★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

禽を制するは気にあり

2020-12-26 23:36:45 | 文学


死て蠎となり、或は霹靂を震うて怨みを報ふ類は、其の肉を醢にするとも飽べからず。さるためしは希なり。夫のおのれをよく脩めて教へなば、此の患おのずから避べきものを、只かりそめなる徒ことに、女の慳しき性を募らしめて、其の身の憂をもとむるにぞありける。「禽を制するは気にあり」といふは、現にさることぞかし。

こういうところをつかまえて、すぐジェンダー観だとか言ってしまう人も多いのだが、人間関係では、どちらかが教え導くということはいつもあり得るし、それなくして事態がおさまると考えるのは甘い。我々の社会が忘れたのは、自意識の厄介さであって、問題をじっくり時間をかけてお互いが傷つかずにいるということはありえない。瞬間であっても人間関係はシーソーみたいなものになるのは避けられず、それでこそなんとか解決した体で進んで行く。つまらない自意識のためにそういう人間関係のシーソーが出来なくなっているから、かえって、理や立場の違いを仮構すればいいということになる。仮構性は暴力となる。わたしを権力とみなしなさい、そして言うことを聞きなさい、――こういう二重性がないとこういう仮構は成り立たない。かえって厄介なことになっているのがわかるであろう。わたくしは、「かのやうに」の戦略もだから鷗外が考えた以上に?機能しないと考えているのである。

最近、授業で江藤淳の用いた「精神の自由」を「建前」とする、という考えについて扱ったが、学生は、建前と言うことは本音があるに違いないととった。しかし、「精神の自由」の対義は、義務や規則や現実ではなく、「精神の不自由」なのである。建前でもなんでもなく、精神の単なる自由は精神の中で自由でしかありえない。江藤は、そんなこともわからずに、自分の職業の中に不自由を感じているのはくだらないから、本義を思い出せといっているにすぎない。彼が恐れていたのは、あまりに人間の一生を「業」で考えるような修身の教科書が内面化されてしまった結果、精神の領域が存在することさえ分からなくなってしまった人間である。

一方、私は江藤の愚痴にも何かおかしいところがある気がするのだ。福田和也氏が「江藤氏の「喪失」には、主体性がないのである。自ら獲得の夢に憑かれて失ったという経験がなく、救いがたく一方的に貴重なものを剥ぎ取られていくばかりなのだ」とか「江藤淳と文学の悪」で言っていた。わたしもこの発言は分かる気がする。江藤淳はまさしく、柄谷行人の前触れであった。

この野蛮人もしくは、原始人の皮を今一度剥くってみると、その下には畜生……すなわち禽獣の性格が一パイに横溢している事が発見される。たとえば同性……すなわち知らない男同志か、女同志が初対面をすると、一応は人間らしい挨拶をするが、腹の中では妙に眼の球を白くし合って、ウソウソと相手の周囲を嗅ぎまわる心理状態をあらわす。油断をすると相手の尻のあたりまで気を廻して、微細な処から不愉快な点を発見して、お互いに鼻に皺を寄せ合ったり、歯を剥き出し合ったりする気持をほのめかす。ウッカリすると吠え立てる。噛み付く……町の辻で出会った犬猫の心理と全然同一である。


――夢野久作「ドグラ・マグラ」


文学をそれこそ建前にしていた場合はそうでもないが、そうできない人々は、次々にこのような認識に流れていってしまう。コロナで我々の国がどうなるかはともかく、その結末には、このような風景が広がっている違いない。そして、上田秋成のような「気」をひたすら重視するせりふの再登場だ。最近、わたくしは、だったら本居宣長のほうがよいと考えがちだ。