★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

山を畏れよ

2020-12-24 23:23:59 | 文学


一人の武士かつ法師に問ひていふ。「此の山は大徳の啓き給うて、土石草木も霊なきはあらずと聞く。さるに玉川の流には毒あり。人飮時は斃るが故に、大師のよませ給ふ歌とて、
  わすれても汲やしつらん旅人の高野の奥の玉川の水
といふことを聞き伝へたり。大徳のさすがに、此の毒ある流をば、など涸ては果給はぬや。いぶかしき事を足下にはいかに弁へ給ふ」。


弘法大師が神通力をもっていることを前提にこのあと歌の意味を解釈し直しているのだが、むろん空海にはそんなものはない。努力していただけのはなしである。彼でも、怪しい川を止めることなんか難しい。山育ちのわたくしなぞ、山の水を容易に飲んではならぬというのは常識である。

「左右して、婦人が、励ますように、賺すようにして勧めると、白痴は首を曲げてかの臍を弄びながら唄った。
木曽の御嶽山は夏でも寒い、
   袷遣りたや足袋添えて。
(よく知っておりましょう、)と婦人は聞き澄して莞爾する。
 不思議や、唄った時の白痴の声はこの話をお聞きなさるお前様はもとよりじゃが、私も推量したとは月鼈雲泥、天地の相違、節廻し、あげさげ、呼吸の続くところから、第一その清らかな涼しい声という者は、到底この少年の咽喉から出たものではない。まず前の世のこの白痴の身が、冥土から管でそのふくれた腹へ通わして寄越すほどに聞えましたよ。


――泉鏡花「高野聖」


山の恐ろしさを思い知れ