新院呵々と笑はせ給ひ、「汝しらず、近来の世の乱れは朕なすこと事なり。生てありし日より魔道にこころざしをかたふけて、平治の乱れを発さしめ、死て猶、朝家に祟をなす。見よみよ、やがて天が下に大乱を生ぜしめん」といふ。西行此の詔に涙をとどめて、「こは浅ましき御こころばへをうけ給はるものかな。君はもとよりも聡明の聞えましませば、王道のことわりはあきらめさせ給ふ。こころみに討ね請すべし。そも保元の御謀叛は天の神の教給ふことわりにも違はじとておぼし立たせ給ふか。又みづからの人欲より計策給ふか。詳に告せ給へ」と奏す。
四国にやってきてそういえば崇徳院が流されたところであるなと気がつくのが遅かった。考えてみると、わたくしも木曽から流れてきておるぞ……。
それにしても、平治の乱はおれの為業だ、やがて大乱を起こしてみせようぞガハハハともはや、公家的なるものの欠片も残っていないようである。で、西行もちょっと生まれに問題ありそうなお方であるから、つい「これは浅ましいことを言われる」といきなり不敬罪で流罪というレベルの爆弾発言。しかしもうここまで勝手に流れてきている西行であるからいいのである。「あなた様はご聡明なお方であるはず」と言っても遅い。というか、我々教師は、学生を叱るときに「お前は出来るはず」とかどうしようもない嘘をはくことがあり、西行もその類いであろう。「で、ききたいんだけど、この屁みたいなレポートはなんですか、不可になりたいんですか?」みたいな口調で、「保元の乱は、神の道理にしたがったのですか、自分の私欲でやったんですか。」という愚問を放つ西行。そんな二項対立なわけないだろがっ
さて為朝は一日も早くおとうさんを窮屈なおしこめから出してあげたいと思って、急いで都に上りました。ところが上ってみておどろいたことには、都の中はざわざわ物騒がしくって、今に戦争がはじまるのだといって、人民たちはみんなうろたえて右に左に逃げ廻っていました。どうしたのだろうと思って聞くと、なんでも今の天子さまの後白河天皇さまと、とうにお位をおすべりになって新院とおよばれになった先の天子さまの崇徳院さまとの間に行きちがいができて、敵味方に別れて戦争をなさろうというのでした。朝廷が二派に分かれたものですから、自然おそばの武士たちの仲間も二派に分かれました。そして、後白河天皇の方へは源義朝だの平清盛だの、源三位頼政だのという、そのころ一ばん名高い大将たちが残らずお味方に上がりましたから、新院の方でも負けずに強い大将たちをお集めになるつもりで、まずおとがめをうけて押しこめられている六条判官為義の罪をゆるして、味方の大将軍になさいました。為義はもう七十の上を出た年寄りのことでもあり、天子さま同士のお争いでは、どちらのお身方をしてもぐあいが悪いと思って、
「わたくしはこのまま引き籠っていとうございます。」
といって、はじめはお断りを申し上げたのですが、どうしてもお聞き入れにならないので、しかたなしに長男の義朝をのけた外の子供たちを残らず連れて、新院の御所に上がることになりました。
――楠山正雄「鎮西八郎」
思うに、崇徳院の乱は、西行が神か私欲かみたいな地上に這いつくばった解釈とは違い、引きこもり解放運動であったのである。