我そのとき人々にむかひ、声をはり上げて、『旁等は興義をわすれたまふか。宥させたまへ。寺にかへさせたまへ』と連りに叫びぬれど、人々しらぬ形にもてなして、ただ手を拍つて喜びたまふ。鱠手なるものまづ我が両眼を左手の指にてつよくとらへ、右手に礪ぎすませし刀をとりて、俎盤にのぼし既に切るべかりしとき、我くるしさのあまりに大声をあげて、『仏弟子を害する例やある。我を助けよ助けよ』と哭き叫びぬれど、聞き入れず。終に切らるゝとおぼえて夢醒めたり。」とかたる。
今日ゼミで、芥川龍之介の「杜子春」や「河童」の動物の機能に考えたが、動物によって却ってヒューマニズムが生じたりする現象は近代文学の重大問題のようにおもえたのだった。ここでもこの坊主は魚だからいいのだ。これは犬でも猫でも駄目で、魚というところが、仏弟子の叫びというものと非常に合っている。杜子春の母が馬でなければならないように。我々は、いまだにものを語る場合に動物を必要とする。
昔は、よく名前にも虎とか龍とかがついておった。名前はそもそもアニミズム的なものなのであった。
「この魚を逃がしてやろうか。」と、一人がいいました。
「ああもう、だれも捕まえないように大きな河へ逃がしてやろう。」と、もう一人がいいました。子供たちは、三びきのきれいな魚を町はずれの大きな河へ逃がしてやりました、その後で子供たちは、はじめて気がついていいました。
「あの三びきの赤い魚は、はたして、魚のお母さんにあえるのだろうか?」
しかし、それはだれにもわからなかったのです。子供たちはその後、気にかかるので、いつか三びきの赤い魚を捕まえた川にいってみましたけれど、ついにふたたび赤い魚の姿を見ませんでした。
夏の夕暮れ方、西の空の、ちょうど町のとがった塔の上に、その赤い魚のような雲が、しばしば浮かぶことがありました。子供たちは、それを見ると、なんとなく悲しく思ったのです。
――小川未明「赤い魚と子供」
ここで、子供が「子供」と呼ばれていることが重要で、こいつらが、魚屋の鯛介とかなまえがあったなら全然違う話になりかねないのである。我々は、アニミズムのために、名前を捨てることもあるのであった。