傍にひとつの大魚ありていふ。『師のねがふ事いとやすし。待たせ給へ』とて、杳の底に去と見しに、しばしして、冠装束したる人の、前の大魚に跨がりて、許多の鼇魚を牽ゐて浮かび来たり、我にむかひていふ。
『海若の詔あり。老僧かねて放生の功徳多し。今江に入りて魚の遊躍をねがふ。権に金鯉が服を授けて水府のたのしみをせさせ給ふ。只餌の香ばしきに眩まされて、釣りの糸にかかり身を失ふ事なかれ』といひて去りて見えずなりぬ。
考えてみると、大魚が水の中に遊ぶ法師に寄ってくるのはいいが、――冠と装束を着けた人が大魚に跨がってやってくるところが素晴らしい。これがディズニーやスターウォーズだと、魚の顔をした人間が妙な動きをくねくねさせながら寄ってくることであろう。せっかく法師を魚にしてくれるのだから、してくれるひとは威厳がなくてはならぬ。ハリウッドは、魔法を使う連中がただの人過ぎて、みんなで魔法を使えるぜみたいな国民国家を愛でてしまうのだ。上の場合だと、魚になることとは、変身ではなく、「金色の服」を着ることであった。これはあながち間違いとは言えぬ。いまでも、変身は服を着ることで行われるではないか。
「夢応の鯉魚」は、石川淳の翻案ではじめ読んだ。教科書に載っていたのである。結局、高校の教科書に載っていた「山椒大夫」とか「心」よりも、「赤い繭」と「夢応の鯉魚」に惹きつけられたわたくしの出発地点はきまった。精神的放浪の話こそが、わたくしの文学のイメージとなったのである。
まだ分からぬが、安倍内閣がかくも長く続いたのに、ガースー内閣は案外短いかも知れない。庶民の酷薄さ、そのなかの感情の動きを認識しつづけることが、政治家たちの一番はじめに学ぶことであったはずが、最近は権力闘争に集中しすぎたせいか、それを忘れている政治屋が多いようだ。政治家だけではない。農協や医師会、国立大までが、うまく政治家を利用して依存しようと企んでいたら、相手もおなじような感じだったことに気がつくまもなくイジワルを受けている。権力闘争というのものの本質は、こういう相互の依存というやつだ。この依存というやつ、あいての感情を大幅に無視していないとできないところがある。だから繰り返しやっていると相手が何を考えているかわからなくなってしまうのだ。――だいたいこんなことは、親子関係の依存を反省してみればわかることだ。親子の依存関係は権力闘争なのである。吉本隆明のいう「関係」というのは、あれでもマルクス主義のそれとは別の理念的な概念なのである。キリストに託して語らなくてはならなかったんだから。そして、吉本もまずは詩の中で家族を捨て去ることによってそれを志向している。
我々は、法師のように、ひとりで水に入っていかなければならない。そうすると、魚がやってきていいことを提案してくれるかも知れない。