作家は呻吟しながら手間暇かけて作品を書くのだということを言っていた。授業もそれと同じで、大学の授業は90分だが、一回の授業で伝えたいことの要点だけを話すのであれば10分もあれば十分である。しかし、要点だけをポツンと話したのでは、たぶん面白くも何ともないであろう。そこに込められている面白さ、重要さ、可能性に気づいてはもらえないであろう。「一を聞いて十を知る」なんて聡明さを聴衆に期待してはいけない。発表する側にしても、十のことを調べてきて十のことを話すというようなインプットとアウトプットの量が等しい厚味のない発表ではだめで、百のことを調べてきて十のことを話す。残りの九十は無駄になるが、それはたんなる無駄ではなくて、発表の厚味(自信と言い換えてもよい)となって活きるのだ。さて、発表を延期してもう少し準備に時間をかけたいのであればそうしてもいいし、早く発表を終わらせて楽になりたいのであればそれでもいい、と私が言うと、彼らは前者の途を選択した。青年は荒野をめざすものである。

 

12.9(木)

 大学に行く途中、飯田橋ギンレイホールで韓国映画『永遠の片思い』(原題:lovers concerto)を観る。ある日、青年がバイトをしている喫茶店に2人の若い女性がやってくる。青年はその1人に一目惚れし、交際を申し込む。いったんは断わられるが、彼の誠実さと明るさが受け入れられて、3人でのグループ交際が始まる。やがて青年は一目惚れした女性とは別のもう1人の女性の方により強く引かれていくようになる。彼女の方も最初から彼のことが好きだった。当初、青年から一目惚れされた女性も、2人のそんな気持ちを察し、2人の恋が成就するように願う。しかし、2人の女性はある日突然彼の前から姿を消す。そして5年という歳月が経過する。・・・・日本の昭和30年代の純愛映画から貧しさを消去して、明るさと切なさだけを残して、現代を舞台にして再現したような映画だ。かつて物語に悲しみをもたらしたものは貧困と死であった。貧困が消滅したいま、悲しみは死が一手に引き受けることになる。主人公の好きだった人が死んでしまうという展開の小説や映画が多いのはそのためである。主演男優はあの『猟奇的な彼女』のチャ・テヒョン。主演2作目となる今回の映画でも、ちょっと気弱だが誠実で心優しい青年を好演していた。1時間45分の映画だが、おそらく結末部分を編集段階でかなりカットしたのであろう、場面の展開がわかりにくいところがあった。もう10分ほど長く椅子に座っていたかった。

 7限の基礎演習で、ファミリーレストランのグループ客が注文した料理が運ばれて来るまでの間、何をしているかを観察した発表が行われた。一番多いのはもちろん「会話をしている」であるが、若い同性同士のグループの場合、会話をせず、めいめいが勝手なこと(たとえば携帯電話でメール)をするケースが目立つとのことだった。私は今日、映画館を出た後、いつものように「紀の善」に立ち寄ったのだが、私が案内された二階席はおばさんたちで一杯で(男性客は私一人)、みなおしゃべりに夢中だった。しかも、注文した品が運ばれてくるのを待ちながらではなく、すでに食べ終わった客たちが大部分である。私は御前汁粉を注文し、お茶と茶請けの小さな2枚の煎餅で待ち時間を過ごし、運ばれてきた御前汁粉を黙々と食し、お茶と口直しの塩昆布で一服してから、請求書をもって席を立った。この間、席を立ったグループは一組もなかった。おしゃべりの王国にまぎれこんだ寡黙なガリバーのような心境で私は店を出たのだった。

 7限の授業の後、来週発表するグループの相談を研究室でやっていたら、11時近くになった。長く続いた暖かな毎日もとうとう終わったようで、スロープを下りながら、本当の冬がもうそこまで来ている気配を感じた。

 

12.10(金)

 3限の大学院の演習は、Aさんが修論の報告をした。学部生の卒論と違って、修論は年が明けてからの提出で(1月13、14日)、いまの時点でまだ一ヶ月ある。それがいいのかどうかは微妙なところである。修論を抱えたまま年末年始を迎えるわけだから、師走の街の賑わいや正月の街の長閑さを心から楽しむことはできないだろう。また、博士課程を受験する者にとっては、修論提出から博士課程の入試(2月9日)までの期間が一ヶ月足らずというのは、息を継ぐ間もないといった感じであろう。同情しますね。しかし、首尾よくいけば、小学生の頃から(人によっては幼稚園の頃から)続いた試験のある人生にようやくピリオドを打つことができる。ぜひとも一発でクリアーしてほしい。

 夕方、二文の基礎演習のAさんとK君がグループ発表の相談に来る。電車という空間における乗客たちのパーソナルスペースをテーマにしたいとのこと。車内観察における着眼点についえていろいろアドバイスをしたが、最後に1つ、参考までにと、さだまさしの『距離(ディスタンス)』という曲をiPodにホルンスピーカーを繋いで流した。

 

 君の住む故郷では もう季節が 海峡をゆらゆら 渡り始める頃

 僕は都会の電車の中で ふと君の懐かしい横顔 思い出せなかった

 ドアにもたれ 人と人との間で 踏みつけるのは自分の影ばかり

 赤い文字のスポーツ新聞の 向うで誰か ため息をついた

 もうそろそろ帰ろうと 帰らなくちゃいけないと 思いはじめているんだ

 改札口抜けた処で立ち止まっている僕に 誰も気づかない そんな街角

 

 三人で黙って耳を傾ける。一番の歌詞が終わったところでiPodの停止ボタンを押すと、地方出身者であるK君が「泣きそうです」と言った。iPodとホルンスピーカーが初めて学生指導に役立った。

 

12.11(土)

 娘のサークル(演劇研究部)の12月公演の千秋楽を妻と母と3人で観に行く。今回は二本立てで、一本目は「ゴジラ」。ゴジラとつき合っている少女が「彼氏」を家族に紹介するために家につれてくるが、当然のことながら、家族は二人の交際に反対するという話。舞台は1986年11月21日の大島(つまり三原山の噴火した日)。荒唐無稽な話だが、少女の父親の気持ちはわからないではない。芝居としての出来は、安心してセリフを聞いていられる役者とそうでない役者の差があって、いまひとつだった。役者の力量が不揃いの場合、芝居全体の印象は一番上手な役者の水準にではなく、一番下手な役者の水準に落ち着いてしまうのである。しかし、上手な役者がさらに上手になるよりも、下手な役者が上手になる方がはるかに簡単なので、しっかり稽古を積んで演技力の底上げをしてほしい。二本目は「新世界」。当初、娘はわれわれに今回の公演を見に来てほしくないようなことを言っていたが、その理由が二本目の芝居を観てわかった。「新世界」は娘の「彼氏」であるK君の作・演出で、娘とK君は劇中で恋人同士を演じているのだ。仲良くしたり、喧嘩をしたりしている。囁き合ったり、罵り合ったりしている。それも親の目の前でだ。K君は一度家に来たことがあるが、そのときと同じジャケットを着ている。それが現実と芝居の境界線を曖昧なものにしている。妻はうつむき、私は天を仰いだ。母は愁嘆場を演じる孫の姿に目を見張っていた。芝居が終わって、外に出たところで、K君から彼のお母様を紹介される。「いつも息子がお世話になっております」「いえ、とんでもありません。こちらこそ」と挨拶を交わす。なんだか芝居の続きのようである。駅までご一緒したが、お母様はK君が私の家に来た日の「フィールドノート」(10.17)をご覧になっていて、「3ポイントいただいてよかったわねって、息子と話したんですのよ」とおっしゃった。冷や汗ものである。きっと今日の「フィールドノート」もご覧になっているに違いない。石原千秋『漱石と三人の読者』(講談社現代新書)に倣って言えば、「顔の見える読者」がまた一人増えたというわけだ。ちなみにK君のお母様も飯田橋ギンレイホールのシネマ倶楽部の会員であるとのこと。今後、神楽坂・飯田橋方面を歩くときは品行に気をつけねばなるまい。

 

12.12(日)

 青井和夫先生(東大名誉教授)のご厚意で『社会学研究室の100年』(東京大学文学部社会学研究室、2004年)をお送りいただく。1903年(明治36年)に建部遯吾が東大に社会学研究室を開設してから100周年を記念して刊行された本である。日本の社会学の発展を振り返る資料としても、(これは私の個人的関心だが)清水幾太郎のライフコースを辿る資料としても、大変貴重なものである。たとえば、第Ⅳ部「研究会活動記録」に目を通していたら、1929年(昭和4年)8月2日の「二日会」(同年4月に発足した東大社会学会出身者の親睦会で、毎月2日に例会が開かれていた)の第5回例会の記録が載っていて、そこに「桐生高等工芸に転任された長屋敏郎氏並びに新に『社会学概論』を公にされた下地寛令氏に祝意を表し」とあるのが目に止まった。下地寛令という名前は知っている。彼は同年10月に『心理学概論』という本も出しているのだが、実はこれは当時社会学科の2年生だった清水幾太郎が代筆したものである。清水の最初の自伝『私の読書と人生』(1949年)の中に次のような記述がある。

 

 大学の二年生の夏、二十日間ばかり、私は上野の図書館へ通いつめた。「心理学概論」を書くためである。社会学科の先輩で下地寛令という人がいて、当時内務省の警察講習所で警官相手に心理学を教えていた。下地さんは講義用の教科書の作成を私に依頼した。それまでの私は心理学に対して何の興味も持っていなかった。だが約束された経済的条件は、私にとって抗し難い魅力であったし、少し始めて見ると、忽ち面白くなってしまった。何でも直ぐに面白くなって、これに食いついてしまうというのは、私の最も不幸な傾向である。「心理学概論」の執筆を承知した日から今日まで、私は如何に多くのものに直ぐに興味を感じ、自分をこれに結びつけて来たことであろう。とにかく、私は、あの陰気な上野の図書館へ通って、滅茶苦茶に内外の文献を読み、それから得た知識に整理を施して、到頭一冊の本を作った。昭和四年十月発行で、菊判一六一頁、別に一三頁の文献目録、沢山の図版が入っている。全体は三部に分れ、第一部は「心理学の歴史」、第二部は「心理学の諸分科」、第三部は「精神機能一般」と題せられている。巡査のうちには、私の作った教科書を勉強した人間がかなりいるであろう。私は完成の後に百円の謝礼を貰うことになっていた。私はこれに誘惑されて書いたのである。しかし、結局、私は一文も受け取らなかった。私がこれによって得たものがあるとすれば、それは書物を道具として使うという淋しい態度だけであった。

 

 『清水幾太郎著作集』の著作目録(第19巻)には、下地寛令・清水幾太郎『心理学概論』(大学書房、1929年)が清水の事実上の処女作として記載されている(公式の処女作は昭和8年に理想社から出た『社会学批判序説』)。私はこの『心理学概論』を入手したくていろいろ捜しているのであるが、まだ入手できていない。なお、『社会学研究室の100年』には付録のCDが付いていて、卒業論文のタイトル一覧が収められているのであるが、そこに「下地寛令」という名前はない。おそらく大正13年に「社会事実の概念について」という卒論を書いて卒業した「井上寛令」という人が下地という家の養子になって「下地寛令」となったのであろう。

 卒業論文のタイトル一覧を見ていると、清水の2年先輩に松田金太郎という人がいて、「フィエ社会学の基本概念」という卒論を書いている。「フィエ」とはフランスの社会学者アルフレッド・フイエのことで、「フィエ」という表記に時代を感じるが、この松田という人物のことは清水の2冊目の自伝『私の心の遍歴』(1956年)に出てくる。

 

 昭和六年三月、卒業していく私たちのために、社会学科だけの内輪の予餞会が開かれました。送別会です。送られるのは私たち新しい卒業生で、送ってくれるのは研究室の諸先生や諸先輩と在学生諸君とです。私は新しい卒業生を代表してぎこちない言葉で挨拶を述べました。挨拶を述べている最中もそうであったのですが、この予餞会の席にいる間、私はちょうど一年前の予餞会、即ち、私たちが一年上のクラスの諸君を送った会の模様を思い出していたのです。型の如く、送る者の言葉、送られるものの言葉が述べられた後でヒョッコリ、新しい卒業生の間から松田君という人物が立ち上がりました。

 (中略)少し興奮しているようです。彼の話の大要は次の通りです。

 「僕は今日ほど嬉しいことはありません。実にサバサバした気持です。もうこんなところへ二度と来ないでしょう。一体、社会学研究室の空気は、あれは何ですか。あの薄暗くて冷たい空気は二度と吸いたくありません。どうして、研究室の人たちはあんなに冷酷で威張っているのでしょうか。僕たち学生はまるで虫ケラのような扱いしか受けていないではありませんか。一度でも暖かい目で迎えられたことがあるでしょうか。一度でも親切に世話されたことがあるでしょうか。しかし、もう、縁はありません。ああ、サバサバしました。」

 みんなギクリとしました。しかし、私たち学生にしてみれば、程度の差こそあれ、みんな同じ感想を持っているのです。私のように足繁く出入りしていた人間でも、暗く冷たい研究室の空気には閉口していたのです。みんな心の底にあることを、今、松田君がいってくれたのです。席にあった研究室の諸先生や諸先輩も、思い当たるところがあるのか、相手にしても仕方がないというのか、ニヤニヤ苦笑いするばかりで、この予餞会は白けきった雰囲気のまま会を閉じることになりました。

 それから一年経っています。私は新しい卒業生を代表して挨拶の言葉を述べました。今年は、前年の松田君のような発言をするものはいません。しかし、研究室の空気が格別明るくなっているのでもなく、暖かくなっているのでもありません。この明るくもなく暖かくもない研究室へ、私はこれから入って行くのです。心の中に小さな誇りもありますが、しかし、裏切りというのは大袈裟過ぎますけど、とにかく、仲間から離れて暗い冷たい空気の中へ入っていく淋しさを感じていました。

 

 清水が挨拶をした予餞会は、昭和6年2月20日午後6時から第6回東大社会学会を兼ねて工学部食堂で開催されたと『社会学研究室の100年』に記されており、3月の卒業生謝恩会(おそらく場所は本郷切通の「鳥又」であろう)のときの写真も掲載されていて、4月から研究室の副手になる清水が硬い表情で写っている。ところで、松田金太郎は清水の2年先輩であるから、自伝の記述との間には齟齬がある。1年先輩には松田という人物はいないが、益田舜之助という人物がいて「多数決について」という卒論を書いている。これは私の推測だが、前年の予餞会で研究室の冷たさを告発したのは「松田君」ではなく「益田君」だったのではないか。それにしても当時の東大社会学研究室の雰囲気をよく伝えているエピソードである。『社会学研究室の100年』の第Ⅲ部「社会学研究室関連資料集成」には清水の文章が三編収められているが、この文章はさすがに収めることができなかったのであろう。

 

12.13(月)

 午後、大学へ。来週の半ばから冬休みに入るが、その前にあれこれ片付けておかなくてはならないことがあり、今週は毎日大学へ出ることになりそうだ。いま大学では教員の勤務に関する規定が検討されている。その中に「授業期間中は、原則として週4日以上大学に出校するものとする」というのがある。私は授業で3日、会議等でもう1日出校というのが平均的なペースだから、この規定ができても困ることはないが、困る教員は少なくないのではなかろうか。授業も会議もない日に大学に来てどうしろというのだろう。もっとたくさん本や資料を置いておけるような広い研究室があるなら話は別ですけどね。出校したときに出勤簿に判を押せなんてことになったらイヤですね(そういう大学は多いのだが)。いまの時代、メールが普及していて、事実、大学からの各種の通知はメールでもらっているわけですから、授業や会議のない日に出校しなくても連絡が疎かになることはありませんよ。「週日においては、所在を本属箇所に通知し、大学からの連絡を受けられるようにしておかなければならない」というのもわからない。これって携帯電話というものがまだ存在しなかった時代の文章じゃないんですか? 「所在」を通知するということは、その場所(施設)の電話番号も一緒に添えて通知しなければ連絡の役に立ちませんが、「所在」ではなくて携帯電話の番号をお知らせしておけばそれですむ話ではないでしょうか。「授業期間中は、定常的にオフィスアワーを設けなければならない」というのも、「オフィスアワー」という横文字を使ってはいるけれど旧時代の発想です。学生が私に何か相談がある場合、まずはメールでその旨を申し込んでもらって、双方の都合のいい時間を調整して研究室に来てもらっています。いや、相談の何割かはメールのやりとりで済んでしまう種類のものです。「定常的」というのは「○曜日の○時から○時まで」というふうに面会の時間帯を固定するということでしょうが、そういうやり方では現場は立ちゆきません。全体として、いま検討されている諸規定は、世間的な目を意識したものばかりで、現場を知らない方々が会議室で作成されたものという印象を受けます。・・・・というような内容のことを、教員組合からのアンケートに書いた。

 

12.14(火)

 一昨日から父が風邪を引いて寝込んでいる。年寄りの風邪は油断できない。寝込む→食欲が落ちる→体力も落ちる→気力も衰える→なかなか風邪が治らない、という悪循環に陥りやすい。肺炎にでもなったら大変だ。近所の内科医院から車椅子を借りてきて、父をつれていく。レントゲンを撮って肺炎にはなっていないことを確認し、点滴を打ってもらう。点滴が終わるまでの間、ベッドの横の椅子に座って、大塚英志『物語消滅論』を読む。次回の大学院の演習の指定文献である。論の運びにいささか強引かつ断定的なところがあるが、随所になるほどと思わせる指摘があり、大いに参考になった。それはいいのだが、気づいたら点滴の容器が空っぽになっていた。