パパと呼ばないで

再婚した時、パパと呼ばないでくれと懇願した夫(←おとうさんと呼んで欲しい)を、娘(27)「おやじ」と呼ぶ。良かったのか?

場面転換

2018年11月13日 | 本・マンガ・テレビ・映画
11月13日(火)晴れ

所属している音訳ボランティアのサークルでは、月に一度、外部から先生をお願いして勉強会をしている。
大体いつも日経新聞の切り抜きが多いのだが、今回課題として出されたのが芥川龍之介の短編「蜜柑」
ワタクシ、このお話、知りませんでした。
芥川龍之介で知ってるのは「蜘蛛の糸」と「鼻」くらいで、あとは副教材の国語便覧に載ってた線の細い神経質そうな顔くらいだ。
下読みをしてみる。

主人公の私は列車に乗っている。
最初の5行で、私の不機嫌は伝わってくる。
発車直前に十三、四の小娘が飛び乗ってきて、私の前に座る。
これでもかこれでもかと言わんばかりに、田舎娘の田舎娘たる容貌やらが悪意に満ち満ちて描写されている。
全ての事に苛立ちながら私はうつらうつらする・・・と、なんとこの小娘、私の側に来て窓を開けようとしているではないか。
もうすぐトンネルに差し掛かるというのに!!!

ここまで読み進めながら、ワタクシはいろいろ想像する。
列車の旅というのはドラマにしやすいものだ。
今は、新幹線という、目にも留まらぬ速さの素敵な乗り物が主流だが、少し前まで、ええ、ワタクシの学生時代の頃くらいまでは
列車で上京する、上阪する、ということがよくあり
駅のホームで涙のお別れなんていう事もあって、イメージはウエットだ。
おそらくこの小娘は奉公先に向かっており、列車の通過点に故郷があるのだろう。
「ちりとてちん」のおかあちゃんは、娘の列車に向かって五木ひろしを熱唱した。
「あまちゃん」の夏ばっばは、孫の列車に向かって大漁旗を振った。
さあ、この小娘の親?家族?は何をするんだ?

トンネルで窓を開けられ、煤煙に咳き込む私は、もう少しで小娘を叱りつけるところだったが、
咳が止んだ時、列車は見すぼらしい藁屋根や瓦屋根がゴミゴミ建て込んだ貧しげな町に差し掛かったところだった。
そして、踏切の柵の向こうに三人の男の子が並んで立っている。
そして汽車に向かい手を挙げ、歓声を上げ・・・その瞬間、例の小娘が窓から半身を乗り出し・・・
     忽ち心を踊らすばかり暖な日の色に染まってゐる蜜柑が凡そ五つ六つ、
     汽車を見送つた子供たちの上へばらばらと空から降つて来た。
     私は思はず息を呑んだ。さうして刹那に一切を了解した。

ワタクシ、音読の練習ですからね、もちろん声出して読んでましたが、この場面は何かこみ上げてきて読めませんでした。
びっくりした。
龍之介と同じくらい驚いて、息を呑んで、そして一切を理解しました。
そして、今更ながら龍之介の才能に拍手しました。
暗〜いプラットホームの描写から始まり、彼自身の憂鬱、そして小娘の登場。ここらまでが、そりゃあもう丁寧にうっとおしさ満開で描写されて
そこからの鮮やかな蜜柑の色ですよ。
最後の段落で、私は小娘を全く別人を見る目で見、それまでの倦怠感までも忘れ去ったのである。
こんな短編なのに、光景が目に浮かぶとはこのことだ!というくらい鮮やかにワタクシの脳裏には小娘の手から投げられた蜜柑が宙を舞い、弟たちの上に陽光のごとく降り注ぐ。
今の今までよくわかってなかった「純文学」たるものが少しわかったような気さえする。

この、場面ががらりと変わる、人の印象ががらりと変わる、というのは面白い。
もちろん悪→良というのが特に好ましい。
ってことで、今、毎日この「蜜柑」を音読している。
すんごく上手に読めるようになった気がする。いつもは先生の目を見ないように、当てられないようにしているがこれは手を挙げてでも読みたいくらいだ。
前半は暗く、少し早い目に読んで、後半あの蜜柑が降り注ぐ場面はゆっくり目に明るく読むのだ。
龍之介の気持ちの変化を伝えるべく読める自信があります、先生っ!

今日の動画は、九州新幹線開通の時のもの。
ちょうど3.11の震災と同じ日だったので話題に上るどころではなかったが、なかなかに九州の人たちの喜びが伝わってくるいい動画だと思う。
列車の車窓って、内側から見ても外側から見てもいいよね〜
コメント (8)
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