こは正太郎が身のうへにこそと、斧引き提げて大路に出れば、明けたるといひし夜はいまだくらく、月は中天ながら影朧々として、風冷やかに、さて正太郎が戸は明けはなして其の人は見えず。内にや迯げ入りつらんと走り入りて見れども、いづくに竄るべき住居にもあらねば、大路にや倒れけんともとむれども、其のわたりには物もなし。いかになりつるやと、あるひは異しみ、或は恐る恐る、ともし火を挑げてこゝかしこを見めぐるに、明けたる戸腋の壁に腥々しき血潅ぎ流れて地につたふ。されど屍も骨も見えず、月あかりに見れば、軒の端にものあり。ともし火を捧げて照らし見るに、男の髪の髻ばかりかゝりて、外には露ばかりのものもなし。淺ましくもおそろしさは筆につくすべうもあらずなん。
ここで何故血があちこちに流れている様なんかを描写しているのかよくわからない。この不明さは、「淺ましくもおそろしさは筆につくすべうもあらずなん」と言ってしまっている事態と響き合っている。わたくしは、そこを書かないことが文学ではないかと思うのだ。これは、なんというか――、文学をメタフィジカーのなすものだと言ってしまう三枝博音の文化論みたいなものを想起せざるを得ない。彼は、文学はフィジッックとは違うといいながら、文学についての説明が実にフィジカルな感じに止まっている。文学のものの見方は知的ではあろうが、形而上的であったり空想的であったりすることではなく、あり方が違うのである。この問題は放置すべきではなかった。唯物論研究会の科学史家という分類のおかげで、こういうタイプの論者を本来の敵と考えなかった学者たちがいけない。中村雄二郎なんか、たしか戸坂や三枝を発展させて西田哲学を超克できるみたいなことを言っていたような気がするが、それこそ、戦前のマルクス主義の、西田左派にあった欠点を繰り返すことになりはしないだろうか。星野芳郎みたいな人を含めた技術論の流れと近代文学派的なものとの関係はもう少し冷静に考えられるべき問題だ。後者が単に文学青年的に馬鹿であったとは思えないのである。
とはいえ、昭和14年の本で、三枝が、日本にあるのは自然ではなくて「道」だと言っているのは、面白かった。――というか、これでは完全に通俗右翼ではないか。いや、彼は本質的にそうなのである。
これは特に生産技術の上での独創に就いて述べたのであるが、単にそういう技術的な独創に就いてばかりでなく、もっと一般に、云わば精神的な独創に就いて迄も、この結果を一般化すことが出来ると思う。もし技術的な独創と精神的な独創とは本質上別なものだから、精神の世界では大衆的独創などあり得ないと主張する者がいるなら、彼は多分大衆的独創という言葉を誤解しているのであり、そうでなければ精神界の独創という言葉で何か勝手な幻影を楽んでいるからだろう。精神というものも広義に於て技術的な本質のもので、頭脳労働と筋肉労働との対立が資本主義的生産形式の一結果に過ぎないと同様に、精神と技術との対立はブルジョア・イデオローグの固定観念に過ぎない。私は独創というものが一般に技術的なものだということをもう一遍云っておきたいのである。
――戸坂潤「技術の哲学」
そりゃそうなんだが、それを言っただけでは、『古事記』や『源氏物語』は素晴らしい技術に支えられているという――いまでいえば、AIによって小説は書けるみたいな議論に似てしまうのだ。