ボードレリアンさんのコメントを読んで、「ろくなものを食べていなかったのですが、贅沢できなかった分何でも食べました、本当に飢えていたので。美味求真という気迫はまるで養われませんでした。」というところが、ある人物(^ ^;)とオーバーラップしてしまいました。
私は食べることが大好きだし、こだわりもありますが、決して美味求真というような、または美食を追求する…というようなだいそれたものでもないつもりなのです…
まあ、巷でいう「B級グルメ」にちょっと近いのかな。とにかく、誰かと一緒に時間を過ごすとき、「一緒に食べる」っていうことをかなり重要に思っているのかも。
(だから、私はひとりの時は、実はロクなものを食べていません。丼1つでできるもの、鍋ひとつで作れるものが主です。)
私の友人も、同じような人が圧倒的に多いのです。「なに食べる~?」と、会うと決まればいつも言っていたような気がします。
気のおけない友人と、突然一緒に夕飯を食べることになるときも、「今日はうちのメニューは◯◯なんだけど、そんなんでいい~?」もちろん「じゃあやめた」なんてことには絶対になりませんが、「一緒に◯◯を食べて過ごす」ってことは重要なポイントなのです。ただ豚肉を焼くだけの料理でも、ケチャップをかけるだけじゃなくて、ソースは簡単でもいいからなるべくソテーしたフライパンで手作りしたい…とか、そんな程度です。
ところが、「ある人物」は、そういうこれまでの私の友人達と違っていました。
何を作っても「わぁ~すごい!」と言ってくれるのですが、「出されたものはなんでもありがたく残さず食べる」これが重要らしいのです。当たり前にいいことなのですが、このセンテンスの中で、強調するところは「なんでも」です。
つまり、私がその人の口に合わないマズイものを作ったとしても、手を抜きまくってたとえスーパーのトレイからそのままテーブルに出しても、「手に入った食材や、作っていただいたものは、感謝して食べる」これが彼の「食」に対する根本的な姿勢のような気がしました。彼は「何が食べたい?」と聞かれても、何も答えることができないのです。
ボードレリアンさんと同じ世代の人には、もしかして、こんなところに共通点があるのでしょうか?
roさんのお母さんの料理についてのコメントも、やはり同世代の共通したものを感じました。でもroさんは、結構食にはこだわりあるよね。
私達の母親の時代って、戦中、戦後を経験していて、彼女達の「食」に対する考え方を、みんな受け継いでいるのかな…と思います。
女ということで料理をする機会の多い私は、そこを原点としながらも、さらなる道を開拓?していこうとでもいう感じでしょうか? からだを元気にする「栄養バランス」と、心を豊かにする「美味しくてきれいな料理」を目指したいのですが…
でも、マッキーがネパール時代に食べた「稗の粉を練ったもの」っていう話も、しみじみしました。「今日は何をたべる?」なんていう選択肢がないんですよね。
ネパールやアフリカの人たちの日常食が、フォアグラや霜降り肉を作る為に飼料になっている…というのも、、言葉に詰まる。
だからって、みんなで粗食に戻しましょう…っていうもんでもないと思うんだけれど。「豊か」なことは罪ではないと思います。そうではなくて、「すべての人が豊かになれる」ことを目指せばいいのだとおもいます。
あまりにも現実離れしているかもしれないけど、考え方としては、これでいいのでは?
欧米には「いただきます」に相当する言葉はないと聞きました。
手をあわせて「いただきます」って、日本人のとてもいい習慣だと思います。
目の前に出された海の幸、山の幸に敬虔な気持ちで手を合わせて、ありがたく謹んでいただく…っていう気持ちを忘れてはいけないと、改めて考えさせられました。
なんだか、日本人としては相当貧乏なはずの私なのに、食生活に関しては、相当恵まれている気がしてきました。
じゃあ、私はどこが貧乏なんだろう…
「明日の貯えがなにもない」コレだな(^_^;)
私は、今日月謝をいただかなければからっぽになった灯油を買うことができない生活をしてるのです~~!!!お米もだった~~! こんどのレッスンで月謝を頂けなければ、お好み焼きや、パンケーキの生活に突入するんだ!!
私は食べることが大好きだし、こだわりもありますが、決して美味求真というような、または美食を追求する…というようなだいそれたものでもないつもりなのです…
まあ、巷でいう「B級グルメ」にちょっと近いのかな。とにかく、誰かと一緒に時間を過ごすとき、「一緒に食べる」っていうことをかなり重要に思っているのかも。
(だから、私はひとりの時は、実はロクなものを食べていません。丼1つでできるもの、鍋ひとつで作れるものが主です。)
私の友人も、同じような人が圧倒的に多いのです。「なに食べる~?」と、会うと決まればいつも言っていたような気がします。
気のおけない友人と、突然一緒に夕飯を食べることになるときも、「今日はうちのメニューは◯◯なんだけど、そんなんでいい~?」もちろん「じゃあやめた」なんてことには絶対になりませんが、「一緒に◯◯を食べて過ごす」ってことは重要なポイントなのです。ただ豚肉を焼くだけの料理でも、ケチャップをかけるだけじゃなくて、ソースは簡単でもいいからなるべくソテーしたフライパンで手作りしたい…とか、そんな程度です。
ところが、「ある人物」は、そういうこれまでの私の友人達と違っていました。
何を作っても「わぁ~すごい!」と言ってくれるのですが、「出されたものはなんでもありがたく残さず食べる」これが重要らしいのです。当たり前にいいことなのですが、このセンテンスの中で、強調するところは「なんでも」です。
つまり、私がその人の口に合わないマズイものを作ったとしても、手を抜きまくってたとえスーパーのトレイからそのままテーブルに出しても、「手に入った食材や、作っていただいたものは、感謝して食べる」これが彼の「食」に対する根本的な姿勢のような気がしました。彼は「何が食べたい?」と聞かれても、何も答えることができないのです。
ボードレリアンさんと同じ世代の人には、もしかして、こんなところに共通点があるのでしょうか?
roさんのお母さんの料理についてのコメントも、やはり同世代の共通したものを感じました。でもroさんは、結構食にはこだわりあるよね。
私達の母親の時代って、戦中、戦後を経験していて、彼女達の「食」に対する考え方を、みんな受け継いでいるのかな…と思います。
女ということで料理をする機会の多い私は、そこを原点としながらも、さらなる道を開拓?していこうとでもいう感じでしょうか? からだを元気にする「栄養バランス」と、心を豊かにする「美味しくてきれいな料理」を目指したいのですが…
でも、マッキーがネパール時代に食べた「稗の粉を練ったもの」っていう話も、しみじみしました。「今日は何をたべる?」なんていう選択肢がないんですよね。
ネパールやアフリカの人たちの日常食が、フォアグラや霜降り肉を作る為に飼料になっている…というのも、、言葉に詰まる。
だからって、みんなで粗食に戻しましょう…っていうもんでもないと思うんだけれど。「豊か」なことは罪ではないと思います。そうではなくて、「すべての人が豊かになれる」ことを目指せばいいのだとおもいます。
あまりにも現実離れしているかもしれないけど、考え方としては、これでいいのでは?
欧米には「いただきます」に相当する言葉はないと聞きました。
手をあわせて「いただきます」って、日本人のとてもいい習慣だと思います。
目の前に出された海の幸、山の幸に敬虔な気持ちで手を合わせて、ありがたく謹んでいただく…っていう気持ちを忘れてはいけないと、改めて考えさせられました。
なんだか、日本人としては相当貧乏なはずの私なのに、食生活に関しては、相当恵まれている気がしてきました。
じゃあ、私はどこが貧乏なんだろう…
「明日の貯えがなにもない」コレだな(^_^;)
私は、今日月謝をいただかなければからっぽになった灯油を買うことができない生活をしてるのです~~!!!お米もだった~~! こんどのレッスンで月謝を頂けなければ、お好み焼きや、パンケーキの生活に突入するんだ!!