天保8年3月27日に爆薬と共に自害した大塩平八郎という人は何をした人なのか?
名前は知っていましたが、何をした人か改めて調べてみました。
大塩平八郎は、寛政5年(1793年)に大坂天満で生まれます。大坂町奉行与力や
旗本を務める家柄でありましたが、幼い頃に両親を亡くし祖父に育てられ、10代
で奉行所に見習いとして働き始めます。この頃、儒学者 頼山陽とも交流し、学問
にはげみ、陽明学に出会うのです。後に陽明学の私塾「洗心洞」を開いています。
陽明学の教え「心即理」(心こそ理であるとする教えで、「人間は心と体が
一体であり、正しいことは心が教えてくれる」という意)や「知行合一」(知識
と行為は一体であり、本当の知識とは、実践が伴わなければならないとの意)
という、当時の儒教から見れば異端とも思える教えを説いていたといいます。
性格は清廉潔白で極めて正義感の強い人であったそうです。
大塩平八郎像(菊池容斎作、大阪城天守閣蔵)
(ウイキペディアより)
25歳で大坂東町奉行の与力となり、同僚の西町奉行与力の汚職事件を内部告発
によって不正を摘発し、自らは賄賂などは一切受け取らないなど「知行合一」を
体現していたそうです。
大塩平八郎は、横行する不正や腐敗を厳しく正していましたが、幕府の高官
が関わった規模の大きい汚職事件の摘発では、幕府の介入により3人の役人が
処罰されただけで事件がうやむやにされてしまったことなどが原因から、与力
という職や自分一人だけの力に限界を感じて38歳で与力職を辞してしまうのです。
平八郎の辞職数年後に「天保の大飢饉」が起こり多くの餓死者がでましたが、
対応すべき東町奉行がこのような事態にもかかわらず幕府のご機嫌を取り大坂
の米を江戸に送る始末で、さらに豪商による米の買い占めによる米の値段は高騰、
庶民には届かず飢饉は一層深刻化するのです。
大塩平八郎は自身が持っていた家財や蔵書を売却し、大金を用意し1万人に
配りましたが、結局は焼け石に水でした。奉行所への不満は募る一方だったの
でしょう。
1837年、とうとう武装蜂起によって奉行らを討ち、豪商を焼き討つ「大塩平
八郎の乱」を起こすのです。
大塩平八郎の乱
(ウイキペディアより)
自らの邸宅に火を放ち、大坂の1/5を焼き尽くす火事を起こしますが、反乱
は密告によって、その日のうちに鎮圧されてしまうのです。平八郎とその父親は、
およそ40日間に及び逃げおおせましたが、ついに潜伏先を包囲され、自ら火薬
を用いて小屋ごと爆発、自決するのです。
1837年の3月27日(旧暦)平八郎 44歳でした。この乱によって処罰された人物
は750人に上ったとあります。通常、反乱は農民によるものが一般的であった
ようですが、この反乱は、農民ではなく高い評価を受けていた元与力が起こした
ことで、幕府だけでなく社会に大きな影響を与えたそうです。
乱の場所
(ネット画像より)
また、この反乱だけではなく、幕府老中に宛てた手紙でも下級役人から老中
迄もが加担している数々の不正、腐敗の実態を訴えていたそうですが、この手紙
は老中の手には届かず、政治が変わることはなかったとありました。
大塩平八郎の乱の4年後、「天保の改革」が行われ、財政の引き締め、物価の
抑制をはかり、農村復興のため贅沢を禁止し、倹約を求めたとあります。
大塩平八郎という人は、徹底して正義感の強い人であったのでしょう。体制
に携わる人々からは可なり圧力を受け、煙たがられたでしょうね。 それでも
信念を貫き「世を正す」も儚く自害に追い込まれたのですね。 今にして思えば、
さらに同志を広げ、更に位の高い人々を同化させないとうまく事は運べないの
です。いつの世もそれらの構図は変わらないのですね。
Josh Groban - Impossible Dream for BBC Radio 2