断崖絶壁からしばらく大西洋の荒波を眺め、またとぼとぼと宿に向って歩き出した。今度はゆるやかな追い風だ。馬糞が道に見えても臭ってこない。しかしそいつを通り越すと、その臭いが風に乗って追いかけてくる。行きの向かい風のときは、苦しみは馬糞を通り越すまでであったが、今度は次第に消えてゆくまで長く続く。どちらかというと、追い風のほうが嫌な気分だ。
長い一本道の途中でパブがあった。帰りは寄って一杯やってもいいだろう。実に寂れたところに、2~3人の客がいた。日本人が入ってゆくと、全く場違いの雰囲気だ。見たこともない異邦人の突然の到来が、何百年も(?)常に変わらないそこの空気を乱してしまったようだ。何世代も前の人間だと言われても信じたくなるような風貌の老人がいる。その人は仲間を見つけて話し出したが、それがアイルランドにごくわずかながら残っているゲール語であった。まるっきりわからない不思議な音声だった。
隣のテーブルに座っていた老人は、ハーフパイントのグラスでエールをひとり飲んでいた。2杯目もハーフパイントで注文している。ハーフを2杯より、1パイントを飲んだほうが安くあがるだろうに、と不思議に思う。その老人の知り合いが入ってきたので、並んで座ろうとその老人はよたよたとカウンターに歩いていった。
新参者がその老人におごろうとすると、老人は「ハーフで頼む」と念を押して繰り返す。すると突然「ステッキがない!」と騒ぎ出した。さっき本人が座っていたテーブルを見てくれと我々に声をかける。こちらのテーブルにはない…。
「ないないない!」とジイサンが騒いでいたら、いま座っている席にあるじゃあないか…。考えてみれば、杖なくしてカウンターに移動できないだろうに^^; 日本語がわからないのをいいことに、横にいた友人が「あのジイサン、半分以上shinでますね」とつぶやく。そのとき老人を見て、なぜハーフばかりを飲むのか理解した。1パイントグラスは大きすぎて、彼には持ち上げられないのだ。
こういった年齢の老人たちの人生は、シングの見た時代にわずかに重なっているはずだ。やはりカラハに乗って海に出た若い時代があったのだろうか。その老人と、地球の反対側から高度1万メートルを飛ぶジェット機に乗ってやってきた日本人とがこのパブで会った。近代科学が生み出した高速の乗り物は、時間を越える旅も可能にするのである。
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