6月28日(日)雨
運動不足のせいか、はたまた膝捻挫してからか、膝が変な感じ。
怖くてゆっくり歩く。婆さんだ。嫌だ嫌だ。
今、みてる韓流ドラマ「まぶしくて」は、時間を戻せる時計を巻き戻しすぎて25歳なのにお婆さんになってしまった話。
仲良しの友達二人に打ち明け、共に大泣きし、でもふとした時に、その友達が年寄りの悪口を言うわけ。
歩くのが遅いとか、いろいろ。
主人公の女の子は怒る。
わざと遅く歩いたりしてるわけじゃない!体が痛いのだと。
切なくなる。
だって、あたしはもうばかにする側じゃなくて、ばかにされる側で、事実、今現在歩くのが非常に遅いし、いつまた膝に激痛が走るかと思うと怖くて怖くて。
少しでも時間に抗わねば!と思い、毎日遠くの公園まで自転車を走らせる(歩くのはおぼつかないが自転車は大丈夫なのだ)
ルビー会仲間に借りたばかりの小川糸著「ライオンのおやつ」を、海を見ながら読む。
が、目がしょぼしょぼしてきて早々に退散。
外の風に当たりながら読書なんて、これまた若者の特権なのかっ!
次はサングラスをしてこよう。
「ライオンのおやつ」読了。
小川糸さんはとても人気ある作家だし、どんどん映像化もされてる。
ワタクシは「食堂かたつむり」と「喋喋喃喃」の二冊読んだ。
「食堂かたつむり」はどのエピソードも好きでどんどん読み進めたが、最後の衝撃エピソードに打ちのめされた。悪い意味で。
「喋喋喃喃」も頑張って読んでみたが、第一印象の悪さと、プラス「不倫は悪」の信条を持ってるゆえにこれまた印象を悪化させる一方。
「ライオンのおやつ」は話題になっているし、三度目の正直ってことがあるやもしれぬと恐る恐る手に取った次第。
ざっくりあらすじを言いますに、癌の末期の宣告を受けた主人公海野雫33歳は、瀬戸内海に浮かぶ島にあるホスピス「ライオンの家」を最期の場所に選ぶ。
ライオンは百獣の王で、何も恐れるものがないということからつけられた名前。
『ライオンはもう、敵に襲われる心配がないのです。安心して、食べたり、寝たり、すればいいってことです』と、マドンナ(ライオンの家の主)は言う。
ここでは、ゲスト(患者)が自分の思い出のおやつをリクエストすることができる。
その思い出のエピソードとともにみんなでそれを食べるのだ。
読み始めですぐに、もし自分だったら何のおやつをリクエストしたいかなあなんて考える。
本の中では、台湾菓子豆花、カヌレ、アップルパイ、ぼた餅、レーズンサンド、ミルクレープなどが並ぶ。
ちょうどこれを読んでいる頃、六花亭の詰め合わせを取り寄せたり、お煎餅やおかき、チーズケーキなど、いつもよりおやつの時間が充実していた。
しかし、人生最期に食べたいおやつは?と聞かれたとして、どれもピンと来ない。
六花亭のレーズンサンドは大好きだけど、手作り感は薄いし、どうせなら素敵エピソードも添えてのおやつにしたいので、これからもう少し気にかけておやつ食べようと思っている。
ちなみに、このお話の中に白い犬が出てくるのだが名前が六花。
六花って雪のことなのね〜知らんかった。雪の結晶の六角形ということからきているげな。
もうひとつ面白いと思ったのが「ソ」が出てきたこと。
つい最近聞いた名前だなあと思いません?
このコロナ禍で牛乳が余ってるって話から、「蘇」を作ろう!と話題になりましたよね。
マドンナが『蘇』のことを聞かれ『牛より乳を出し、乳より酪を出し、酪より生蘇を出し、生蘇より熟蘇を出し、熟蘇より醍醐を出す。醍醐は最上なり。」
酪はヨーグルトのこと。生蘇は生クリーム、熟蘇はバター。
そして、ここから醍醐味という言葉はきている。
こういうのは面白いなあと思いながら読んだのだが、ではこの本は好きかと聞かれたら・・・
う〜む。
ワタクシ、この歳になってもまだ「死」が怖い。
ましてや「癌」なんて病に二度も脅かされた身である。
「死」への恐怖がない人を羨ましく思うし、それへの近道が宗教なら入信してもいいと思うくらいだ。
でも、この歳になってもどこにも入信していないし、誰にも傾倒していないのは、「だってあなた、死んだ経験ないでしょ」という身も蓋もないことを思ってしまうからだ。
いくら死んだ後に、先に死んだ誰かが迎えにきてくれるだの、死後の世界は素敵なところだの言われても、真実味がない(当たり前だ)
今、この日記を書こうとして少し検索したら、作者がこの物語を書こうと思ったきっかけというのがあり・・・
小川さんのメッセージというのがこちら。
母に癌が見つかったことで、わたしは数年ぶりに母と電話で話しました。
電話口で、「死ぬのが怖い」と怯える母に、わたしはこう言い放ちました。
「誰でも死ぬんだよ」けれど、世の中には、母のように、死を得体の知れない恐怖と感じている人の方が、
圧倒的に多いのかもしれません。
母の死には間に合いませんでしたが、読んだ人が、少しでも死ぬのが怖くなくなるような物語を書きたい、
と思い『ライオンのおやつ』を執筆しました。
おなかにも心にもとびきり優しい、お粥みたいな物語になっていたら嬉しいです。
死生観というのは人それぞれで、まずこのメッセージの中の、癌で打ちひしがれ怯える母親に「誰でも死ぬんだよ」と言える強さ?冷静さにまず驚く。
この人の書く文章は読みやすいし、キャラクターも魅力的だと思うけど、根本的に「何か」が違うからあれを読んでもこれを読んでものめり込めないのだという、その「何か」がはっきりした気がした。
そして、だからこそ、ワタクシは、このお話を読んでも死ぬことは怖い。
だって、死ぬことこそ、誰ひとりとして経験談を語れないことで、でもそれは誰にでも訪れることだから、ファンタジーのような扱いをされても受容できない。
いや、だからと言って、仮死状態になった経験談とか、実際にホスピスにお勤めの方の経験談はどうよと言われても、それもまた違う。
死にたくない死にたくないと思うが、寝たきりになりたくないとも思うので、今せっせとサイクリングする。
ワタクシの「生きる基準」は娘にあるので、娘とおしゃべりできないようになったり(痴呆症等)
娘に迷惑かけるようなことになったら「生きている」意味はないかなあと思う。
そんなワタクシだから、小川糸さんが自分の母親にかけた「誰でも死ぬんだよ」という言葉はとても冷たく感じられるのだ。
ワタクシは、癌体質だから、おそらく最期は癌で死ぬんだろう。
癌の、唯一いい点は、大体の死期が予測できる点で、最期は娘に手を握っててもらいたいなあと思う。
え?夫は?って?
夫はワタクシが看取る予定だからね。
結論。
ワタクシの「死への恐怖」は小説では克服できない。