紅蓮(ぐれん)のポケット

子どもの本の作家・三輪裕子のふつうの毎日
2015年夏。三宅島で農業を始め、東京と行ったり、来たりの生活になる

最後の夏休みーはじまりの一滴をめざしてー

2004-10-18 12:13:30 | 1・作品紹介
この本は、近所のくすの木少年団の活動をベースに生まれた本です

 1999年11月発売

 絵・佐藤真紀子

 あかね書房

 小学上級から


「ぼくたちの出会いは多摩川からはじまった。夏休みの3週間前、突然決まった幼なじみの引っこしに二郎たちは大ショック!!彼のためにお別れ会をしようと、多摩川の源流をたどるキャンプの計画をたてる。はじめて子どもだけで実行するキャンプはどのような展開に・・。」


◆この本に関するBlog → あの時に見た多摩川 多摩川とのかかわり

◆こどもの本 「物語が生まれる瞬間(とき)」 

◆少年少女新聞 「本よんでね」

プラネタリウムは気持ちがいい!

2004-10-17 15:11:00 | 6.自転車日記
めずらしく二度寝をしたので、朝起きたら9時だった。ふだんは5時か6時頃には起きるのだけど。

きのうは、近所のWさん夫婦と飲みに行き、最後はカラオケまで行っちゃって、相当酔っぱらって帰ってきた。
なぜ一緒に飲んだかというと、W氏が、前日山形に住む息子の所にいってくれて、夜は一緒に飲みにいったそうなので、その報告を聞くという名目だった。そんな名目などなくても、しじゅう一緒に飲みに行く友だちではありますが。

息子は、大学入学と同時に調布を離れて、すでに6年たつ。
息子が保育園時代からの知り合いのおじさんと二人で、山形でお酒を飲むなんて、めったにないことだろう。しかも、親には、めんどうくさがって、話さないことなども話したみたいなのだ。
そんなこんなの話しをしつつ、そのような機会をもってくれたW氏に感謝しながら、昨晩はガンガン飲んだ。

今日起きてみたら、日は高く、しかもすごい秋晴れ。
急にどこかに行きたくなり、娘と一緒に、府中の郷土の森博物館にあるプラネタリウムに行くことにした。
自転車で、家から50分ほどかかる。11時の回に行くことにして、急いで、朝ご飯を食べ、洗濯物を干し、10時に家を出た。

多摩川沿いに、サイクリングをした。ススキの穂が揺れ、すごく気持ちがいい。
ぎりぎり、11時に間に合った。
なぜプラネタリウムに行こうと思ったかというと、ヨセミテ国立公園で、星空を見るツアーに入ったのだけど、英語なので、説明が全部は理解できなかったからだ。
忘れないうちに、日本語の説明を聞こうと思った。
それで、かなり星のことがわかったのだけど、後半は眠ってしまった。毎回プラネタリウムに行くと思うのだけど、なぜあんなに気持ちよく眠れるんだろう。(笑)

「皆さんにとってのBLUE_SKYを大募集! #2:目指せ世界制覇?! 」に参加しました。
◆テドさんの「私にとってのBLUE_SKY」 にトラックバック

プラネタリウムの場所は東京の府中市です。

「熊野古道巡礼」東方出版社

2004-10-16 16:44:06 | 13・本・映画・演劇・音楽など
この本の著者トモさん(吉田智彦さん)と初めて会ったのは、9年前のことだ。フィジー・本島から、セスナ機のように小さな飛行機に乗り、1時間ほど飛んだ所にあるタベウニ島のホテルで一緒になった。
私は、娘と良流娯さんと知夏ちゃん、4人で旅をしていて、まだ学生っぽさの残るトモさんは、一人旅のようだった。

4日ほど滞在するうちに、どちらからともなく話しをするようになった。
タベウニ島の最後の日、私たち4人は、トモさんと一緒にホテルのレストランで食事をすることになった。そこで初めてトモさんが、ノンフィクションライターを目指していることを知った。私は沢木耕太郎さんが好きなので、一緒に沢木さんの著書について話したり、私が子どもの本を書いていることなども話した。

それ以来、年賀状で近況を知らせてくれたり、ハガキなどで、雑誌などに文章がのると知らせてくれた。
その度に、あきらめずに、ノンフィクションライターに向かってがんばっているんだなあと思っていた。
そして、9年後の今秋、初めての本の出版が決まったという連絡をもらった。ほんとうに、よかったねと思った。9年間、夢をすてなかったことに、感動した。
「熊野古道巡礼」ぜひ読んでみようと思う。

そこで、突然、私自身の話しになるが、初めて本を書きたいと思ったのは、20歳の時だった。なんとなく少し希望が見えたのが30歳。初めて「ぼくらの夏は山小屋で」が出版されたのは、34歳。
やはり、本を出すって、簡単にはいかない。よほど運と才能がある人は、するすると進むのだろうけど、おおかた、ふつうの人はあきらめないことが肝心なのだろう。

シャンソンコンサート

2004-10-15 23:32:05 | 13・本・映画・演劇・音楽など
嵯峨美子さんの25周年記念コンサート「いつものように」に行って来た。
一緒に行ったのは、友人のKさん、真蘭さん、Yさん、Sさん、Tさん、私の6人。
私が、それまで、あまりなじみのなかったシャンソンをよく聴くようになったのは、この10年くらいである。
今日一緒に行ったKさんが、嵯峨さんからシャンソンを習うようになったのがきっかけである。Kさんは、1年に1-2回グループでコンサートを開いていて、それに行くのも毎年楽しみにしている。

シャンソンをしみじみ味わうには、ある程度の年齢が必要かなと思う。人生、恋、失恋・・etc、同じ曲を聴いて、涙が出ることもあるし、ただ楽しく聴くこともある。その時の気分に左右される。やはり、上手なシャンソンを聴くと、情景が目に浮かぶ。何分間かの芝居をみるような感じである。

連句でシャンソンを詠んだことがある。せっかち歌仙・その3<そよ風の巻>

風よ吹け 成人式は 十月前 <少艶
世代の離れ 言葉虚しく  <長者巻
シャンソンは 詩(うた)で心を 震わせる <紅 蓮
笑顔を見せず 出番待つ友  <良流娯 

病院の付き添い

2004-10-14 17:18:21 | 22・両親のこと
今日は4週間に一度の、母の付き添いで高井戸のY病院にいく日だった。
ほぼ一日がかりなので、大変といえば大変だけど、待ち時間にバラの花をながめながら、散歩したり、中庭の花をながめたり、ずっと読めずにいた本を読んだり、それなりに穏やかな時間なのである。
(携帯なので、あまりよく写真が撮れなかった)

今年2月に亡くなった父が、6年近く前に初めて入院した時も、よく父に付き添って、同じ庭を散歩した。その4年ほど前から父はアルツハイマー型痴呆症と診断され、これからどうなっていくのか不安な頃だった。

6年前の3月から5月まで入院していたが、この庭を父と散歩しながら、俳句を詠んだのを思い出した。こんな俳句をいくつも詠んだが、今日まですっかり忘れていた。

病院のベンチに座り日向ぼこ

この庭も吾が庭もなく春を見る

春朧父の頭にもやかかる

春の闇自在に行き来す現在(いま)と過去

春風に吹かれて父の眼もなごむ

(写真は去年父と一緒に見た最後のさくら)

◆河童師匠の 「金木犀の花」にトラックバック

水戸からの帰りの列車

2004-10-13 22:19:26 | 15・心に残ること
それは2001年、3年前の12月。水戸で行われた沼田氏のお別れ会に出席し、帰ってくる列車の中での出来事。
その時水戸に行った人は、沼田氏が移植手術をうけるための費用、9000万円集めるために、募金活動をしていた中学同期の仲間だった。すでにその時、募金活動した同期30人くらいは、沼田氏の東京の実家で、お別れをすませていたため、少人数の参加だった。

会の終了後、8人は列車に乗り込んだ。その時の気持ちは、悲しさともちょっとちがう。残念ともちがう。沼田氏も精一杯がんばったし、私たちもできるだけのことはやった。達成はできなかったけれど、力の限りがんばった後というか、ふつうに誰かとお別れした時とは違う感情が流れていた。

確かなのは、終わりを迎えたということだった。沼田氏が病気と闘うことも。私たちが募金活動をすることも。3ヶ月間ほど、毎週のように街頭に立って、募金活動をしたが、もうすることもないのだ。
この募金活動のために、35年ぶりに再会を果たした人もいた。でも、3ヶ月の間に、もうずっと長い間の友だちのようになっていた。

その帰りの列車の中での出来事。ビールやお酒を手にして、座席を回して、四人ずつ向かい合う。通路を隔てた向こう側も同じようにする。すぐに通りかかった車掌さんから、
「通路をはさんで話しをしないでください。」
とのお達しがある。何もしゃべる前から、うるさくするだろうと思われたのだった。

そして約一時間半の後。その間がうるさかったかどうかは、多分想像通りでしょう。
上野駅でおりる直前のことだ。
突然、仲間の一人が立ち上がって、ほかの乗客に向かって、頭を下げたのだ。
「ぼくたち中学の友だちどおしで、今日は友だちのお葬式があって水戸までいってきたんです。うるさくしてすみませんでした。」
ほかの乗客の人たちの顔は、一気にほころび、みな笑顔でうなずいてくれた。

T君。そんなことを、他の乗客に言ってくれたあなたは、ほんとうにエライ!!


(写真は「沼田さんを助ける会」の解散式。職場の元同僚や同期生など)

雨飾山と連句(昨秋登った山)

2004-10-12 13:46:31 | 8・山と旅の思い出
10月の連休と台風がかちあって、山に行けず、残念だった。
去年は、この連休、ホイッスルで雨飾山に登った。とても人気のある山で、かなり大勢の人が登っていた。

紅葉・黄葉がほんとうに見事で、なにもかも染まりそうだった。朝は雨が降っていたが、途中天候ももちなおし、頂上では、北アルプスも見えた。

ガスの中にブロッケンの妖怪というのを見たが、これを見たのは、生まれて初めて。空には虹もかかっていた。

車で行った。この時期当然のことながら、渋滞していたので、帰りの車中、みんなで即興で連句を詠んだ。

「ホイッスル歌仙・雨飾山の巻」

式目(ルール)は気にせず、月の句と、恋の句だけ、詠み込むことにして、山に登ってからおりるまでを、順に詠んでいった。ふつう歌仙は36句続けるけど、44句も続いた。

句を詠むと、その日の山での出来事がよみがえる。山も連句も楽しんだ三日間だった。

◆comugiさんの 「一瞬の秋色」 にトラックバック

募金活動を通して

2004-10-11 06:26:44 | 15・心に残ること
沼田氏のための募金活動が終わって、変化したことはたくさんある。そういう大変な活動に関わった時には、後で連句のように、思いもかけない展開をするものだなあと思う。

私の中で、一番の変化は、「臓器提供意志表示カード」にサインをして、持つようになったことである。
私がもし脳死におちいった場合、心臓、肝臓、肺、腎臓、その他、使える臓器は提供します。とそのカードに記入して、意思表示している。

と書くと、いかにも、募金活動に関わったから、すぐに持つようになったような印象であるが、けっこういろいろと迷った結果である。
夫と娘は、とっくにそのカードを持っていた。それで、私にもすすめていたが、私はいいといって、持たなかった。

沼田氏のために募金活動を始めた時、娘が、
「そういう活動に関わったのだから、母も持ったら。」
といって、カードを取り寄せてくれた。
でも、3ヶ月の活動中、カードはずっと机の上に置いたままだった。
沼田氏が亡くなり、募金活動が終結して、しばらくした時、何となく自然に私の中にカードを持とうという気持ちが生まれた。

<募金活動のBlog>
沼田氏のこと
募金活動のこと
いろいろな体験の中から
募金活動をした感想
募金活動を通して

募金活動をした感想

2004-10-10 14:27:58 | 15・心に残ること


友人O氏からの募金活動に参加した時の感想が届きました
一文一文、うなずきながら読みました。

「募金活動での思い出はなんといっても人々の暖かさでしたね。
はじめは、新宿や渋谷の街で見知らぬ人を助けるための募金などほとんど集まらないのではと思っていましたから。
いざ街頭に立ってみたら、ビラを受け取ってくれる人さえも確かに少なかったですが、それでも僕の予想とは大違いの、多くの方々から募金をいただきましたね。

毎回2時間の募金を終えて、足は少し疲れたけれど心には大きな元気をもらったような気がしました。今、当時を振り返ってもあの街角で募金していただいた方々の様々なシーンがよみがえります。

お金の余裕などないはずの中学生、お子さんにちょっと離れたところからお金を託してくれたお母さん。無言で募金箱にすっと近づき、そのまま立ち去る同年代の方々。そのほかまだまだ思い出されます。

沼田君の移植手術に直接結びつかなかったのは残念でしたが、彼の決心とがんばりから、僕らがもらったものはとても貴重なもののように思います。

その貴重なもの、このところすっかり忘れていましたが少し残っていることもあります。街頭で募金活動をしている人を見ると、まず内容を見るようになりました。ボランティアでがんばっているんだと思えると、たいがい気持ちだけですが募金することが増えました。」

ほんとうに、その通り。私も3年前のあの体験を忘れないようにしようと思います。
O君、ありがとうね。大事なことを思い出させてくれて。

<募金活動のBlog>
沼田氏のこと
募金活動のこと
いろいろな体験の中から
募金活動をした感想
募金活動を通して

明日は苗場山・・の予定だけど

2004-10-09 07:17:46 | 3・山の日記
台風はどうなるでしょうか?
明日10日は、苗場山 2143mに登る予定。帰るのはあさって11日になる。
一緒に行くのは、くすの木山の会の人たちと。
今晩出発して、夜テント泊する予定だったが、台風のため、明日早朝3時出発予定に変更。
それまでに台風はいっちゃってくれるのか。
苗場山は、今までに何度も計画しては、その度に雨で流れている。
天気に見放された山なのだ。

<コース>  
和田小屋―中ノ芝―神楽ヶ峰―苗場山(往復とも同じ)

上り 4時間10分
下り 2時間40分


すごい降りですね。(3:00pm)
結局、台風はいっちゃっても、沢沿いの道はぬかるんでいるということで、苗場山は、またしても中止になりました。残念!!