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猶俤の露忘れがたく、しばしまどろむ暁の夢に、かの真女児が家に尋ねいきて見れば、門も家もいと大きに造りなし、蔀おろし簾垂こめて、ゆかしげに住みなしたり。真女児出で迎ひて、「御情わすれがたく待ち恋奉る。此方に入られ給へ」とて、奥の方にいざなひ、酒菓子種々と管待しつつ、喜しき酔ごごちに、つひに枕をともにしてかたるとおもへば、夜明けて夢さめぬ。現ならましかばと思ふ心のいそがしきに朝食も打ち忘れてうかれ出でぬ。
ここでも夢が覚めてしまうところが残念である。別に覚めなくても悪夢でも何でも襲ってくるだろうに、と思うからだ。夢を夢と言うことがよいとは限らない。高坂正顕が『民族の哲学』のなかで、我が国が日米会談、そして開戦に進んだのは「世界史的必然性」があったからだと述べている。高坂は本当はそれを『現実です』と言うことも出来たはずである。夢心地で推移して行くものに対して、「世界史的必然性」とだけだと夢の本性をかえって呼び寄せる気がするので、彼は「ランケのいふ見えざる神の手が働いた」とも言っている。必然性よりも神の方が優しそうな気がしたのであろうか。いずれにせよ、夢の推移をきちんと見ようとはしていないのであった。それを夢だと言えばいいと思っていたのである。だいたい、戦争によって却って明らかになる「形而上の真理」とはなんであろうか。急にそんなものが見えるはずはない。見えるのは、戦争によってではなく、死体とか瓦礫や裏切りによってである。夢を見ていようとそうでなくても関係がない。
無論、真理の開示?があってもそれが精神の解放をもたらすとは限らない。上田秋成とは対極的であろうとしたのか、本居宣長の方は、別の解放を予感していたに違いない。この二人の対立は、近代にも及んでいる。
今年は、ゼミ生と一緒に安吾の「堕落」の有効性やら具体性について考えたんだが、考えてみると、堕落が具体性をもたない言葉であることも重要なことであった。それ自体に開放感が少しだけ伴っている。
彼の持ち前の図々しさと自惚れは、まだ彼をその堕落の淵に目ざめすことができないのです。私は彼の目ざましかった初期の運動に対する熱心さや、彼の持っている、そして今は全く隠されているその熱情を想うたびに、彼のために惜しまずにはいられません。が、邪道にそれた彼の恐ろしい恥知らずな行為を、私は決して過失と見すごすことはできないのです。
――伊藤野枝「ある男の堕落」
わたくしは、これを安吾とは別のケースとは考えない。