2.1(水)
午前10時から一文の卒論口述試験。試験といっても、ピリピリしたものではなく、提出された卒論を読んだ感想を教員が学生に話す(若干の質問を含む)場である。11名の学生に対して1人15分程度で、終わったのは午後1時半。文カフェでカレーうどん(コロッケをトッピング)を食す。午後2時から教室会議。各教員の卒論の評価のすり合わせ。今年は90点以上の卒論は出なかった(最高点は88点)。社会学専修は伝統的に卒論の評価が辛いのである。午後2時半から新学部の基礎演習のあり方についての検討会。午後4時から入試関連の会議。午後6時から二文の卒論口述試験。担当学生は2名なので、カフェ・ゴトーで行う。午後8時終了。1人平均1時間は一文と比べてずいぶんと贅沢である。ココアと紅茶とチーズケーキを食す。夕食は蒲田に着いてから「とん清」のヒレカツ定食。卒論関連の仕事が終わってほっと一息。
2.2(木)
午前10時から研究室で調査実習のブログ班の原稿の検討会。最初から読みながら随時私が気づいた点をコメントしていく。3分の1ほどいった辺りで、班長のMさんが「全面的に書き直したい」と言い始め、他の班員もそれに追従したので(追従の積極さには個人差があるようだったが)、そういうことになった。一年間の実習の成果だから自分たちが納得できるものに仕上げたいという気持ちと、就活が忙しくなってきたので早く手放したいという気持ちが、綱引きをしているというのが例年この時期の実習の学生たちの心境であろう。そしてたいていは後者の気持ちが勝って、作業に終止符が打たれ、一応体裁は整っていますというレベルの原稿が「完成」するというのがよくあるパターンで、近年、そういうパターンを見慣れている私には、今日の情景はちょっと感動的だった。
五郎八で昼食(天せいろ)をとり、シャノアールで持参した雑誌『at』2号に載っている上野千鶴子「ケアの社会学 第一章ケアに根拠はあるか」を読む。マルクス主義フェミニズムの理論では、育児は再生産労働とみなされる(子どもという次世代の労働力の育成)。では、高齢者介護はどうか。介護される高齢者はすでに労働市場を退いた人たちである。介護は高齢者の労働市場への復帰を目的とはしていない(病気や怪我で一時的に労働市場から退いている人の看病との違い)。だから高齢者介護は再生産労働の範疇には入らない、というのが『資本制と家事労働』(1985)での上野の見解であった。しかし、その後、高齢者介護が家庭内での大きな負担になってきているという現実を考慮せざるをえなくなったためであろう、『家父長制と資本主義』(1990)では介護を再生産労働の一部に加えている。大岡頼光は『なぜ老人を介護するのか』(2004)の中で、上野が理論的な説明なしに介護を再生産労働の一部に加えたことを批判している。今回の上野の論文は、この大岡の批判に答えること、つまり介護を再生産労働とみなすことの理論的根拠を示すことを目的に書かれたものである。簡単に言えば、生産・再生産のサイクルには「生産・流通・消費」という過程だけでなく、「移転・廃棄・処分」という過程があり、マルクス主義フェミニズムが高齢者介護を再生産労働とみなさなかったのは後者の過程を看過していたからであるということになる。資本主義社会は再生産労働を市場の外部(すなわち家庭の内部)に押しつけることで、つまり主婦が担当する不払い労働とすることで、市場を維持してきた。再生産労働は「外部コスト」であった。しかし、育児に関しては、その市場化や社会化がすでに実践されている。育児と比べると、高齢者介護の市場化や社会化は遅々として進んでいない。「高齢者の介護は家族が行うのが一番」という考え方が支配的である(介護保険制度は在宅介護を経済的にサポートする制度である)。上野がこれから展開していこうとしている議論は、この支配的な考え方への異議申し立てである。
夕方まで試験の採点。帰宅すると、父の要介護認定(区分変更)の通知が役所から届いていた。これまでの「1」から「5」へ要介護度が変更されていた。これには驚いた。「1」のままということはありえないと思っていたが、審査基準が厳しくなってきていると聞いていたので、せいぜい「3」止まりだろうと予想していたのである。それが「5」とは・・・・。母は喜んでいるが、「在宅介護以外に選択肢はありえませんから」と言われているような気がする。
2.3(金)
午前11時から研究室で調査実習の音楽班の原稿の検討会。あれもこれもと盛り込んだその結果、議論の流れがはっきりしなくなっている。仕入れた知識を全部使おうとすると往々にしてこういうことになる。インプット量とアウトプット量の差は大きい方がひきしまった論文になる。A4で100ページ書けそうな知識を使って30ページの原稿を書くつもりでやるとちょうどよい。終わってから、みんなで五郎八に食事に行く。私が天せいろを注文すると、全員私に倣って天せいろを注文。ただしWさんは蕎麦ではなくてうどんで。そのWさんが「みんなは海老天の尻尾は食べないの?」と聞いていた。見ると、私を含めて、Wさん以外は海老天の尻尾は残している。しかし、Wさんにそう聞かれて、「家で食べるときは尻尾まで食べる」と言いながら、みな尻尾を食べ始めた。私は家で食べるときもやはり尻尾は残すが、みんなを真似て食べてみた。かっぱえびせんのような味がした。午後3時から小説班の原稿の検討会。接続詞「また」の使い方に問題があり、正しい使い方についてレクチャーする。段落とは思考の単位であり、その単位を連結するのが接続詞である。接続詞の使い方が適切な文章は安心して読むことができる。2時間ほど経過したところで、場所を研究室からカフェ・ゴトーに替えて、7時まで行う。外に出ると風がずいぶんと冷たかった。明日は冷え込むだろう。ところで、今日は「恋愛」のイメージに関して私と学生たちとの間に違いがあることがわかって興味深かった。私は「恋愛」というのは相互行為的なものだと思っているが、今日の学生たち(女子学生が多い)は「片思い」という一方的かつ非表出的感情経験も「恋愛」に含めて考えている(私の感覚では、それは「恋愛」というよりも「恋心」と呼ぶ方が相応しい)。ちなみに『広辞苑』で「恋愛」を引くと、「男女が互いに相手をこいしたうこと。また、その感情。」とあり、私の考えと同じである。いつだったか、授業中に、私が「Jポップは恋愛ソングばかりだけれど、実際には、みんながみんな恋愛をしているわけではないよね」と言ったところ、「私は恋愛しています」という反応が圧倒的で驚いたことがあるが、なんだ、「片思い」も「恋愛」に含めていたのか。どうりで「恋愛」のインフレが起こるわけだ。
2.4(土)
寒波到来。コートの襟を立てて家を出る。午前11時から研究室で調査実習の映画・TVドラマ班の原稿の検討会。2時間ほど経過したところで五郎八に昼食を食べに出る。昨日の音楽班は全員私と同じ天せいろを注文したが、今日は私と同じ天せいろは一人だけで、あとは鴨せいろが三人、鴨南蛮が一人。今日は天ぷらよりも鴨に人気が集まった。会計のとき店員さんに「先生も大変ですね」と言われる。どうも支払いのことを言っているらしい。カフェ・ゴトーで原稿の検討会を続ける。そして会計のときやはり店員さんに「先生も大変ですね」と同じことを言われた。どうも皆さん早稲田大学の教員の給料を過小評価しているようである。銀座の高級クラブの支払いならいざしらず、たかが蕎麦屋、たかが喫茶店の支払いである。心配していただくには及ばない。1週間ほど本の購入を控えればいいだけのことである。夜、2002年度に私が担当した二文の基礎演習の学生たちの飲み会に参加。彼らの多くはこの3月で卒業である。あのときの一年生がもう社会人である。学生たちで賑わう高田馬場の駅前の情景は相も変わらずのように見えて、集まり散じて人は変わっているのだ。
2.5(日)
鼻風邪を引いたようである。以前、耳鼻科でもらった薬が残っていたので、それを飲んで蒲団にもぐっていたら、夜には回復する。風邪はこじらさないことが肝心である。大学から入試の試験監督の実施要領が届く。「当日の服装は、スーツまたはそれに準じる服装でお願いします」と書かれている(それも太字で!)。去年もこんなこと書いてあっただろうか。記憶にないのだが・・・・。試験監督というのは来賓席に座っているわけではないのだから、動きやすくい、疲れない普段の服装(私の場合はセーターにジャケット)が一番で、スーツなんて論外である。では、「それに準じる服装」とは何か? 「ジャケットを着なさい」という意味か? それとも「ネクタイを締めなさい」という意味か? 私はセーターは丸首を愛用しているので、ネクタイを締める必要はない。そもそも、こんなところでハイハイと言いなりになっていると、そのうち普段の授業も「スーツまたはそれに準じる服装」を要求してきそうな気がする。組織というものは、一旦作動しはじめると、どんどん管理的になっていくものである。思えば、私が大学教師になった10の理由のうちの一つは、「ネクタイを締めて仕事をしなくてもいい」ことだったのだが、大学もだんだん住みにくい場所になっていくのだろうか。フロイト流に言えばネクタイはペニスの象徴だが(ああ、恥ずかしい)、社会心理学的には組織への服従の象徴であり、したがって一種の踏み絵としての機能をもつのである。
2.6(月)
一階のベランダに住みついた猫たち。寒波に負けず、元気である。すっかり表情の乏しくなってしまった父も、この猫たちを見ると微笑む。そんな父の姿を見ると、猫たちに感謝したくなる。この写真を撮った後、硝子戸を開けて、千切ったハムを与えたところ、座敷まで上がり込んで奪い合うようにして食べていた。池の鯉にお麩を与えたときのようであった。今日は一日自宅に籠もって、ようやく試験の採点を全部終わらせた。明日、採点簿を事務所に提出する。締め切り(2月1日)に遅れること6日は例年並みである。
2.7(火)
午前10時から戸山図書館運営委員会。12時から現代人間論系運営準備委員会(前の会議が長引いて30分ほど遅刻)。昼食はコンビニのお握り3個ですます。午後2時から研究室で調査実習の広告班の原稿の検討会。2時間が経過したところで場所をカフェ・ゴトーに移してさらに2時間。広告が扱っている商品そのものと人生の物語の結びつきについてもっと考察するように注文する。缶コーヒーのコマーシャルはなぜサラリーマンの物語と結びつくのか。携帯電話のコマーシャルはなぜ家族の物語と結びつくのか。そうした問いを徹底的に深めていってほしい。そこに読者を道連れにすること。A4用紙30ページ(400字詰め原稿用紙に換算して約100枚)の文章を最後まで読んでもらうためには相当の努力と工夫を必要とする。私は立場上、最後まで読むが、普通の読者は面白くなければいつでも途中で読者であることをやめてしまう。読者に面白がってもらうためには、何よりも先ず、書き手自身が自分の文章を面白いと思えなくてはならない。その上で、読者にも面白いと思ってもらえるためにはどうしたらいいかという話になる。今日で、5つの班すべての初稿に目を通したわけだが、努力感なしに(面白さに引きずられて)最後まで読めた原稿は一つもなかった。それは工夫の不足というよりも、それ以前の、書き手自身が自分の文章を面白いと感じていないことが理由である。たぶん、これまでの大学生活でそんなレポートばかり書いてきたのだろう。しかも面白くないレポートに対して率直に「面白くない」というコメントを返す教員に出会わなかったのであろう。「面白くない」というコメントを言うときには、教員の側にもそれなりの覚悟がいる。そう言い放った以上は、面白くなるまで付き合う覚悟がいる。面白くないレポートを書いても、「面白くない」と指摘されることがなければ、レポートとはそんなものだという感覚が定着してしまう。そういう感覚を学生と教員が共有する中で、毎学期、量産されるレポート、レポート、レポート。恐るべき時間とエネルギーの浪費。しかし、今年度の調査実習のクラスは、「面白くない」というコメントを言ってもいいかなと思えるクラスである。もっと掘り下げること、食い下がること、そしてはじけてみること。どこのだれでも言いそうなことを言って、満足しないこと。満足したフリもしないこと。報告書に次号はない。創刊号が終刊号である。ここで書かずにどこで書く。
2.8(水)
暖かな一日。硝子戸の側の日当たりのいい場所にリクライニングチェアをもってきて、父を座らせる。父は黙って外の景色を見ている。猫たちはどこかへ出掛けてしまたったようで、姿が見えない。私がベランダに出て、「お~い」と呼ぶと、ほどなくして姿を現した。父も猫に気づき、景色を眺めているときよりも焦点の定まったまなざしを猫に向ける。「この二匹はきょうだいなんだ」と私が言うと、父はうなずき、「似ている」と言葉を発した。意外にしっかりした発音だ。昼食はその場所で食べてもらう。たこ焼きを一個(タコは噛めないので取り除いたもの)、カステラを小さく千切ったものを二個、水餃子を一個(中身の挽肉は噛めないので取り除いたもの)。これでも、ベッドで食べるときよりは、よく食べたといえる。老衰というのは、生命力の全般的低下である。食べなくなり、歩かなくなり、尿の出がわるくなり、話さなくなる。すべては連動している。逆に言えば、一つが回復すると、すべてが回復へ向かう。何をどのくらい食べたかが、いまの父に対する母の最大の関心事であり、あれこれ工夫して食事を作っている母は、父の食欲に一喜一憂している。いや、喜ぶことはめったにない。たいていは落胆し、機嫌が悪くなり、父を叱咤し、私に愚痴をこぼす。すなわち、土星とその輪のように、父の食欲と母の機嫌も連動している。「そんなにムキになって食べさせようとしなくてもいいのではないか」と私が言うと、「食べなくちゃ死んでしまう」と母は言う。それはそうなのだが、一体、父の回復の可能性を母は信じているのだろうか。私は父の介護は最後の看取りのつもりでやっている。小さな上下動はあっても、父はすでに不可逆的な下降のプロセスの中にいるというのが私の認識である。母も基本的にはそのことを理解しているはずである。しかし、理解していることと、納得していることは、別なのであろう。誰かから、「これを飲んで再び歩けるようになった人がいる」と栄養剤のようなものを薦められると、父にもそれを飲まそうとするし、医者に往診に来てもらって元気の出るような何かしらの治療をしてもらおうとする。どうしてもジタバタしてしまう。私は冷たいのだろうか。たぶん、適度に大学へ出ているので、母のように連日、終日、父と向き合っていないで済んでいるから、冷静でいられるのであろう。
2.9(木)
岩波ホールで野村恵一監督作品『二人日和』を観た。藤村志保と栗塚旭演じる老夫婦が主人公。不治の病にかかった妻を夫が看病する物語。と書くと、陰々滅々たる印象を与えるかもしれないが、そこに若い男女の物語が交錯し、古都京都の町並みと四季の風景が織り込まれ、重苦しい空気が沈殿しないような演出がされている。観客は高齢の夫婦あるいは高齢の女同士が大部分を占め、私などは若僧の部類に入る。これまで観た映画の中で一番観客の年齢の高い作品である。それにしても、藤村志保は上品で艶があり、栗塚旭にはショーン・コネリーのような風格がある。こんな老夫婦はめったにいないだろう。映画を観終わって、その足で大学へ。今日は大学院の博士課程の入試がある。五郎八で昼食(揚げ餅うどん)を食べ、午後3時からの採点作業に臨む。今回の受験者は6名であった。午後5時からカフェ・ゴトーで3年前に文学部の文芸専修を卒業したYさんからの「取材」に応じる。Yさんは現在あるライター講座に通っているのだが、その卒業制作で、インタビューをからめた記事を書くという課題に取り組んでいるところなのである。カフェ・ゴトーで2時間、五郎八で2時間、さらにシャノアールで1時間半、計5時間半のロングインタビューであった。もっとも私が話している時間より彼女が話している時間の方が長かったのであるが・・・。
2.10(金)
近所の耳鼻科の待合所で日誌(ほぼ日手帳)を付けていたら、隣に座っていたお婆さんが、「旦那さん、日記を付けてるの?」と聞いてきた。「はい」と答えると、「男の人で日記を付けてるなんて、えらいわねえ」とほめられた。そして「日記を付けてると字を忘れないですむから。呆けの防止になるから」と付け加えた。これからも頑張って続けるのよ、という感じが漂っていた。まだ何か話したそうだったが、受付の人に名前を呼ばれて診察室に入っていった。
妻が書斎に珈琲の入ったカップを持ってきてくれたとき、机の上に置かれていたほぼ日手帳に気づき、「買ったんだ・・・・」と言いながら、それを手に取った。何だか開いて読みたそうな雰囲気が漂っていた。どうして女は他人の日記に関心を示すのであろう。いや、男だって他人の日記には関心がないわけではない。ただ、そうした関心をあからさまに表出したりはしない。儀礼的無関心(civil inattention)を装うのが普通だ。他人の内面に踏み込むことを男は失礼なことだと考え、女は親しさの現れと考えているのかもしれない。まあ、一般論ですけどね。
2.11(土)
暖かな一日だった。午後5時頃、散歩に出る。まだ明るい。ずいぶんと日が長くなった。TSUTAYAでコブクロのアルバム『NAMELESS WORLD』を借りる。彼らの曲は概して物語性が強いが、今回のアルバムには無名時代の自分たちを振り返るというまなざしが内在しているため、物語性が一層際立っている。たとえば、一曲目の「FLAG」は、彼らが路上をステージにしていたときのことを歌った7分22秒のスケールの大きな曲だが、最後はこんな風に終わる。
掲げた旗に どんな風が どんな歌が
どんな時代が どんな願いが 吹くのだろう?
どこにいたって 君の目に 映るように
今 持てる 目一杯の力で 振りかざしていたいな
歪んだアスファルト ボロボロのスニーカー
騒がしいビル風 人が行き交う
蹴飛ばされて凹んだ Guitar Case
いつの間にか こんなに歩いてきたっけ
成長の物語である。この健全な精神は70年前後のフォークソングと相通じるものがある。だから、その時代に青春を送って、いま年頃の娘のいる男が、娘の彼氏がコブクロ(の一人)であると知ったら、きっと安心するだろう。尾崎豊では心配だ。長渕剛ではもちろん心配だ。槇原敬之でもやはり心配だ。しかし、コブクロなら安心して娘を任せることができる。彼らの歌はそういう歌である。ワルぶったところ、斜に構えたところ、すさんだところがまるでない。あえていえばそのへんがもの足りないともいえる。好青年は表の顔で、裏では何かいけないことをしているのではないか、と勘ぐってみたくなる。父親とはそういうものである。話が横道に逸れてしまったかもしれない。
2.12(日)
風の冷たい一日だった。川越に住む私の妹が昨日来て父の介護をし、一泊して帰っていった。帰るとき、父がかすれた声ではあったが「気をつけて」と言ったので、少し安堵する。他者への配慮が働いた言葉が出ているうちは大丈夫だと思った。
全日本ラグビー選手権準々決勝、早稲田対トヨタの一戦をTV観戦。早稲田の4点リードで迎えたロスタイムの2分間の攻防、とくに最後のワンプレーの長かったこと。プレーが途切れたらその瞬間に試合終了なのだが、トヨタのプレーはなかなか途切れない。だんだん息苦しくなってきた頃に、ついにトヨタの選手にノックオンが出て、試合終了。いや~、手に汗握るいい勝負だった。
韓国映画『春夏秋冬そして春』をビデオで観た。舞台は人里離れた湖の中に浮かぶ寺。老師とその弟子の何十年にもわたる物語を春、夏、秋、冬、そして再びの春の5つの場面で描く。春、小さな弟子は無垢な残酷さで小動物を殺生してしまい、泣きじゃくる。夏、青年となった弟子は病気の療養のため寺に預けられた娘と性的な関係をもち、寺を出てゆく。秋、30代になった弟子は不倫をした妻を殺害し、寺に戻ってくる。自殺しようとするが、老師に諭され、逮捕されて再び寺を出てゆく。自分の死期を悟った老師は自らを火葬に付す。冬、刑期を終え中年を迎えた弟子が老師のいなくなった寺に帰ってきて修行を始める。ある日、一人の女が赤ん坊を寺に遺棄する。女は帰るときに凍った湖に落ちて死ぬ。そして再びの春。赤ん坊は童子となり、彼の師匠がかつてそうしたように小動物を殺生する。・・・・という物語である。季節が繰り返すように人間は同じことを繰り返す。しかし、そこにニヒリズムのまなざしはない。キム・ジトク監督は西洋人の目、および自国の若者(彼らはプチ西洋人である)の目を意識して、この映画を撮ったのではなかろうか。映像による東洋思想入門である。円環的な時間構造の中で展開される因果応報の人生(青春、朱夏、白秋、玄冬)の物語は、きわめてわかりやすい。この映画は台詞が少ないという意味では寡黙な作品だが、映像と挿入歌は十分に(過剰にといってもいい)説明的で、決して暗示的な作品ではない。この作品が西洋人と東洋の若者の間で人気があることは偶然ではない。
2.13(月)
JRの定期券(蒲田―東京)を一ヶ月継続購入する。「春は名のみの風の寒さや」という歌(早春賦)の文句があるが、それをもじって言えば、「春休みは名のみの会議の多さや」である。種々の会議に加えて入試関連の業務もあって、これからの一ヶ月は2日に1日の頻度で大学に出る。春休みらしくなるのは3月中旬からである(いや、楽観はできない)。五郎八で昼食(天せいろ)。午後1時から大学院の教授会。その後、本部の生協へ出掛けていって、ノートパソコン(NECのLaVieの最廉価モデルで9万円弱)、プリンタートナー、プリンター光学ユニット、USBメモリー(1GB)、本を数冊(上野千鶴子『生き延びるための思想』岩波書店、川本隆史編『ケアの社会倫理学』有斐閣、富永健一編『理論社会学の可能性』新曜社、など)購入。個人研究費が14万円ほど残っていて(残っていないと勘違いしていて、年末から専門書もほとんど一般の書店やAmazonで自費で購入していた)、その締め切りが今週末なのだ。今日の買物の請求書と最近振り込んだ学会費の領収書2枚でほぼ14万円になる。研究室に戻って、ノートパソコンのセットアップ作業。研究室にはすでに2台のパソコンがある。1台はデスクトップパソコン(ソニーのバイオ)で、主として調査実習のインタビューデータ(MP3ファイル)の管理に使っている。もう1台は大学から支給されているノートパソコン(IBMのシンクパッド)で、専らインターネットとメールチェック用に使っている。今日購入したノートパソコンは文書作成用。私は研究室では原稿は書かない。いや、書けない。読書は、電車の中でも、喫茶店でも、公園でも、病院の待合所でも、どこでもできるが、原稿の執筆はこのフィールドノートを書いている自宅の書斎のデスクトップパソコン(SOTECの廉価モデル)でないと集中できない。それは場所の問題だけではなくて、パソコンのキーボードとの相性の問題も大きい。研究室のバイオのキーボードは長時間打ち続けるにはキーが硬い。シンクパッドのキーボードは沈みがやや浅い。神経質なことを言っているようだが、鍵盤の感触が気にならないピアニストがいないのと同じことである。LaVieのキーボードはまずまずである。これからは研究室でも原稿が書ける(かもしれない)。
2.14(火)
午前11時からカリキュラム委員会。それが終わってから安藤先生とお昼を食べに五郎八に昼食行くと、兼築先生が学生と来ていて、われわれより先に店を出るときに、「これからカフェ・ゴトーに行きます」と言ってニヤリと笑った。私の行動パターンを先刻ご承知というわけだ。しかし今日は会議が目白押しなので、カフェ・ゴトーで一服している暇はない。午後2時から新学部の基礎演習のあり方の検討会。いろいろとアイデアが出て、うまくいけば(担当教員が本気で取り組めば)新学部の売り物の一つになるだろう。午後3時半から基本構想委員会(私は前の会議が長引いて途中からの参加)。委員の任期が3月末で終わるため、今日が最後の会合。次の教授会で新しい基本構想委員の選挙がおこなわれるが、どうか再任されませんように。とにかく会議が多すぎる。しかも行く先々で同じようなメンバーと一緒になる。40代後半から50代前半の中堅教員はまさに「委員会世代」である。学部運営はこうした「委員会世代」の搾取の上に成り立っているといっても過言ではない。