★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

父もこれを聞きて、いかがあらむ

2020-12-05 23:58:29 | 文学


かく、上る人々の中に、京より下りし時に、みな人、子どもなかりき、到れりし国にてぞ、子生める者ども、ありあへる。人みな、船の泊まるところに、子を抱きつつ、降り乗りす。これを見て、昔の子の母、悲しきに堪えずして、
  なかりしもありつつ帰る人の子をありしもなくて来るがかなしさ
といひてぞ泣きける。父もこれを聞きて、いかがあらむ。かうやうのことも、歌も、好むとてあるにもあらざるべし。唐土も、ここも、思ふことに堪へぬ時のわざとか


有名な場面だけれども、改めて読んでみると、「父もこれを聞きて、いかがあらむ」という言葉が気になる。中国でも日本でも思いに耐えられない場合に歌となってでてきてしまうのだ、という主張は分かる。しかし、「父」についてはここでは何も言っていない。父は、唐土と重ならないまでも結びつけられようとはするであろう。

思いに耐えられない場合に歌が、という主張も考えてみると誤解されている場合が多いのではなかろうか。普通は、思いを籠めるとか思いを歌にするとかいう感じで理解されているが、歌は、思いを重荷に思う場合にそれを消去する効果を持つのだ。

本居宣長の『さしいづるこの日の本の光よりこま唐土も春を知るらむ』、玉鉾百首中の歌などが落ちて結局、『しきしまのやまと心を人問はば朝日ににほふ山櫻花』が選定せられたのは、單にその場の群集心理に支配せられたといはうより、この歌の純粹性がその結論に導いたともいふことが出來るやうであつた。また宣長のこの歌が選ばれれば、眞淵の、『うらうらとのどけき春の心よりにほひいでたる山ざくら花』や、『唐土の人に見せばやみ吉野の吉野の山の山櫻花』が選に入つてもよささうに思はれるが、『大御田のみなわも泥もかきたれてとるやさ苗は我が君の爲』の選ばれたのは、農業増産に關係ある佳作であるので、委員は互に意識してこの歌を選定したのも一見識といふべきである。

――斎藤茂吉「愛国百人一首」に関連して


ある意味で、こういう試みが、唐土を引き合い出すときの繊細さを失わせてしまった。こういうことをやっていると、我々は私や日本を持つことはできるが、父や母というものを失うような気がしてならないのだ。