フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2005年11月(前半)

2005-11-15 23:59:59 | Weblog

11.1(火)

 午後から大学へ。途中で床屋に寄って散髪。「メルシー」で遅めの昼食(チャーシューメン)をとる。それから研究室で雑用を少々。6時半から研究室は調査実習のインタビューで使われるので、その前に部屋を出る。生協文学部店で、薄田泣菫『茶話』(岩波文庫)を購入。大正5年4月から「大阪毎日」夕刊に連載されたコラム。店を出て、記念会堂の前をしばらく歩いて、振り返ると、夜の校舎がなんだか巨大な戦艦のように見えた。

 

11.2(水)

 午前、麻酔科でレクチャーを受けてから、入院の手続き。本当は手術の前日でよいのだが、明日が祝日で、祝日は病院が休みで入院の手続きができないため、前々日の入院となったのである。しかし、今日明日の丸二日間を病院で過ごすのは退屈なので、病院で出された昼食(みそ味のミートスパゲッティ)を食べ、麻酔科の医師および手術室担当の看護師との面談を終えてから、午後3時ごろ、外泊許可をもらって帰宅。のんびりしようと思っていたら、父の腰痛が悪化して寝床から起きられないというので、近所の内科医院に相談に行った。大先生(老院長)がその場で近所の整形外科医院のこちらも老院長に電話を入れて往診を頼んでくれ、本来の往診時間ではないのにすぐに往診に来てもらえることになった。整形外科医院に行って、院長と看護師を家まで案内する。診療の結果、座骨神経痛だろうということになり、とりあえず注射(針が長い!)を2本打って、薬を処方してもらった。明後日また往診してもらい、起きあがれるようになったらレントゲン等の検査をしましょうということになった。近所の開業医のありがたさを感じた。往診の依頼をしてくれた内科医院にビール券をもってお礼に行く。家に戻ると、勝手口のところに二匹の仔猫が来ている。最近、ちょくちょく母猫に連れられてきているという話は母から聞いていたが、実際に見たのは初めてである。白と薄茶のかわいい仔猫である。母が餌をやると、待ってましたとばかりによく食べる。母猫は自分は食べずに仔猫たちが食べるのを側で見ている。大したものだと思う。『蛍の墓』のあの兄妹も、母親が生きていたら、あんなことにならずにすんだのにと思ってしまう。

 

11.3(木)

 昨日届いた「清水幾太郎における戦中と戦後の間」(論文C)の初校の校正。5箇所ほど訂正して、返送する。病院に持っていく本を選ぶ。小沼丹『黒と白の猫』、加藤周一『日本その心と形』、新井敏記『人、旅に出る』の3冊。ギデンズ『社会学』は17章「宗教」の部分だけをコピーして持っていく。週刊誌は病院内の売店で買える。夕方、病院に戻る。

 

11.7(月)

 術後の感染症もなく、点滴も外れたので、本日退院。いい天気だったので、荷物は妻に自転車で運んでもらい、病院から自宅へ20分ほどかけて歩いて帰る。数日、自宅で静養して、木曜日(卒論指導と二文の基礎演習がある)から職場復帰しようと思うが、明日のカリキュラム委員会はどうしよう(明日ないし明後日の退院の予定でいたので、欠席の通知を出していた)。委員長の安藤先生に退院の報告のメールを出したら、議題山積でストレスからまた一日で結石ができるといけないから無理はしないでくれと返事があった。加えて、5日に封切りとなった『ALWAYS 三丁目の夕日』を私が入院中は「映画断ち」をしてまだ観に行っていないとも書いてあった。昭和30年代的友情の表現である。わかった。明日は大学までは出て行かず、途中の有楽町で下車して、彼の代わりに『ALWAYS 三丁目の夕日』を観ることにしよう。入院中は、雨の日曜日を除いて、ずっといい天気だった。これが「HOSPITAL 2号館9階の夕日」である。留守中に届いていたメール(217通。ただし8割はウィルスがらみか出会い系のメール)のチェックをすませて、夕方、駅の方に散歩。栄松堂と熊沢書店で、朱川湊人『都市伝説セピア』(文藝春秋)、宮崎勇『証言 戦後日本経済』(岩波書店)、『12の現代俳人論』上下(角川書店)、草森紳一『随筆 本が崩れる』(文春新書)を購入。海老屋で鱈子の佃煮とふき豆を100グラムずつ購入。明日の朝食の楽しみとする。

 

11.8(火)

 昼から大学へ出る。退院翌日だから、本当は自宅で安静にしているべきところなのだが、カリキュラム委員会のことがやはり気になるのである。蒲田駅のホームで電車を待っていたら、手術したあたりに痛みを感じる。売店でポカリスエットを買って、鎮痛剤を二錠飲んだが、すぐには効いてこない。電車はけっこう混んでいて、坐る場所はない。「病み上がり」も優先席に座る資格のある人間として、イラストに加えてもらえないだろうか。幸い品川で目の前の席が空いたので、腰を下ろすことができ、ホッとする。研究室に着いても痛みがとれないので、このまま家に帰って寝た方がいいんじゃないかと思ったが、「五郎八」で昼食(天せいろ)を食べたら、急に痛みが小さくなった。これなら大丈夫と、午後3時からのカリキュラム委員会に出席。終わったのは6時近かったが、なんとかこなせた。夜、『ミリオンダラーベイビー』をビデオで観る。クリント・イーストウッドとモーガン・フリーマンが渋かった。ヒラリー・スワンクのボクシングはとてもさまになっていた。イーストウッド演じるボクシングのトレーナーが教会のミサに熱心に出席し、神父にあれこれ質問する姿を見ていたら、ギデンズが『社会学』の中で、米国は近代化が徹底的に進んだ国であると同時に、人びとの宗教的信念や宗教組織への加入も世界の最高レベルにある点に大きな特徴がある、と述べていたのを思い出した。

 

11.9(水)

 朝、5時半に目が覚める。なんでこんな時刻に目が覚めるのだろうと思ったら、手術したあたりがシクシク痛いことに気がついた。痛みで目が覚めたのだ。坐薬を使うと、30分ほどで痛みが消え、再び眠りに就く。次に目が覚めたのは、9時半。蒲田宝塚で『ALWAYS 三丁目の夕日』をやっているので、10時半からの回に間に合うべく家を出る。朝食をとっている時間がなかったので、途中の鈴木ベーカリーでハムカツパン、ウィインナーパン、チョコパン、缶の紅茶を買っていく。レディースデイということもあってか、場末の映画館の平日の初回にしては、そこそこの観客がいた。映画の冒頭の一連のシーンの中に蛾をヤモリがパクッと食べるCG映像があったが、これを観たとき、私は「ジュラシックパークだ」と思った。そう、この映画は一種の『ジュラシックパーク』なのだ。スピルバーグの『ジュラシックパーク』がジュラ紀の地球をCGを駆使して再現したものであるのに対して、『ALWAYS 三丁目の夕日』はセットとVFX技術を駆使して昭和33年の東京の下町を再現したものである。中心的な登場人物の一人である鈴木オートの主人(堤真一)が集団就職でやってきた女の子(堀北真希)と口論になって、激怒したときの様子は、明らかにゴジラ(昭和29年に初めて銀幕に登場)を意識したもので、「やっぱり、ジュラシックパークだ」と私は思った。映画は最初から最後まで懐かしい映像のオンパレードである。ただし、その懐かしさは、たとえば小津安二郎の『東京物語』を観るときに感じる懐かしさとは異質なものである。『東京物語』は現代劇として作られた。昭和28年の東京(と尾道と熱海)で展開される家族の物語を昭和28年に撮ったものである。当時の観客たちは『東京物語』に「東京的なもの」を感じても、「古き良き時代」を感じることはなかった(少なくとも私たちが感じるよう感じることはなかった)であろう。いくら巨匠小津といえども、50年後の観客が懐かしさを感じるであろうことを計算して撮っていたとは思えない。これに対して、『ALWAYS 三丁目の夕日』は時代劇である。それも「古き良き時代」という「時代」そのものが主役であるような時代劇である。そこには徹底した懐かしさの演出がある。懐かしさの演出は、第一に、ディテールへの徹底的なこだわりであり、第二に、商店街のセットに施されたセピア的汚れである。観客はセピア色の写真のそこかしこに配置された細々としたアイテム(そこには人びとの身体所作も含まれる)に懐かしさを発見しては(発見しやすいように置かれているのだ)、「ああ、そうだった」と懐かしがるゲームに参加しているようなものである。ここでは、映画のストーリーそのものはそれほど重要なものではない。ストーリーは懐かしさのアイテムをあちこちに配置するための通路のようなものである。誤解のないように言っておくが、ストーリーがつまらないと言いたいわけではない。独創的なストーリーではないが、大衆演劇の王道を行く、旅芸人の一座の芝居のような、人情味あふれたストーリーである。実際、私は何度か涙をこぼしそうになり、反射神経的にそれを堪えていたが、最後の最後、母親に捨てられた少年が駄菓子屋の主人(吉岡秀隆)の元から実父を名乗る男に引き取られていく場面では涙を堪えることができなかった。日本人の伝統的な涙腺のツボを心得たストーリーである。つまりストーリーそのものも懐かしさを演出するアイテムの1つなのである。映画が終わり、館内が明るくなると、そこには懐かしさを満喫した人びとの顔があった。本当は、当時の日本人があんなに人情味があって生き生きと生きていたわけではないことはみんな知っている。でも、これはドキュメンタリー映画ではない。現実の再現ではなくて、郷愁の構築である。それを承知の上で昭和版「ジュラシックパーク」を楽しんだのである。帰宅し、昼食をとってから、父親を車椅子に乗せて近所の整形外科医院に連れて行った。車椅子を押しながら、映画の中の時代からずいぶんと遠くまで来てしまったのだなと感じた。最後に、ディテールに関して苦言を一つだけ。原っぱの土管の上に「坐って」チャンバラ遊びをしている子供たちがいたが、チャンバラ遊びというのはあんなにナヨナヨしたものではない。子役の子供たちに怪我をさせてはいけないという配慮が働いたものと思われるが、当時の子供たちにとって、チャンバラ遊びは機動隊(鉄棒)と全学連(角材)の衝突のように命がけのものだった。だから弱虫な私はチャンバラ遊びにはめったに加わらず、女の子とママゴト遊びに興じていた。あっ、それから、最後の最後にもう一つだけ。昭和33年のクリスマス、東京に雪は降らなかった。東京のホワイトクリスマスって何十年に一度しかないのではなかろうか。

 

11.10(木)

 今日から本格的に職場復帰。5限と6限は卒論演習。通常は3人報告なのだが、期限も迫ってきているので、4人報告。余分な枝葉を刈り込んで、問題→考察→結論という筋道のスッキリしたものに仕上げることが肝心。ただし、考察はねばり強く。アッサリしていることとスッキリしていることとは違うので、勘違いしないように。ミルクホールでパンを一個買って、自動販売機の珈琲で胃に流し込んで、7限の社会人間系基礎演習に臨む。今週からグループ発表始まる。最初の報告は「宗教」がテーマ。ニヒリズムに陥った人びとを社会へと再適応させる機能をもった「トンネル型宗教」という概念をめぐって活発な質疑応答が行われた。授業時間を20分延長して9時半までやる。午後3時頃に飲んだ鎮痛剤の効果が薄れてきて、脇腹が少々痛むが、帰りの電車は東西線も京浜東北線も座ることができたので助かった。蒲田に着いてから、坂内食堂の喜多方ラーメンと半チャーハンを食べる。消化器系の病気ではないので、食事は普通にできるのが不幸中の幸いである。帰宅して、風呂を浴び、メールを何通か書き、疲れたのでフィールドノートの更新は明朝ということにして、就寝。

 

11.11(金)

 自宅で昼食(おでん)を食べてから大学へ。3限の大学院の演習では、I君が1950年代の日本の家族社会学の状況について報告した。5限の調査実習では、私がTVドラマ『あいのうた』と『野ブタ。をプロデュース』の比較分析を行ってみる。『あいのうた』が正統(玉置浩二)VS異端(菅野美穂)というはっきりした構図の下で展開する(正統の勝利に終わることが明々白々な)ドラマであるのに対して、『野ブタ。をプロデュース』では主役の3人の高校生(亀梨和也、山下智之、堀北真希)のいずれもが異端の位置にいる。現実への適応能力でいえば、亀梨が一番あるのだが、同級生らとの対人関係をすべて一種のゲームと考えており、「クールで面倒見のいい桐谷修二」を意識的に演じている(皮相な人間関係を生きている)点は正統とはいいがたい。現代社会では正統であることはむしろ生きにくさにつながる。なぜなら現実の社会ではある種の異端的イデオロギーが幅を効かせているからだ。したがって『野ブタ。をプロデュース』では、たんに二人の男子学生が一人の女子学生の生き方を変えていく(プロデュースする)というだけでなく、男子学生自身も自分のこれまでの生き方を反省して、正統に接近していく(生き方を変えていく)という展開になるはずである。

いま午後11時を少し回ったあたり。いつもなら午前2時を回るころに就寝というパターンが多いので、まだまだこれからという時間帯なのだが、今日はかなり眠くなっている。起床が午前5時半と早かったからだ。入院中のパターンが続いている感じである。夜が明ける頃に起きるというのは気分的には悪くない。ただし、結果として、夜が早く眠くなる。いまどき中学生だって午後11時には寝ないだろう。でも、その方が健康的かもしれない。うん、明日は2限から授業があることだし、眠気に逆らわず寝ることにしよう。

 

11.12(土)

 講義が3つ(2限、3限、6限)。4限と5限の時間帯に会議が1つ(社会学年誌編集委員会)と学生の面談が1つ。なかなかハードな一日である。講義は椅子に座って話そうかと考えていた。3分の2くらいの時間で切り上げてもいいかなとも考えていた。しかし、結局、いつもどおり、立ったまま、時間いっぱいまで話をした。教師の習性としかいいようがない。「五郎八」で夕食(天せいろ)をとって、帰宅。風呂を浴び、録画しておいた『野ブタ。をプロデュース』を観て、十二時前に就寝したが、夜中に鎮痛剤の効き目が切れ、目が覚める。左の腎臓から膀胱までの尿管に人工の管(ステント)が挿入されているせいで炎症が起こっているのである。この管が抜けるまでにはいましばらくかかる(尿管の狭くなっている箇所をレーザーメスで切開したので、その傷が修復される際に癒着を起こさないように)。それまでは痛みと血尿に付き合っていかなくてはならない。鎮痛剤は効き目が切れかかっているときに使うと効果がすぐに表れるが、完全に効き目が切れてからだと効果が表れるまでに少々時間がかかる。ひたすら蒲団の中でじっとしているしかない。パスカルは虫歯の痛みを紛らわすために数学の研究をしたと伝えられているが、嘘に決まっている、と思う。

 

11.13(日)

 日曜日は当面の仕事と関係のない本を読むことが多い。今日は加藤周一『高原好日』(信濃毎日新聞社)を読んだ。彼の自伝『羊の歌』(岩波新書)を読んだのは大学生になって間もない頃だった。高校時代の友人(偶然だが「加藤」という名前だった)に勧められて読んだのだが、日本語で明晰にものを書くということの一つの見本のような文章で、かなりの影響を受けた。また、学問の専門分化という時代の趨勢に反して、私が「非専門分化の専門家」たらんことを志して人文専修へ進むことを決めたのも加藤の影響が大きかったと思う。『羊の歌』には加藤が少年の頃から夏をそこで過ごした信州浅間山麓の追分村のこと、そこで出会った人びとのことが書かれていた。堀辰雄、立原道造、中野好夫、福永武彦、中村真一郎・・・・、『羊の歌』が書かれた当時(1968年)、彼らの多くは存命中であった。しかし、いまは、そのほとんどが故人となっている。加藤自身も80歳代の半ばを迎えている。『高原好日』は『羊の歌』で取り上げた人びとを再び取り上げて綴られた回想録であるが、それは追悼集のようでもあり、「白鳥の歌」のようでもある。早稲田大学の軽井沢セミナーハウスは旧称を追分セミナーハウスといい、私は何度か訪れているので、加藤が描写している信濃追分の風景には親しみがある。『高原好日』の109頁にはアメリカ文学の研究者である橋本福夫が信濃追分の駅のホームに立っている写真(1970年ころ)が載っているが、そこに写っている木造の待合所のことは記憶に残っている。10年ほど前になるだろうか、合宿を終えて、東京に帰るときに、その待合所のベンチに鞄(ノートパソコンが入っていた)を置いたまま列車に乗ってしまい、途中でそれに気づき、あわてて、学生たちと別れてひとり信濃追分に引き返した。幸い、鞄は誰に持って行かれることもなく、待合所のベンチにあったが、列車の本数が少なかったので、私は長い時間そこで列車を待つことになった。誰もいない高原の小さな駅のホームの待合所で書いた何枚かの絵葉書のことをいまでも覚えている。

 

11.14(月)

 有隣堂と栄松堂を回って自宅で使う来年のカレンダーを購入。手帖コーナーにはたくさんの手帖が並んでいるが、2007年3月末までのスケジュールが記入できるものでないと、私のように年度単位で仕事をしている人間には使い勝手が悪い。しかし、ほとんどの手帖は2006年12月末までのスケジュールしか記入できず、検討対象外。結局、来年も大学から支給される手帖(早稲田大学仕様の能率手帖)を使うことになるだろう。父親がこのところ腰痛で半寝たきり状態なので、本当の寝たきりになるにならないように、起きているときに楽な椅子(食卓の椅子は長時間座っているには硬いし、掘り炬燵の座椅子は立ち上がるときに力がいる)をということで、無印良品のリクライニング・チェアを購入。買い物を済ませてから、金子務『アインシュタイン・ショックⅠ 大正日本を揺るがせた四十三日間』(岩波現代文庫)をカフェ・ド・クリエで読む。アインシュタインは大正11年11月18日に雑誌『改造』の招待で日本を訪れて、43日間滞在し、熱狂的な歓迎を受けた。その熱狂振りはおそらく大正4年9月5日の野口英世の凱旋帰国のときに匹敵するものであったろう。本書は数多のアインシュタイン伝では空白となっている日本滞在期間中のアインシュタインについて、未公開資料であった「訪日日記」を手がかりに、丹念に追跡したノンフィクションで、実に面白い。それにしてもどうしてわれわれはこんなにもアインシュタインが好きなのであろう。

 

11.15(火)

 会議の一日。社会学専修教室会議、社会人間系専修委員会、そして教授会。最初の会議が始まったのが午前11時で、最後の会議が終わったのが午後6時過ぎ(ただし、私は学生の面談があって6時に会議室を出た)。帰り道、あゆみブックスで『アインシュタイン・ショックⅡ 日本の文化と思想への衝撃』(岩波現代文庫)を購入し、電車の中で読む。当時(大正後期)、アインシュタインはレーニンと並んで人気が高かった。ロシア革命が地上の革命で、相対性理論は天上の革命であったわけだ。アインシュタインの訪日を実現させたのは雑誌『改造』の主筆山本実彦であったが、大逆事件以後の「冬の時代」を乗り越えて、当時の日本は社会改革への気運にあふれていた。ここでは相対性理論の「相対性」という言葉が、新鮮な響きをもって、既存の社会体制の絶対性へのアンチテーゼであるかのように受け取られたのである(こういうことってしばしばある。たとえば、先行き不透明な時代にハイゼンベルクの不確定性原理が脚光を浴びるとか)。夜、喪中(1月に妻の父が亡くなった)の挨拶の葉書を妻がワープロで印刷。今年の年末は年賀状書きのない年末である。