伊東温泉の松川沿いには「東海館」や「いな葉」など、大正から昭和初期にかけて建てられた重厚感あふれる木造建築の旅館が並んで、伊東ならではの美しい景観を生み出していましたが、いずれも時代の趨勢についていけなかったのか、「東海館」は1997年に旅館としての歴史に幕を下ろした後、建物が所有者から市へ寄贈され、今では日帰り入浴施設として生まれ変わっています。一方、その隣の「いな葉」は築100年の名建築が評価されて国登録の有形文化財に指定されていましたが、こちらも経営不振に陥り、2007年に一旦閉館。その後、景観の保護を条件に、京都を拠点にゲストハウスをチェーン展開している「ケイズハウス」が買収し、市も修繕のための補助金を拠出することにより、宿として再出発することになりました。
前置きが長くなりましたが、いまや宿泊者の半数近くが外国人観光客となり、「トリップアドバイザー」でも大変高い評価を受けているゲストハウスとして生まれ変わった旧「いな葉」、現「ケイズハウス伊東温泉」では、諸々の敷居も低くなり、日帰り入浴でも気軽に利用できるようになったため、かつての名旅館のお風呂はどんなものか体験すべく、実際に訪れてみることにしました。なまこ壁に唐破風屋根という構えの立派な玄関を目にすると、誰もがカメラを構えてその光景を撮影したくなるはずです。
玄関前に立てられている案内は、日本語と英語の2ヶ国語表記。しかも日本語より英語の方が目立っているという点に、この宿の特徴がよく表れています。帳場にて入浴をお願いしますと、快く対応してくださいました。
事前の情報によれば、館内には男女別大浴場のほか、貸切の風呂が数部屋あるようですが、日帰りで利用できるのは大浴場「分福茶釜の湯」のみ。玄関を挟んで帳場の向かいの数段上ったところに浴場入り口があり、それぞれ鴇色と蓬色の暖簾がさがっていました。
ゲストハウスとして再出発するにあたり、この脱衣室はしっかり改修されたらしく、和の趣きを踏襲しつつも現代的な使い勝手を実現させており、メンテナンスにもぬかりなく、抑えめのライティングも良い塩梅で、実に綺麗かつ清潔感にあふれていました。
海外からの旅行者は日本独特の入浴マナーをご存知ない方が大多数ですから、このように室内では英語によるイラスト付きの説明が掲示されていました。
脱衣室から階段を下っていった先の半地下に、大理石をふんだんに使った浴室が広がっていました。随所に修繕の跡が見られるものの、風呂場の造作は「いな葉」時代とほとんど変わっておらず、老舗にふさわしいゆとりと風格が随所から伝わってきます。ただ半地下という構造ゆえ、常時換気扇ブンブンが唸っているのはご愛嬌。
右手に洗い場が配置され、シャワー付きカランが3基並んでいます。カランは一つ一つの間隔が広くとられており、もし3人同時に使ったとしても、隣同士で干渉し合うようなことはなさそうです。格子の向こう側から照らされる照明が柔らかな光を放っていました。
この洗い場には、柿渋か漆か何かを塗ったような色合いをしているヒノキの桶と腰掛けが備え付けられいるのですが、英語表記による注意書きが功を奏しているのか、備品類は所定の位置へきちんと整頓されていました。
浴室で最もcharacteristicなのが、浴場名にもなっている分福茶釜の湯口。なんとも愛嬌のある表情をしたタヌキの口からは、分福茶釜のお話のように汲んでも尽きることのないお湯が渾々と浴槽へ注がれており、そのおでこには「不老長寿」という縁起の良い文字が彫られていました。
お湯は岡84号と呼ばれる源泉で、どうやら自家源泉のようです。見た目は無色透明で、口に含むと甘塩味と弱苦汁味、そしてパラフィンを思わせる味が三位一体となって口腔内に広がりました。癖のない単純泉が多い伊東の中では珍しく、食塩泉的および硫酸塩的な特徴がはっきりと伝わってくる個性的なお湯です。
木枠の大理石浴槽は縦1.5m×横4m弱の四角形で、大体7~8人サイズなのですが、手前側は縦横約1mほど狭まっています。タヌキの口から吐出される湯量が豊富なので、木の縁の上から常時ふんだんに溢れ出ており、私が湯船に入ると余計に勢い良く溢れ出てゆきました。湯中では優しいトロミとともに、スルスベと引っかかりの両浴感が拮抗して感じられました。この時の湯船は私の体感で43~44℃ほどで、外国人旅行者の方にはちょっと熱いかもしれませんが、日本人にはちょうど良い湯加減でした。このちょっと熱めの湯加減と、温泉が持つ力強い温まりパワーのため、あまり長湯はできないのですが、しかしながら、入りしなの浴感の良さと、しっとりとしたフィーリング、お風呂の落ち着いた佇まい、そして力強い温浴効果にハートを掴まれて後ろ髪を引かれ、湯船から出ようにも出られなくなってしまいました。
しかも湯上り後も長い時間にわたって温浴効果が持続するばかりか、程よく粗熱が抜けてくれるため、しばらくすると落ち着いた品の良い温まりだけが残り、なんとも言えない幸せな感覚に抱かれました。さすが名旅館の名湯は格が違います。恐れ入りました。
●館内
風呂上がりに国の文化財となっている館内を見学させていただきました。玄関ホールの奥では、いまでも「いな葉」の扁額がかかっています。昔ながらの造作を大切にしつつ、適宜改修することによってゲストハウスらしく利用客が寛げる共用部分を確保しており、フリースペースとしての現代和風な空間を設けているほか、座敷にはゲスト用のこたつが据えられ、私の訪問時は中華系のアジア系のお客さんが楽しんでいらっしゃいました。海外からの訪日客は、日本文化を体験することに大きな価値を見出すそうですから、日本の庶民文化の典型というべきこたつというグッズは、訪問客の良き想い出として刻まれたに違いありません。ゲストハウス運営のノウハウを持つ業者ならではのリニューアル手法です。
息を呑むのがこの53畳の大広間。舞台の上に立てられた金屏風とその前にさりげなく飾られた日本人形がとても粋。反対側の床の間に立つ槐の柱も立派。そして中央の襖の欄間に施された透かし彫りも実に素晴らしい。外国人でなく、日本人の私ですら、この大広間にはうっとり見惚れてしまいました。
大正期に建てられたこの建物は3階層ですが、はじめから3階層で建築されたのではなく、3階部分は昭和12年に増築されたんだそうです。急な勾配の階段がいかにも戦前の建物といった造りであり、複雑に入り組んだ廊下や階段は、幾度も増設を重ねた跡なのかもしれません。客室がある階層には個室風呂があり、現在でも宿泊すれば利用可能なようです。廊下に設けられている共用の洗面台は昔ながらのタイル張り。
建物の西端には望楼があり、案内に従って階段を上がってゆくとその望楼、つまり展望台へとたどり着きました。
上画像は望楼からの夜景。右隣には「東海館」の望楼がそびえ、直下には松川が流れており、周囲には宝石をばらまいたかのような伊東の夜景が広がっていました。そして東側の彼方は相模灘の漆黒の闇が無限に続いていました。
退館後に松川の河畔へ回って、川越しに「いな葉」(現ケイズハウス伊東温泉)と「東海館」が並ぶ伊東温泉の象徴というべき風情ある景色を眺めました。先ほど私が登った「いな葉」の望楼は油差しをかたどっており、曲線的かつ女性的なデザインである一方、お隣の「東海館」の望楼はお城の天守閣を彷彿とさせる男性的な意匠であり、双方が夫婦のように聳え立つことによって、温泉地伊東の情景を作り出していることを再確認しました。河畔に並ぶこの2棟こそ伊東のシンボルですね。その象徴的な景観を生み出す文化財の旅館建築が、いまでは外国人観光客に熱く支持されるゲストハウスへと生まれ変わり、日本文化の国際理解に一役買うようになったのですから、なんとも感慨深いものです。日本各地の温泉地では老舗旅館が次々に閉業へ追い込まれていますが、この「いな葉」の事例は、9回裏の二死満塁且つフルカウントという窮地に追い込まれている状態で、逆転勝利して温泉地が生き残ってゆくための知恵と実績があるように思われます。
岡84号泉
カルシウム・ナトリウム-塩化物温泉 51.6℃ pH7.8 121L/min(動力揚湯) 溶存物質3.57g/kg 成分総計3.58g/kg
Na+:534.2mg(42.48mval%), Mg++:35.9mg, Ca++:566.3mg(51.65mval%),
Cl-:1816mg(81.74mvak%), Br-:6.6mg, SO4--:525.3mg(17.46mval%),
H2SiO3:47.8mg,
伊東駅より徒歩7分
静岡県伊東市東松原町12-13 地図
0557-35-9444
ホームページ
日帰り入浴8:00~11:00, 15:00~20:00
500円
ロッカー・シャンプー類・ドライヤーあり
私の好み:★★★