水向の具物せし中に、木の端を刪りたるに、那須野紙のいたう古びて、文字もむら消して所々見定めがたき、正しく妻の筆の跡なり。法名といふものも年月もしるさで、三十一字に末期の心を哀れにも展たり。
さりともと思ふ心にはかられて世にもけふまでいける命か
いかに和歌に親しんでいたとはいっても、昔の人たちは、死ぬ間際にも歌を詠んだりするのだが、どういう頭をしていたのであろう。辞世の句なんかも戦前の人々はよくつくっている。ベートーベンが死んだときに「喜劇は終わった」とか言ったとか言わないとか伝わっているが、だれかは絶対長い間考えていたのだろう、と言っていた。辞世の句なんかも長い間考えておくものかも知れない。まさしく、結末から考えるようなポオ流のやりかただ。
上の歌なんかも、べつに命の最後にのべなくても、勝四郎と別れた直後でもあり得るような気がする。絶望というのは長い時間を予想させるから。
浅茅が宿の話は、和歌を主体としていない。このあと、万葉集にも載っている伝説が語られて、化け物話もっと長い時間の――歴史の中にむけて放たれている。こういう重ね書きは、和歌の本歌取り的なものとは違うような気がするのだ。
吉本隆明の『初期歌謡論』でも読み直してみよう……
このまえ「土佐日記」について授業ですこし喋ったんだが、今日小林秀雄の『本居宣長』読みなおしてたらわたくしの言ってたことは、「二十七」で言ってることの劣化バージョンだったな。こんな状態を超えなきゃ