松陰神社の入り口付近に「吉田松陰歴史館」がありました。見てみますかー。
松陰の生涯を、このような蝋人形で解説するものでした。
松陰の家は貧乏侍で子だくさん。お城で非番のときには一家で田畑を耕したり山に
薪を取りに行ったりという生活。しかし両親は教育熱心で、子供たちに学問を授けた
のでした。
松陰は5歳の時に叔父の吉田家の養子となりましたが、その翌年に叔父が病で亡くなり、
なんと6歳で家督を継ぐことになりました。そして兄と共に近所にいたまた別の
叔父の家に通って教育を受けることになりました。
松陰は9歳で明倫館の兵学師範に就任、11歳の時に御前講義の見事な出来栄えに
藩主にその才能が認められました。どんだけ早熟の神童だったの!
16歳のとき、西欧諸国がアジアを侵略し植民地にしていることを知り驚く。さらに
大国の清(中国)が英国にアヘン戦争に敗れたことに衝撃を受け、西洋のことを
学べる長崎に行く。そこでは借りた本を必死に写す(自分で書き写すのは大変な
作業ですが、身になるのですよ。スマホで黒板写しても頭に入らないでしょ^^)。
さらに東北地方へ遊学に出て、弘道館のある水戸、日新館のある会津に行き、北では
鉱山を見学したり、津軽海峡では通過する外国船を見たりした。しかし、出発時に
藩から出る通行許可証が出るのを待ちきれずに出発したため、脱藩の罪を負って
士籍剥奪・世禄没収の処分となる。そのフライング出立の理由が、仇討に協力する
約束があったからだとか?立派なのとアホなのと紙一重!
松陰は平戸藩士、葉山左内の蔵書を借り受け、読破すると共に要点をひとつひとつ
書き取った。これはとても大事です。要点を繰り返し頭に入れ、記憶を確かなものに
するわけですね。また文章を書く鍛錬にもなる。一時期集中的にやるのも大事です。
だから職なし、収入なしという自由人になったことも利用できたわけだ。
23歳頃に、当代随一の学者であった佐久間象山の弟子入りをする。彼は儒学を捨てて
西洋学を学んでおり、松陰に「海外に行って学べ」と伝えました。
ふたりはペリー来航を知って、その黒船を見に行きます。
ペリーがやってきた翌年、ロシアの施設プチャーチンが軍艦4隻で長崎に来航。
この船に乗り込んで密航してやろうと画策するが、間に合いませんでした。。。
やることが大胆過ぎませんかーw
その翌年、米国船が下田に来たのでまたもや密航を企てて小舟で乗り込む。しかし
追い出されてしまいます。その後自首。象山先生と共に死罪になりかかったところ
助命されて、国に帰って幽閉となる。
それが松下村塾の始まりとなるわけです。名門の明倫館は敷居が高く、身分の低い
者は入れませんでしたが、松下村塾は自由で開かれた場所でした。建物も古い小屋を
自分たちで増改築したのです。次第に優秀な子弟が集まるようになりました。
まさに学問の理想郷だよw
松下村塾は師弟共に学び、礼儀作法を簡略にして規則もゆるやか。形式的なものより
純朴な人間関係を重んじました。ロヨラやザビエルのイエズス会と対照的ですねェ。
妹が結婚するときに、「自らすすんで励み努力せよ。婦人の勤める道は難しいわけは
ないのだから、なまけるな。主婦のなすべき家事を十分にいたし、心から夫に貞節を
尽くすことは嫁の第一番に心がけることだ」なんて言ったそうだ。
これを今の視点から批判してもしかたないですよねェ。いまもし松陰先生とお会い
出来て、たっぷりお話できたとしたら、きっと柔軟な理解と自分の考えを修正できる
懐の深さを示してくれるんじゃないでしょうか。
松陰は一向宗の月性と黙霖というふたりの僧侶と交際しました。月性は日本の海防に
関して強く警告するインテリ。黙霖のほうは松陰と激しく意見が対立する間柄でした。
時として考え方の違うライバルと火花を散らすのも人を成長させるものでしょう。
このままじゃ日本はイカン!こうなれば倒幕しかない。なのでテロしかないのだ。
老中をぶっ殺すために武器をくれと藩にかけあったが拒否される。弟子たちも止めるが
松陰は納得しない。過激派ですな
ついに召し取られ、「老中暗殺計画を立てていましたよ」と堂々と言ったから死刑!
日本の危機を救うためだと最後まで主張。死刑制度がなくて終身刑だったら
明治維新後も活躍できただろうにねえ。でもその生き様が弟子たちの成長を促した
とも言えましょう。
いまでいう「テロ等準備罪」ですからね。さすがにそれだけじゃ死刑にはならんが。
30歳で首になりました。永遠のレジェンドになったとも言えましょう。
山口県には明倫館や松下村塾ゆかりの高名な方々がたくさんいます。首相になった
人も多い。
こないだ亡くなられた、ちと残念な人もいましたけれど、その人は蝋人形には
ならんでしょうなw