淡路と聞えし人、にはかに色を違へて、「はや修羅の時にや。阿修羅ども御迎ひに来ると聞え侍る。立たせ給へ」といへば、一座の人々忽ち面に血を灌ぎし如く、「いざ石田・増田が従に今宵も泡吹せん」と勇みて立ち躁ぐ。秀次、木村に向はせ給ひ、「よしなき奴に我が姿を見せつるぞ。他二人も修羅につれ来れ」と課せある。老臣の人々かけ隔たりて声をそろへ、「いまだ命つきざる者なり。例の悪業なせさせ給ひそ」という詞も、人々の形も、遠く雲井に行くがごとし。
夢然親子が会ったのは豊臣秀次一行であった。高野山で自害された御仁である。親子は恐ろしさで気絶する。
わたくしは、この全く反省も怒りもなさそうな秀次が、崇徳院の天狗よりも好きだ。あの世にも、日常というものがないといけないと思うのだ。崇徳院みたいな人はこっちでも非日常的なお人であったが、あっちに行っても更に非日常であった。日常をかたちづくる能力を大人という。最近は、ぎりぎり反抗したり文句をいったりするような地点まではゆくが、そのあと、責任を負って黙るということをできないガキみたいなやつが多い。中2病という言葉がはやったのは、みんなそれを克服できていない自覚があったからである。秀次は、部下に「いつものおふざけは止めなさい」と諫められているが、それでちゃんと止めている。崇徳院なんか、いまでも怨みは消えていない。たぶん、平家だけなく、江戸幕府が滅んだのも彼のせいだし、わたくしがいまいちな能力なのも彼のせいである。
誰かが過剰に怨みを抱けば、そこを起点にして因果が起こってしまうのだ。そしていうまでもなく、それらはたいがい出鱈目である。だから宗教者やマルクスなんかが因果の起点は未来にせよとかいうてくる。もっとも、それはなんだか命令なので人々はなかなか言うことを聞かない。
これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)
――宮澤賢治「春と修羅」
宮澤賢治は、怨みが外に流れ出さないように、「わたくし」のなかにいろいろと封じ込めた。そのために、彼は、「わたくし」を閉じ込めないで、「みんなのおのおの」のなかに分散させた。彼は全てを畏れながら、何も畏れない。