萩のお屋敷巡りは続きます。
ここは高杉晋作が生まれたお家。生まれた場所ってだけだったら通過するか―。
すぐ近くの公園のようになっているところに銅像が立っていました。
こちらは木戸孝允(きどたかよし)の旧宅。
明倫館で吉田松陰に学び、その後坂本龍馬の仲介で薩摩の西郷隆盛らと倒幕の一大
勢力となる薩長同盟を結びました。西郷隆盛・大久保利通とともに「維新の三傑」
と呼ばれました。
こちらはすぐお隣の青木周弼(あおきしゅうすけ)の旧宅。幕末の蘭学者です。
周弼は江戸でオランダ医学を学び、長崎でもさらに学んで医学館を創設しました。
その弟、研蔵も長崎でシーボルトに学び、最新の医学を萩に伝えました。種痘の
技術を持ち帰り、天然痘の予防に尽力もしています。当時の日本で最先端でしたねェ。
さて明倫館で優秀だった少年、周蔵は研蔵の養子に迎えられました。長崎で医学を
学んだあと、明治になってドイツに留学し、政治・経済を学びます。のちに外務
大臣にもなっています。んでドイツ人の奥さん、すごい美人のエリザベートを
日本に連れ帰ったのであーる。左下の那須の別荘は奥さんのために建てたのかあー。
なにせプロイセン貴族の令嬢なんですぞ!
スコットランド美人のリタを連れて帰ってきた竹鶴政孝よりすごいのか?と思って
調べてみると、こいつはホントにすごいぞwww
ドイツ留学中、藩から派遣されたというのに勝手に専攻を医学から政治経済に変更、
もめたらしいが押し通したそうだ。在学中に北ドイツ留学生総代となり、当時の
留学生の専攻は軍事か医学と決められていたが、それを自由に専攻できるように
変更しろと運動して、その結果自分も政治経済に専門を変えたらしい。
周蔵は養子にしてもらった研蔵の実の娘テルを嫁にもらっていました(それはもう
断れないでしょう)。外務省に勤務していたときに駐独公使となってドイツに赴任、
そこでプロイセン貴族の令嬢エリザベートと出来ちまって、テルさんと離婚しよう
とするが、青木家は許さない。(当たり前だろうし、養子にした父親は激怒した
だろうし、エリザベートさんも貴族の令嬢なのに妻帯ものとできちまうか?)
というわけで周蔵は妻のテルさんに新しい夫を見つけて、その結納金を払うから、
という条件を出す。なかなかうまくいかず、3回トライして3回結納金を払った
とか。まー最後にゃ自分の妻を他人に押し付けたってわけかーw
このお屋敷では、平成2年に土蔵の床下から約1200枚の1分銀が発見されました。
屋敷はすでに萩市のものになっていたので役所は色めき立ちましたが、その銀貨の
包みには青木研蔵の名前をとった「青研」の署名が入っていたので、お宝は青木家
の子孫に遺贈されたのでした。いろいろ説明してくれた係員の人が、「だから
お宝には自分の名前を入れておくことが大事ですよ」と俺には必要なさそうな
助言をしてくれました。
いろいろ熱く語ってくれた係員さん、青木家の偉大な歴史を説明してくれましたが、
周蔵のしょーもないロマンスについての部分は触れてくれませんでしたね。。。
さて少し南下して、旧田中別邸に向かいます。
このすんごいお屋敷は、小幡高政という幕末の藩士が建てたものです。幕末は
武士が大量に失職した時代です。そこで生活に苦しむ士族救済のため、萩の土地を
夏みかんの集団栽培地にしようと奨励します。
最初は笑われたり無視されたりしましたが、だんだんと成功し、夏みかんは萩の
主要産業となるのです。というわけで、いまだにこの城内跡地にはお城の石垣に
区分された夏みかんの木がたくさんあります。
その後、大正の時代になってこのお屋敷は総理大臣を務めた田中義一の所有となります。
このお屋敷に入ったとき、入り口の片隅に初老の係員さんが足を延ばして座って
いたのでギョッとしました^^; 見学客が来るのをずっとひとりで待っていて
寒くなったので、日の当たるところにいたのだとか。そりゃそうしてて結構ですよー。
お互い時間はたっぷりあったので、丁寧な説明を頂きました^^
広い庭には夏みかん畑が広がっていましたが、いまはもうこのお屋敷だけが残って
いるのです。
田中義一さんがここに座って川を眺めている写真がありました。
さすがにすごい造りですのお。
舟が出られるようにもなっておりました。
五右衛門風呂ですが、ふたつ湯舟があったのはとても珍しいとか。新婚当時は
ひとつだけで十分で、そのうちふたつをそれぞれ使うようになったとか?(^益^;
係員さんにはこのお屋敷にまつわることだけでなく、萩見物のことや夜の酒場の
ことまでいろいろ教えてもらいました。すると滞在しているホテルの真ん前にある
灯台を模した建物が地魚を提供する立派な店だと推してくれて、今宵はそこに
しようと決めたのでしたw