正太郎かなたに向ひて、「はかなくて病にさへそませ給ふよし。おのれもいとほしき妻を亡なひて侍れば、同じ悲しみをも問ひかはしまゐらせんとて推て詣で侍りぬ」といふ。あるじの女屏風すこし引きあけて、「めづらしくもあひ見奉るものかな。つらき報ひの程しらせまゐらせん」といふに、驚きて見れば、古郷に残せし磯良なり。顔の色いと青ざめて、たゆき眼すさまじく、我を指たる手の青くほそりたる恐ろしさに、「あなや」と叫んでたふれ死す。
わたしはボードレールのいう芸術家がプロスティテュートであるという考えが好きではないが、確かに、対等にコミュニケートするといった幻想が著者読者双方にあるみたいな感覚ももっといやである。わたくしはもっと蝉みたいな芸術家がイイとおもう。ただ鳴き始めるようなものだ。
このまえブルトンの「超現実主義宣言」を読み直したが、つねに読者に対して「そんなことは言うまでもないこだから語らない」式のレトリックを使っていながら、一つのことをかなり長くしつこく語っていて、これはこれで説得の方法であると思った。前衛は、つい話題をすぐに変えがちである。
上の女なぞ、読者の意表をつく点で蝉みたいなものだ。「めづらしくもあひ見奉るものかな」という言い出し方が絶妙である。思い出してみると、蝉もその歌い出し方が絶妙である。
「やツ!」と叫んで、いきなり柱のてつぺんへ飛びついた。……しつかりと、出来るだけ体を小さくして、しがみついた。そして眼を瞑つて、左手で軽く鼻をつまんで、
「ミーン、ミーン、ミーン。」と高らかに鳴いた。「ミーン、ミンミン、ミーン。」
一寸静まつた大広間中に、ミンミン蝉の鳴き音が、夏の真昼の静けさを思はせて、麗朗とこだました。[…]木枝の影に蝉が一匹止つてゐる。夏を惜んで切りに鳴き続けた――悪気なんて毛頭あつた筈はない、滝野はたゞさういふ閑寂な風景を描出したつもりなのだ。懸命になつて一幅の水彩画を描き、点景として蝉を添へたのだ。
――牧野信一「蝉」
牧野もこんなふうに蝉の鳴き声を表現しているが、やはり観察が足りなかった。だから受けなかった。しかし、だからといって
だが彼は、もう少しの間見物人が静かだつたら――そこに悪童が現れて、袋竿で憐れな蝉を捕獲しようと忍び寄る風情を、鳴き続けてゐる蝉の細い思ひ入れで現し、悪童の接近を意識した蝉は、未だ未だ大丈夫だといふ風に歌ひながら静かに梢を回り、いよいよ袋が近付いた瞬間に、(どつこい、さうはゆかない、あばよ。)とばかりに、尿を放つて空中に舞ひ上る――ところでこの演技を終らす考へだつたが、――そんなことをしないで好かつたと思つて秘かに胸を撫で降した。
といった放水はよくない。昨日、「午後の遺言状」という映画を観たが、ここでも水が死の象徴みたいになっていてコップの水から、老人達の海中への心中、棺桶の釘を打つ石を川に放り投げるところまで、生きること、すなわち演技することに併走している。杉村春子の演技というのは、演技か本気かよく分からんみたいなところまで演技するところにすごさがある。蝉であってはならなかった。これがリアリティの本性なのである。映画そのものが演技とは何かというのがテーマであった。心中する老夫婦もそうだし、それをなぞってみる杉村と乙羽も「演技」をしている。主役級の中で演技そのものを職業としない唯一の人物が乙羽信子で、彼女こそが実は癌で死にかかりながら演技してて公開時にもういないという事情も情報として含んだ作品であった。
もっとも、生を賭して歌うことを、死ぬことを以て証明するのは読者や観客に対してはかなりフェアではない。わたくしはどちらかというと、このアンフェアさがないと作品を享受する気にならない。