九日はいつもより疾く起出て、草の屋の席をはらひ、黄菊しら菊二枝三枝小瓶に挿、嚢をかたふけて酒飯の設をす。老母云ふ。「かの八雲たつ国は山陰の果にありて、ここには百里を隔つると聞けば、けふとも定めがたきに、其の来しを見ても物すとも遅からじ」。左門云ふ。「赤穴は信ある武士なれば必ず約を誤らじ。其の人を見てあわたたしからんは思はんことの恥かし」とて、美酒を沽ひ、鮮魚を宰て厨に備ふ。
「菊花の約」の一節であるが、老母の役割というのは「蜻蛉日記」のお母さんとは対照的で、合理的に見える。わたしの二人の祖母を思い返しても、――肝心なときの合理性を教えてくれるのは祖母という記憶がある。少し東浩紀氏の『ゲンロン戦記』というのを読んだが、氏が言論のプラットフォームをつくってきた苦労話みたいな本であった。そこで、氏は、組織がどのようなものによって支えられているのか思い知ったようなエピソードを連ねている。これは、東氏へのインタビューを構成した本で、東氏特有のねちっこく少し気取った文体は薄まっている。氏はそのようなものを捨ててしまったのだ。組織を支えるものはそういうものではなく、もっと目立たない「其の来しを見ても物すとも遅からじ」といったような判断の適切性なのである。それはある場合には間違っているかも知れないが、そのような判断がない組織は崩壊する。
わたしは、「批評空間」でのシンポジウムでの東氏の孤立ぶりを目撃して以来、この能力のある人はかなり廻り道をするぞと、生意気にも思い、――何が批評にとって実現可能なのかといえば、教師という道しかあるまいと自己合理化を図っていたわけである。しかし、大学は予想を超えておかしなところに行ってしまった。東氏もどこかで、学生とのコミュニケーションの方法を命令されているような大学では学生にまともな教育をするなんて無理、みたいなことを言っていたような気がする。もっとも、私は、「砂の女」の主人公の結末のように、穴の中にとどまることこそ上の老婆のような役目である可能性でもあると思ったのだ。
「成程な、死人の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚だと云うて、太刀帯の陣へ売りに往んだわ。疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料に買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」
老婆は、大体こんな意味の事を云った。
――芥川龍之介「羅生門」
思い返してみると、ここでも下人を諭したのは老婆であった。女が男がという話は好きじゃないが、コロナでずぶずぶに滅びつつあるように思われる我が国に、よい意味で老婆や老母のような存在がおらず、半端な自尊心の保持に躍起になっている爺達ばかりが物事を決定しているのはまずいのだ。非常にまずいと言わざるを得ないが、――若者がおとなしくへいこらしているのもよくない。