一日父が宿にあらぬ間に、正太郎磯良をかたらひていふ。「御許の信ある操を見て、今はおのれが身の罪をくゆるばかりなり。かの女をも古郷に送りてのち、父の面を和め奉らん。渠は播磨の印南野の者なるが、親もなき身の浅ましくてあるを、いとかなしく思ひて憐をもかけつるなり。我に捨てられなば、はた船泊りの妓女となるべし。おなじ浅ましき奴なりとも、京は人の情もありと聞けば、渠をば京に送りやりて、栄ある人に仕へさせたく思ふなり。我かくてあれば万に貧しかりぬべし。路の代、身にまとふ物も誰がはかりごとしてあたへん。御許此の事をよくして渠を恵み給へ」と、ねんごろにあつらへけるを、磯良いとも喜しく、「此の事安くおぼし給へ」とて、私におのが衣服調度を金に貿、猶香央の母が許へも偽りて金を乞、正太郎に与へける。此の金を得て密に家を脱れ出で、袖なるものを倶して、京の方へ逃のぼりける。
正太郎は浮気者であって、吉備津の神主の家で、名家であった香田家の娘をもらったが、すぐに袖という遊女となじんでしまった。もっとも、結婚させればちゃんとするだろうと考えた両親、そしてよりにもよって神主の娘を連れてくる仲人が馬鹿であった。本物の遊び人は、そんなことでは、――というより、そんなことをすれば余計に逆効果だということが分からないのであろうか。
我々の文化は、なぜか最初にたてた形式論理によって頑張ってしまうところがある。この場合も、酒食を堅実な妻に置換すればすべてがオセロみたいに切り替わるだろうというのが形式論理なのだ。失敗すると、むりやりその実現をはかって、正太郎を家に閉じ込めるという手にでた。案の定、正太郎は自分に従う妻という事態を逆手にとってしまうのである。
或夏の夜、まだ文科大学の学生なりしが、友人山宮允君と、観潮楼へ参りし事あり。森先生は白きシャツに白き兵士の袴をつけられしと記憶す。膝の上に小さき令息をのせられつつ、仏蘭西の小説、支那の戯曲の話などせられたり。話の中、西廂記と琵琶記とを間違え居られし為、先生も時には間違わるる事あるを知り、反って親しみを増せし事あり。部屋は根津界隈を見晴らす二階、永井荷風氏の日和下駄に書かれたると同じ部屋にあらずやと思う。その頃の先生は面の色日に焼け、如何にも軍人らしき心地したれど、謹厳などと云う堅苦しさは覚えず。英雄崇拝の念に充ち満ちたる我等には、快活なる先生とのみ思われたり。
又夏目先生の御葬式の時、青山斎場の門前の天幕に、受附を勤めし事ありしが、霜降の外套に中折帽をかぶりし人、わが前へ名刺をさし出したり。その人の顔の立派なる事、神彩ありとも云うべきか、滅多に世の中にある顔ならず。名刺を見れば森林太郎とあり。おや、先生だったかと思いし時は、もう斎場へ入られし後なりき。その時先生を見誤りしは、当時先生の面の色黒からざりし為なるべし。当時先生は陸軍を退かれ、役所通いも止められしかば、日に焼けらるる事もなかりしなり。
――芥川龍之介「森先生」
思うに、正太郎は芥川龍之介のようなやつだったかもしれない。芥川も随分遊んだようである。しかし、森鷗外みたいに適当に間違えたり、面白い恰好をしてみたり、色白になったりする、こういう人間の言うことは聞くのであった。