パパと呼ばないで

再婚した時、パパと呼ばないでくれと懇願した夫(←おとうさんと呼んで欲しい)を、娘(27)「おやじ」と呼ぶ。良かったのか?

新・平家物語

2015年01月26日 | 本・マンガ・テレビ・映画
1月26日(月)曇り

音訳ボランティアで、会長のおぢさまが読まれた「新・平家物語」の校正を引き受けたはいいが、長かったぁ~~~
全16巻。
昨夜終了。
で、感想は?と言うと・・・
源頼朝は大嫌いっ!
歴史上の人物の、誰ひとりに思い入れもないリベラルなワタクシ(・・・歴史が苦手だと言いなさい)なので、まっさらな気持ちで読みはじめる。
そもそもワタクシ、「新・平家物語」って、平家側に立った平家一族のお話だと思っておりました。
が、著者吉川英治氏も言っておられるが、「平治物語」「保元物語」「平家物語」「源平盛衰記」「義経記」「吾妻鏡」に踏み跨がったものに、さらに吉川氏の創作も加えられたものとのこと。
よって、リベラルなワタクシとしては、平清盛ってすげーな~に始まり、頼朝と政子のおっそろしく熱い恋にビビリ、
平家の雅なところに涙し、源家の無骨さに共鳴し・・・と、その舞台舞台で気持ちが揺れて大忙しであった。
しかし、結局のところ、奢れる者は久しからずで、諸行無常の響きを感じる頃に「義経」の登場である。
これを読んでから大河ドラマ「義経」とか「平清盛」とか見たかったわ。
とは言いつつ・・・
一昨年だったか、やはりボランティアで池波正太郎著「真田太平記」全12巻を読んで、あ~面白かった!と思ったし、
2016年に三谷幸喜氏脚本で「真田丸」が大河に決まり嬉しかったが、今はもうほとんど内容を忘れてしまっている。
嗚呼。ただ春の夢のごとし・・・である。
違うわ!たんなる老化による物忘れだわさ。
でも、ゼロではないから、ほとんどゼロに近い「吉田松陰」がらみよりかはずっと「真田丸」に期待しております。

「新・平家物語」から少し逸れましたが・・・
本を読んでて、時々、それが今と重なる時があって「をっ!」と思うことがある。
昨年の春から校正し始めた「新・平家物語」
平清盛が亡くなる辺りの話を読む頃、ちょうど代々木公園でのデング熱の話題が戦々恐々として持ち上がっていた。
だから、平清盛が瘧(ぎゃく=マラリア)だったというくだりでは「ををっ!」と思った。
ここも蚊だよ!
今週、いよいよ最終巻も終わりに近づき、義経の最期というシーンを読む頃、イスラム国の邦人誘拐事件。
宗教絡みの争い、民族間の争い、いやもっと小さな規模のものでも、争いというものは、復讐の連鎖になる。
負の連鎖を断ち切らねば争いが止むことはないと頭ではわかっている。
が、ワタクシは、もし、自分がその輪の中に放り込まれたらと考えると、「復讐」擁護派になる。
そんなワタクシをして、少しだけ考えを変えるべきだと思わせたのが義経の最期の言葉だ。
自分を慕う者達へ言うのだ。
自分が死ぬことで頼朝の追捕は止むだろう。復讐は業の輪廻を繰り返すに過ぎない。
義経の恨みを晴らさんなどという考えを起こしたら、義経の最期は無残犬死にとなる。
義経が世に祈るところを、おまえたちもまた祈りとして安穏な生涯を送ってくれ、と。
上に立つ者はこうでなければ、結局いつまでたっても世界平和は訪れないのだなあとしみじみ思って泣けた。
そんな義経を追いつめた頼朝憎しである。
そんな頼朝はその数年後に馬からの落馬がもとであっけなく世を去る。ざまーみろである。
・・・って、nよ!あなたは結局何も悟っていないのか。
いや、違います。
何かで読んで笑ったけど、漫画家の蛭子さんが「絶対に喧嘩はしない。イヤなことを言われたらマンガで殺す」
ワタクシも、絶対に直接悪口は言いません。
腹が立ったらブログで罵る。(ひぃ~~~っ)
喧嘩にはなりませんからご安心を!
コメント (2)
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